
PJの異端児フォース アベニュー
なかなか皆さんの記事が出てこないので、場つなぎに『誰も知らない』フォースの過去を少しだけ暴露をする事にします。間違ってっても恨みっこなしで御願いします。。
フォースの発祥は関西学院高等部のタッチフットボール部の一部メンバーが集まって流行のフォークソングをやってみようと始めたのがきっかけでした。。
もちろん、皆当時流行のアイビースタイルに影響を受け、なんと言ってもギターを弾いて歌う事が女の子にもてる最短の道だと思い込んだところに問題があるのですが!仲間の一人に口うるさいやつがいて、彼はその時点で既にギターの弾き語りが出来るようになっていました。その彼指導のもと5-6人の男ばかり(高等部は男子校)が関学の中央芝生にあつまりギターを弾きながら(というよりただ弾く振りをして)ダベっていたのが始まりです。
皆がギターのコードC.F.G7をようやく覚えたころ、自分のギターセンスの限界を感じた米田がベースをすると自分で言い出し,早速大きなベースを買いに行ったのを思い出します、ちょうど高校2年の頃でした(1965年6月頃)。数人のメンバーが入れ替わり立ち代わりしたあと、最後に残ったのが清水、村田、橋本、米田の4人でした、この集団に名前をつけたのはバンドのコーチ役の猪飼でした。4名だから『Fourth Avenue Quartets』 ではといういとも簡単な発想ですぐに決定、そんな通りがNYにあったかなーと疑問に思いながら!!!(実は4th Avenueはマンハッタンに存在します。。念のため。)この名付け親の猪飼が PPM, Kingston Trio, Brothers Fourと言ったバンドを教えてくれました。ジョーンバエズもそうかな?この年の9月10日にはブラフォーのコンサートを皆で聴きに行ってます。一番印象に残っているのは、彼が神戸のレコード屋で買ってきた廃盤になったレコードです。(これには、猪飼の友達だったエンドレスの平井氏も絡んでいそおう!)、その頃まだ日本ではサイモンとガーファンケルは名前が出ていませんでした、当然タイトルの『Wednesday Morning, 3 AM』も初めて見た代物(しろもの)です。簡単なコードの曲を選んで皆で音を拾って練習始めました。その後、ドラムの入った『sound of silence』がアメリカで大ヒットをして日本でもSGブームに火がつきました。。
フォースアベニューカルテットの最初のライブは関学の高等部に作った野外仮設ステージだったような気がします。その後、国際会館での高等部文化祭で3-4曲歌ったのがメージャーデビューでした。メンバーで積極的だったのは意外と米田でした。農業会館で行われた最初のport Jubileeを米田の指示のもと皆で聴きにいきました。。ステージのバンドが皆格好良くて、これは何とかポートに出れる様に頑張らなくてはと、今までの『間違った望み』を捨ててギターと歌の練習に励む様になりました。まず、何度か大学で既に活動を本格的に始めていたKGQにオーディションをしてくれと頼み込みに行きました。(結構しつこく食い下がった!)しかたなく?まだ高校生の僕らをかわいがってくれたのは、この先輩バンドのKGQのメンバーでした。手取り足取りでバンドのコーチもしてもらいました。その後、島やんに紹介され、一歩一歩PJのステージに近づいていったのです。いつどうオーディションに受かったのか記憶がなくなっているのです、島やんにもまたまたかわいがられたのですがこれに関しては後で少しずつ書いていきます。続く。。。。。。。。と思う。。。。
なかなか皆さんの記事が出てこないので、場つなぎに『誰も知らない』フォースの過去を少しだけ暴露をする事にします。間違ってっても恨みっこなしで御願いします。。
フォースの発祥は関西学院高等部のタッチフットボール部の一部メンバーが集まって流行のフォークソングをやってみようと始めたのがきっかけでした。。
もちろん、皆当時流行のアイビースタイルに影響を受け、なんと言ってもギターを弾いて歌う事が女の子にもてる最短の道だと思い込んだところに問題があるのですが!仲間の一人に口うるさいやつがいて、彼はその時点で既にギターの弾き語りが出来るようになっていました。その彼指導のもと5-6人の男ばかり(高等部は男子校)が関学の中央芝生にあつまりギターを弾きながら(というよりただ弾く振りをして)ダベっていたのが始まりです。
皆がギターのコードC.F.G7をようやく覚えたころ、自分のギターセンスの限界を感じた米田がベースをすると自分で言い出し,早速大きなベースを買いに行ったのを思い出します、ちょうど高校2年の頃でした(1965年6月頃)。数人のメンバーが入れ替わり立ち代わりしたあと、最後に残ったのが清水、村田、橋本、米田の4人でした、この集団に名前をつけたのはバンドのコーチ役の猪飼でした。4名だから『Fourth Avenue Quartets』 ではといういとも簡単な発想ですぐに決定、そんな通りがNYにあったかなーと疑問に思いながら!!!(実は4th Avenueはマンハッタンに存在します。。念のため。)この名付け親の猪飼が PPM, Kingston Trio, Brothers Fourと言ったバンドを教えてくれました。ジョーンバエズもそうかな?この年の9月10日にはブラフォーのコンサートを皆で聴きに行ってます。一番印象に残っているのは、彼が神戸のレコード屋で買ってきた廃盤になったレコードです。(これには、猪飼の友達だったエンドレスの平井氏も絡んでいそおう!)、その頃まだ日本ではサイモンとガーファンケルは名前が出ていませんでした、当然タイトルの『Wednesday Morning, 3 AM』も初めて見た代物(しろもの)です。簡単なコードの曲を選んで皆で音を拾って練習始めました。その後、ドラムの入った『sound of silence』がアメリカで大ヒットをして日本でもSGブームに火がつきました。。
フォースアベニューカルテットの最初のライブは関学の高等部に作った野外仮設ステージだったような気がします。その後、国際会館での高等部文化祭で3-4曲歌ったのがメージャーデビューでした。メンバーで積極的だったのは意外と米田でした。農業会館で行われた最初のport Jubileeを米田の指示のもと皆で聴きにいきました。。ステージのバンドが皆格好良くて、これは何とかポートに出れる様に頑張らなくてはと、今までの『間違った望み』を捨ててギターと歌の練習に励む様になりました。まず、何度か大学で既に活動を本格的に始めていたKGQにオーディションをしてくれと頼み込みに行きました。(結構しつこく食い下がった!)しかたなく?まだ高校生の僕らをかわいがってくれたのは、この先輩バンドのKGQのメンバーでした。手取り足取りでバンドのコーチもしてもらいました。その後、島やんに紹介され、一歩一歩PJのステージに近づいていったのです。いつどうオーディションに受かったのか記憶がなくなっているのです、島やんにもまたまたかわいがられたのですがこれに関しては後で少しずつ書いていきます。続く。。。。。。。。と思う。。。。

そう言えば、KGQの推薦でPJに入って来たので特にオーディションなどなかったのではないでしょうか。
まだ入り口ですな。続編を期待してま~す。
確か、猪飼さんというのはEndlessの平井さんと仲が良くて、Endlessのテーマ・ソング”海の若者”か”うない乙女”の作詞・作曲OR盗作(?)にもからんでおられるのではなかったかしら?
そうでしたねェ~?カツオさん!
20数年前ワテが北の新地を這いずり回ってた頃堂島のバー”サンボワ”でよく会いました。
海の若者も彼からんでます。
ある日エンドの練習に来た時、彼がフィル・オックスの、”メドガーエバース?エドガーメバース?のバラードを弾き語りで聞かしよったんです。なかなかええやんか。と言うことで、エンドがやることになったが。
歌詞が長い・・・平井が覚えられない、舌が回らんので日本語の歌詞つけたんがあの名曲”海の若者”
です。22日・40年ぶりに演奏します。
東西線が遠てからめちゃ便利になっったので。。
無理矢理PPMをかけさせる無茶も相変わらずです。。