コメントのお返事が、遅くなって・・・
ごめんなさい ゆっくりお返事書きますね~
もう11月・早いなぁ~ あちこちで、雪つりが始まっています
冬の、準備してますか
続きで~す
10月24日(日)
いざ出陣・・・
バカ殿は、観音寺城と小谷城と迷いに迷い、小谷城にしました
小谷城・尾根の中腹
金吾丸
バカ殿しゃ~ん・・・出陣は、まだでしゅかぁ~ by もも
何を、もたもたしてるでしゅかぁ~ 敵にやられるでしゅよ~ッ by もも
琵琶湖が、綺麗です
黒金門 鉄を使った頑丈な門があったそうです
今は崩れているが、当時、総石垣で組まれていたことを思わせる
浅井長政が、織田軍に最後の突撃を敢行した所です
その勇姿を偲びながら・・・
疲れるでしゅね~ by もも
浅井氏と家臣の供養塔に、お手手あわせて・・・合掌するももちゃん
ももちゃん、偉いぞぉ~ッ 凄いぞぉ~ッ
本丸手前、大広間跡
ん 何奴じゃ~ッ
(なぁ~んだ、じいさんかぁ~)
本丸の石垣 崩れているのはなぜか
落城の後・・・ 秀吉が、長浜城を築城の時ここの石垣を、再利用したそうです
(ボランティアの方が、話してくれました)
大堀切から見る本丸
中の丸と本丸の間の大堀切 幅25メートル 大変な土木工事である
また、ここは浅井軍と秀吉軍の激しい攻防戦の舞台ともなった
京極丸
秀吉が夜半に、3000の兵を率い敵の不意を突き左側の清水谷より攻め立て此処を落とし
本丸の長政と京極丸のすぐ上の小丸に籠もる久政親子の連絡を遮断し、落城を早めた場所である
(秀吉の調略により京極丸、その下の中丸の武将を内応させ秀吉軍を引き入れた説の方が有力かも)
小谷城の主郭最上部山王丸の石垣
山王丸の東側を支える大石垣
当時これだけの石垣を、組む技術者集団を持って、北近江を支配していた浅井氏の力がうかがえる
(寺社勢力との相互協力)
崩れた石垣がどこか落城の悲しさを物語る
でもでもでもでも~ ももにはかんけーなぁ~い
そんなの関係なぁ~い ハイ・オッパッピー
しかし昔の人は凄い
空荷でさえここまだ来るのに体力が要るのに、15キロ~20キロの甲冑を着て面頬被り
太刀を佩き槍を持ってけもの道のような所を、矢玉を放つ城兵を討ちながら、よくぞよくぞ
向こうに見える小高い山が虎御前山
平地を隔てて500メートル 小谷城攻略のため織田信長が陣城を築いた場所である
伝えるところによると虎御前山山頂部の曲輪が織田信長、北側の尾根、小谷城から一番近い所に羽柴秀吉
その右側の尾根に柴田勝家、左に佐久間信盛、本陣後方に堀政秀、滝川一益など堂々たる布陣である
当時、織田の幟や旗が虎御前山一面翻っていたであろう景色を久政、長政親子、信長の妹お市の方は
どのような思いで見ていたのだろうか
そのような事を、思いながら帰路につきました
敗者の側から見る歴史もなかなかですよ
この日は、人が結構いたのでノーリードはなしでした・・・ももちゃん残念
でも~ 途中道で、海で思いっきりノーリードで走ったのよぉ~ッ
(後日、さらり~んとアップ予定で~す)
バカ殿は、歴史大好き人間なので~
よくわかんなぁ~い文章だったかもしれませんが、読んで下さった方には感謝です
ママは、さっぱりわかんなぁ~いですが・・・ (なんとかブログ完成しました)
長々と聞かされて、右の耳から入って左の耳から出ていったとさぁ~
とりあえずこれにて終了で~す
ありがとうございました
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ごめんなさい ゆっくりお返事書きますね~
もう11月・早いなぁ~ あちこちで、雪つりが始まっています
冬の、準備してますか
続きで~す
10月24日(日)
いざ出陣・・・
バカ殿は、観音寺城と小谷城と迷いに迷い、小谷城にしました
小谷城・尾根の中腹
金吾丸
バカ殿しゃ~ん・・・出陣は、まだでしゅかぁ~ by もも
何を、もたもたしてるでしゅかぁ~ 敵にやられるでしゅよ~ッ by もも
琵琶湖が、綺麗です
黒金門 鉄を使った頑丈な門があったそうです
今は崩れているが、当時、総石垣で組まれていたことを思わせる
浅井長政が、織田軍に最後の突撃を敢行した所です
その勇姿を偲びながら・・・
疲れるでしゅね~ by もも
浅井氏と家臣の供養塔に、お手手あわせて・・・合掌するももちゃん
ももちゃん、偉いぞぉ~ッ 凄いぞぉ~ッ
本丸手前、大広間跡
ん 何奴じゃ~ッ
(なぁ~んだ、じいさんかぁ~)
本丸の石垣 崩れているのはなぜか
落城の後・・・ 秀吉が、長浜城を築城の時ここの石垣を、再利用したそうです
(ボランティアの方が、話してくれました)
大堀切から見る本丸
中の丸と本丸の間の大堀切 幅25メートル 大変な土木工事である
また、ここは浅井軍と秀吉軍の激しい攻防戦の舞台ともなった
京極丸
秀吉が夜半に、3000の兵を率い敵の不意を突き左側の清水谷より攻め立て此処を落とし
本丸の長政と京極丸のすぐ上の小丸に籠もる久政親子の連絡を遮断し、落城を早めた場所である
(秀吉の調略により京極丸、その下の中丸の武将を内応させ秀吉軍を引き入れた説の方が有力かも)
小谷城の主郭最上部山王丸の石垣
山王丸の東側を支える大石垣
当時これだけの石垣を、組む技術者集団を持って、北近江を支配していた浅井氏の力がうかがえる
(寺社勢力との相互協力)
崩れた石垣がどこか落城の悲しさを物語る
でもでもでもでも~ ももにはかんけーなぁ~い
そんなの関係なぁ~い ハイ・オッパッピー
しかし昔の人は凄い
空荷でさえここまだ来るのに体力が要るのに、15キロ~20キロの甲冑を着て面頬被り
太刀を佩き槍を持ってけもの道のような所を、矢玉を放つ城兵を討ちながら、よくぞよくぞ
向こうに見える小高い山が虎御前山
平地を隔てて500メートル 小谷城攻略のため織田信長が陣城を築いた場所である
伝えるところによると虎御前山山頂部の曲輪が織田信長、北側の尾根、小谷城から一番近い所に羽柴秀吉
その右側の尾根に柴田勝家、左に佐久間信盛、本陣後方に堀政秀、滝川一益など堂々たる布陣である
当時、織田の幟や旗が虎御前山一面翻っていたであろう景色を久政、長政親子、信長の妹お市の方は
どのような思いで見ていたのだろうか
そのような事を、思いながら帰路につきました
敗者の側から見る歴史もなかなかですよ
この日は、人が結構いたのでノーリードはなしでした・・・ももちゃん残念
でも~ 途中道で、海で思いっきりノーリードで走ったのよぉ~ッ
(後日、さらり~んとアップ予定で~す)
バカ殿は、歴史大好き人間なので~
よくわかんなぁ~い文章だったかもしれませんが、読んで下さった方には感謝です
ママは、さっぱりわかんなぁ~いですが・・・ (なんとかブログ完成しました)
長々と聞かされて、右の耳から入って左の耳から出ていったとさぁ~
とりあえずこれにて終了で~す
ありがとうございました
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城跡巡り楽しめましたか??
石垣が崩れて、ここに城が本当に??って感じですよね。。沖縄に旅した時やはり城跡??
って、教えられるまで「う~~~ん・・・」
でした(^'^)しかし、戦(いくさ)で鎧を着て
走ったりできた昔の人は命かけるだけあって
すごい!!・・・・・。
先日は、お会いできて楽しかったです
ありがとうございました
城跡巡りは、とっても楽しいですよ
山城なら軽登山でもあるし・・・
犬と行けば熊よけにもなるし・・・
沖縄に行かれたんですね
我が家も、行ったことあるんですよ
確かに、城跡って言われないとわからないところだらけですよね
そして、昔の武士は一つの所(土地・所領)に命を懸けたんですよ
(↑ 一生懸命の語源ともいわれています)
コメントくださって、ありがとうございました