「自然はその歯と爪で血を喰らう」(拙者訳)。
これは1800年代に生きたイギリスの桂冠詩人テニソンの言葉。
そのテニソンだが、
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実に神は愛なり、
愛こそ天地創造の究極の法なり、
そう信じてきた人間。
されど、自然はその歯と爪で血を喰らい、
餌食を口にくわえ、血を滴らせながら、その鋭く甲高い声をあげて、神の信条に牙をむく。
・・・・・・
とまあ、嘆息する。
そういう「自然はその歯と爪で血を喰らう」生々しい世界に生きていて、「悲嘆にくれる」人たちは少なくない。
たとえば、アメリカを代表する詩人のシルヴィア・プラスもそうだった。
シルヴィア・プラスと言えば、ガスオーブンに頭を突っ込んで1963年に自殺したことでも知られている詩人。彼女が8歳のときに病気で他界した父親に執着するあまり、それまでも自殺未遂を図ったことがあった。父親に対する想いを「ダディ(お父さん)」という詩に綴っているが、そこに父親は「ナチス」という「捕食者」として登場する。その一方で、シルヴィアは自分自身をその「犠牲者」として描き、あの「自然はその歯と爪で血を喰らう」の犠牲者を地で行くような人。
そんな亡父に執着するシルヴィアが結婚することになったのが、これもまた詩人のテッド・ヒューズ。しかも、テッドは申し合わせたような「捕食者」であった。結局、シルヴィアはテッドに見捨てられることになる。こうして父親についで、またもや見捨てられる。
これぞ、まさしく「神は愛なり」なのだが・・・・・・。
悲嘆の末、ほんとうに自殺してしまう。
シルヴィアは、父親が他界したとき、こう語ったと言われる。
「神には二度と話しかけない」
その「神」だが、テニソンの「神」とどこか似てないだろうか?
「神は愛なり」だと言うが、テニソンにせよ、シルビアにせよ、
その「愛」を誤解していたゆえの悲嘆だったのではないだろうか?
なぜなら、まさに「自然はその歯と爪で血を喰らう」世界こそが、「神は愛なり」だと言えるのだから。