大竹あつ子の西東京市・町歩きレポート

西東京市在住の大竹あつ子が様々なニュースや、人とのふれあいの中で感じたこと、気付いたことなどをご報告します。

男性・女性ではなく個性が尊重される社会へ

2014年10月10日 | 日記

西東京市の「公民館をよりよくする会」に昨年投稿した原稿をご紹介します。

当時息子は小学校6年生でしたので、そのまま載せますが、現在は中1です。

 

「男性・女性ではなく個性が尊重される社会へ」

 

私には小学生の息子がいる。息子の小学校は出席簿が男女混合のいわゆる男女混合名簿だ。

西東京市は小学校19校中、11校が混合名簿を採用している。

なぜ、統一されていないかというと男女混合名簿は校長の裁量に任されているからだ。

 

 私が小学校の時は混合名簿なんて言葉もなく、男女別の出席簿で男子が先で女子が後だった。

掃除の時間は男子がさぼって遊んでいるのが当たり前の光景だった。男子と女子がよく対立し、一緒に遊ぶことや話すことはあまりなかった。

 息子のクラスは1年生の入学時からずっと混合名簿だ。女子が男子の三分の一しかいないが、女子がすごく活発で元気が良い。

そして高学年でも男女の仲が良い。

 

 東京都の教育委員会は男女混合名簿を推奨していない。男らしさや女らしさを否定しているとの見解だ。

しかし、男らしい女らしいという概念は人によって違う抽象的なものだ。

そして性は男と女の2種類だけではない。IS(インターセクシャルの略称。

性器、卵巣・精巣といった性腺、染色体等が男性型・女性型のどちらかに統一されていないか、または判別しにくい等の状態)なども含め、

性の分類は36通りあると言われている。

性的マイノリティは5,2%と言われ、鈴木という姓と同じくらいの割合でいるそうだ。

400人の学校だったら20人は性的マイノリティがいてもおかしくない。

男と女で分けてしまっては、マイノリティの児童のアイデンティティーを傷つけてしまう可能性がある。

 

 男女混合名簿は身体検査などで二重名簿を作ることになり教師が大変と聞くが、今はエクセルで簡単に作ることができる。

学校の事務の煩わしさのためだけに児童の人権や人生に関わることを犠牲にして良いのか。

 男女混合名簿は女子だけにメリットがあるように思われがちだが、そんなことはない。

男性の自殺率が女性より高いのは、男性は強くないといけない、家族を養わなければいけない、

社会に必要とされなければいけないという男らしさの重圧に苦しんでいる結果ではないのか。

男女混合名簿を採用している学校の児童は採用していない学校の児童よりジェンダー意識が高かったというデータもある。

 

男女混合名簿はすぐに効果のわかるものではない。

しかし、子どもたちが大人になった時、男らしさや女らしさにとらわれず、誰もが一人の人間として尊重され、

自分らしく生きられる社会に近づいていける土台となるものと思う。

 


タイムマシンがあったなら

2014年10月10日 | 日記

後援会ニュースのコラム③

「タイムマシンがあったなら」

 

小学3年生の時に、ドラえもんのマンガが大好きでした。なぜなら、主人公ののび太と自分の性格がそっくりだったからです。

さすがに0点は取りませんでしたが、運動オンチなところと捨て猫をすぐに拾ってきてしまうところが同じだったからです。

そして、ドラえもんの道具が本気で欲しいといつも思っていました。

「暗記パン」はテスト前になると欲しくなり、何かで迷った時は「みちびき」が欲しくなり、いかに怠け者で優柔不断だったかがわかってしまいますが。

そして一番欲しかったのが「タイムマシン」です。

タイムマシンで未来の自分や結婚相手を見てみたかったからです。

 

 その頃の将来の夢は動物が大好きだったのと「刑事犬カール」というドラマに影響を受けて警察犬訓練士になることでした。

しかし5年生になると「ガラスの仮面」というマンガを読んで舞台女優に憧れました。

6年生では学校の宿題で書いた小説が先生にほめられ、小説家に憧れた時もあります。小説を書いたのは後にも先にもそれきりでしたが。

 

 そんな私が就いた仕事は学童保育の指導員です。大好きな子どもとの関わりは楽しくもあり、難しくもありました。

子どもたちにはいろいろなことを教えてもらいました。一人の女の子が私のことを「お母さんだったらいいな」と言ってくれました。

その言葉のおかげで親になる自信がなかった私が、子どもを持つ自信ができ、母親になることができました。

 そして、母親になるとも思っていなかった私が、まさか政治の仕事を志すとは夢にも思っていませんでした。

 

 もし今、タイムマシンで未来を見ることができたなら、投票日後の12月22日を見るでしょうか。きっと怖くて見れないでしょう。

でも、のび太がドラえもんと出会って未来を変えることができたように、私も一人でも多くの人と出会って自分の気持ちを訴え、

受かっても落ちても後悔しないように最後の最後まで精一杯がんばりたいと思います。

そうでないと私の当選のために一生懸命がんばってくれている選対の方や支部の方たちに申し訳が立ちません。

今は何もお返しできませんが、当選することが恩返しだと思ってがんばっています。

一生懸命がんばりますので、あと3ヶ月引き続きご支援よろしくお願いします。


空気ってどう読むの?

2014年10月10日 | 日記

後援会ニュースのコラム②

 

「空気ってどう読むの?」

 

私の中学1年生の息子は昨年くらいから思春期に入り出したようで、「僕って空気読めないよね?」などと自分のことを客観的に見るようになりました。

ようやく気付いたかと思う反面、場の空気を気にしすぎて引っ込み思案になってしまっても心配です。

「どうすれば空気が読めるようになるの?」と訊く息子に「お母さんだって空気読めないよ」と打ち明けました。

私自身、「あの時ああ言えば良かったな」と反省することが多々あるからです。

うちの息子に限らず、思春期には誰でも他人の目が気になったり、自分が人と違うことに悩んだりする時期です。

私の大好きな「カラフル」という映画の原恵一監督が「思春期には誰でも自分がみんなと違うことに悩んだりする。

しかし、社会に出たらむしろみんなと違う人の方が評価される」と語っていました。

 

少し前に「KY」という言葉が流行りました。ご存じの通り「価格安く」ではなく「空気読めない」の略です。

自分の本当の気持ちや正しいと思ったことも周りを気にして言えないことは誰にでもあるのではないでしょうか。

もちろん、思ったことを何でも口に出して、人を傷つけて良いということではありませんが、

見えない空気を読んで自分の意見を言えずに気を遣うのはとても疲れます。

空気を読んでばかりいたら、いつしか空気を吸うことを忘れ、息苦しくなって倒れてしまいそうです。

 

みんながみんな、空気を読んでいたら創造的なものは生まれてこないのではないかと思います。

エジソンが空気を読んで「1+1=2」と素直に納得する子だったら、現代の文明に欠かせない電気が発明されていたでしょうか?

私は以前、特攻隊の生き残りの方のお話を聴く機会がありました。

その方は「日本は絶対に負けると思っていた。それを思っていたのは自分一人ではなかったはずなのに、周りの空気に何も言えず、

仲間が次々死んでいった。」と話してくれました。

戦争に反対すれば殺されかねない時代、自分の意見をいうのは今以上に難しかったことでしょう。

しかし、その方は戦争に反対しなかった自分に今でも後悔しているそうです。

 

権力のある立場の人、多数派の意見が必ずしも正しいとは限りません。

私は息子に「多少、場の空気が読めなくても、人を傷つける言葉を言わなければそんなに嫌われることもないから大丈夫だよ」となぐさめの言葉をかけました。

空気が読めるようになることももちろん大事ですが、自分の頭で考え、自分の正しいと思ったことを言える大人になってほしいと思います。

 


祖母がくれた100円玉

2014年10月10日 | 日記

私はほぼ毎月後援会ニュースを出しています。

そこで私のコラムを載せています。

そのコラムをご紹介します。

 

「祖母がくれた100円玉」

 

私の祖母は昨年のクリスマスイブの日に100歳になりました。私は子どもの頃からおばあちゃん子で、祖母にはとてもかわいがってもらっていました。

祖母にとってひ孫である小学6年の私の息子を連れ、祖母の暮らす所沢の特養老人ホームに家族で祖母の大好物のお寿司とおまんじゅうを持ってお祝いに行きました。

祖母には100歳の記念に内閣総理大臣の名前の入った賞状とひざ掛けなどが贈られていました。

 

秋田のいなかで子守などをさせられて、ろくに学校も行かせてもらえなかった祖母には初めての賞状だったでしょう。祖母は私の息子に昔の苦労話を始めました。

祖母は早くに両親を亡くし奉公に出され、24歳で顔も知らずにお見合い結婚をさせられました。夫である私の祖父は大工でとても優しい人だったそうです。

息子である私の父が生まれて一家で満州に渡り暮らしはじめました。しかし幸せは長く続かず、祖父は終戦の1年前にガンで亡くなってしまいました。

それから祖母は女手一つで働き続けました。終戦後、7歳だった父を連れてソ連の収容所に入れられたりしながらも、何ヶ月も山道を歩いて命からがら引き揚げ船に乗り

日本に帰ってきました。日本に帰ってからは魚の行商をして私の父を育てました。

 

祖母は息子に「おばあちゃんは苦労もしたけどあんたのお母さんやあんたが生まれたのが一番の幸せで宝物だよ」と話してくれました。

お正月に再び祖母の老人ホームを訪ねました。祖母はチラシで作った手作りのお年玉袋に100円玉を入れて、

息子に「おばあちゃんのように100歳まで生きられるようにという意味だよ」とお年玉をくれました。


祖母の100年間の苦労や思い出のつまった、100年分の歴史の重みがある100円玉です。

息子はとても喜び「一生使わないで宝物として取っておくんだ」と大事にしまっています。

祖母のくれた100円玉の重みがわかってくれる息子で良かったとうれしく思いました。

 


認認介護の現状

2014年10月10日 | 日記

私の両親は所沢で暮らしています。父は77歳で母は75歳です。父は認知症で最近、要介護3から要介護4に認定を上げてもらいました。

母は昨年、要支援1の認定を受けた初期の認知症です。そんな状態でも父はまだ、特養老人ホームに空きがなくて入れません。

認知症が認知症を介護するまさしく認認介護です。

 

 父が認知症の症状が出始めたのは今から7年前です。幼稚園だった私の息子に「小学校は楽しい?」と聞いてきました。

次の日にはまた同じ質問をくり返すので、検査をして認知症がわかったのです。

 それから、徐々に認知症の進行が進み、穏やかだった性格が怒りっぽくなり、夜中に徒然「会議に行って来る」と家を飛び出す徘徊も始まりました。

迷子になり数キロ先で警察に保護されたこともたびたびありました。

 そのような状態でも要介護3で特養の順番待ちは75番でした。ウチより大変な人が本当に75人もいるのだろうかと疑問に思いました。

こんな状態でなぜまだ特養に入れないのかと施設に訴えても、男性はベッド数が元々少ないからとの理由でした。

2年前くらいからは、トイレの場所もわからなくなり、立ったり座ったりもできず、食べ物を前にしても口に運ぶことさえできなくなりました。

そのころから母も物忘れがひどくなり、書類やお金の管理等ができなくなってきました。

 

 こんな状態でも両親を引き取って面倒を見ることができないのは、東京都の特養老人ホームの待機者が埼玉県の3倍だからです。

両親を引き取って住所を西東京市にしたら、もっと待機の順番が遅くなってしまいます。

 半年ほど前、デイサービスの方から父の体にあざがあるとの報告を受けました。母が意思のまるっきり通じない父にいらだち、

たまに頭をはたいていたのを目にし、もしやと思いました。母に理由を聞いても自分でたたいたことも忘れてしまっている状態です。

これではいけないと思い、ケアマネージャーのアドバイスを受け、医師の診断を受け直しました。すると認知症のテストは0点でした。

直ちに介護認定を受け直して要介護3から4に1段階上げてもらいました。

 これで特養老人ホームの順番待ちは1番か2番になりましたが、それでも空きがなくて入れるのは1年先になるかもしれません。

母の負担を考えればお金がかかっても仕方ないと、ショートステイを1ヶ月単位で利用することにしました。料金は月12万円です。

これが1年続くとなるとかなり重い出費です。

 

今まで会社員として真面目に一生懸命に働いてきた父がこんな人生の終末期を過ごさなければいけないなんて、お金がない人にはとても冷たい社会です。

私には他に100歳になる祖母が所沢の特養に入っていますが、病院などの付き添いや着替え等の買い物の世話もあり、

3人の介護は自宅で介護しているわけではないとはいえ、かなりきついです。

 イソップ童話の「北風と太陽」の北風のように財政難だからと特養老人ホーム増設を削れば、老後が心配で貯蓄に回り、lお金を使うこともできず消費が冷え込みます。

暖かい太陽の日差しのように特養老人ホームを増やすことが景気回復の近道であり、誰もが安心して暮らせる社会に必要な手立てだと思います。