
これまでの内容で,法助動詞が表す過去形は,時間的過去ではなく「心的過去」であることが明らかになった.その理由としては,恐らくはその本来の意味である話者の思いや態度の表現が,自らの発信や相手への配慮など微妙なニュアンスを表す必要性の増大から,時間的過去としての役割を上回ったのではないかということで結論付いた.
ここで,この法助動詞の過去の歴史を覗いてみると,過去にもどうやら似たようなことが起き,そして現代にもつながっていることが見えてくる.
少し,過去の英語を紐解いてみる.
いまから1000年近く前,まだアメリカもオーストラリアもカナダもなかった時代に,いまのイギリスやその周辺諸国では古英語(Old English)という,要するに昔の英語が話されていたが,この当時の文法はさながらいまのドイツ語のように,男性形・女性形などの文法性(grammatical gender)があったり,主格・属格などの文法格(grammatical case)が存在しており,著しく複雑だった.したがっていまの英語では見られない文法もいくつか見られたのだが,そのなかに過去現在動詞(Preterite-present verb)というのがある.
「過去現在動詞」.「天使のような悪魔の笑顔」みたいな,名前からして意味不明というか矛盾を大きくはらむような名称だが,これは上記に挙げた西洋諸国の文法用語をそのまま和訳したものだろう.とは言え,名付け親である彼らにしてもこんなおかしな名前を付けたのには理由がある(それでも個人的には,何かもっといい名前はなかったのかと思ったりもするが).
この動詞は,「現在形でありながら活用は過去形」という奇妙な動詞で,数としてはごく一部しかないのだが,よく使われる重要な動詞のため無視できないものである.
現代の英語にしてみれば,「walkの現在形は三人称単数でwalksじゃなくて,過去形のwalkedを使う」みたいな感じで,やはりヘンテコな印象を受ける.
実際にどのような動詞があったかと言えば,以下のような動詞である;
・witan(知る)
・āgan(所有する)
・dugan(役に立つ)
・cunnan(知っている)
・unnan(授ける・かなえる)
・þurfan(する必要がある)
・durran(敢えてする)
・sculan(する義務がある)
・(ge)munan(思い出す)
・magan(できる)
・mōtan(許される)
これらの動詞は,本来は他の動詞と同じように現在形にはルール通りの活用をしていたのだが,いつしか過去形のかたちを現在形のものとみなしてしまったというものである.
このようなことが起きた経緯としては,過去形にした際に,そこに新たな意味合いが加わった(もしくは転化)ということにある;たとえば「知る」という意味のwitanは,もとは「見る」を表す動詞だったが,過去形で「見た」とした際に,「見たこと」は「知ること」ということから,「見た」の活用を「知る」にそのまま充てたというものである.他の動詞もそうで,たとえば「思い出す」(ge)munanについても,日本語でも「思い出した」という言葉を発するが,思い出した内容は「思い出した」瞬間から現在まで頭に残るため,「過去が現在になった」ことなのだろう.
では一方で,過去形を作るにはどうしたかと言うと,現在形で既に過去形のかたちを取ってしまっているにもかかわらず,そこに新たに過去形の語尾を付け加えるという常人離れした芸当をやってのけてしまっている.具体的には,「現在形で過去形の強変化,過去形にさらに弱変化語尾を付ける」というもので,これを現代英語にたとえると以下のようなものになる;

いま,「知る」という意味の動詞knowを例に取れば,古英語では上記のようにknowの過去形knewを現在形に転用し,その過去形には規則変化のedを付けるというようなもので,knewed*という二重過去形の語が存在するというようなものである.
それぞれの動詞の活用を見てみる.なお,古英語は現代英語とは違い,三人称単数以外でも活用の変化がある.ここでは,現在形の一人称単数・二人称・三人称単数と,一・二・三複数形,過去形一人称の順に変化を見てみる;
・witan ⇒ wīte・wītest・wīteþ・wītaþ・wāt
・āgan ⇒ āh・āhst・āh・āgon・āhte
・dugan ⇒ dēah・dēaht・dēah・dugon・dohte
・cunnan ⇒ can・canst・can・cunnon・cūþe
・unnan ⇒ ann・anst・ann・unnon・ūþe
・þurfan ⇒ þearf・þearft・þearf・þurfon・þorfte
・durran ⇒ dearr・dearrst・dearr・durron・dorste
・sculan ⇒ sċeal・sċealt・sċeal・sċulon・sċeolde
・(ge)munan ⇒ ġeman・ġemanst・ġeman・ġemunon・ġemunde
・magan ⇒ mæġ・meaht・mæġ・magon・mihte
・mōtan ⇒ mōt・mōst・mōt・mōton・mōste
さて,勘の良い方はここまででいくつかのことに気付くだろう.まず,この過去現在動詞として挙げられている語に,現代英語の助動詞に通じる意味の語が多いということである.
結論から言うとこれはその通りで,現代英語の助動詞は,この過去現在動詞から選び抜かれたものが多い.そして,選抜においては,現在形(活用は過去形だが)の一人称および過去形一人称が選択され,現代まで引き継がれているのである.
・cunnan ⇒ can・canst・can・cunnon・cūþe
⇒can・could
・sculan ⇒ sċeal・sċealt・sċeal・sċulon・sċeolde
⇒shall・should
・magan ⇒ mæġ・meaht・mæġ・magon・mihte
⇒may・might
・mōtan ⇒ mōt・mōst・mōt・mōton・mōste
⇒must
ちなみにmustについてはmōtanの過去形mōsteのみ引き継がれた.現代英語でmustに過去形が存在しないのはこのためである.
なお,willについては過去現在動詞ではないが,やはり同じようにwillanという動詞の現在形と過去形が引き継がれている;
・willan⇒wille・wilt・wille・willaþ・wolde
⇒will・would
あるいは,過去現在動詞から助動詞として引き継がれていないものであっても現代まで残った語もあり,たとえば「所有する」という意味のāganは,現代ではoweというかたちで残っているし,その過去形āhteは,oughtという語で助動詞のような意味合いで残存している.さらにdurranについては,意味もそのままにdare(敢えて~する)が残存した(過去形はdaredだが,文語のみdurstがあり,上記dorsteを起源とする)
さて,ここまで見てきて分かるのは,このように現代まで引き継がれた各助動詞の過去形は,「本来過去形だったものがさらに過去形にされた」という,いわば「二重過去語」である.canを例にとれば,もともとの動詞cunnanの現在形は過去形型活用をされたために「過去化」され,canとなって現代に残った時点で既に「過去形」となっている.そして,それがさらに過去形となったcūþe(could))は,「過去化」されたcanをさらに「過去化」されたものである.現代まで生き残った動詞can・may・shallは実は既に過去形になっているが,もはやその意味は感じられない.
そして,「歴史は繰り返す」なのか,この複合過去化はいままで続いている;過去形が現在のものとして認識され,そこにさらに過去のものが作られたという古英語の歴史があって,そして現代,たとえばmayのmight,shallのshouldなど,それぞれの助動詞の過去形は過去形としての意味をほぼ失い,心的距離を表す名目で再び現在に躍り出ている.mustに至っては,もはや過去の意味は完全にない.
これから先,何百年と英語が使われるなかで,そのうちmightやshouldが完全に現在形のものとして認識されmayやshallを駆逐し,やがてはまた新たな過去形が作られるのだろうか?すなわち,「三重過去」・「四重過去」という終わりのない歴史が繰り返されるのだろうか.
助動詞,特に法助動詞は,人間の認識や心的距離を大きく表した,奥深い品詞である.
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