科学と宗教の共存

意識の覚醒を通して新たなる領域を書いてみたい。

愛一元の世界を開いていく

2024-01-18 10:15:31 | 日記

愛一元の世界を開いていく

 最初の入り方、出だしは重要です。
 人間の身体、生命の活動から入ろうと思う。毎日を同じ繰り返しであると思って生きていると、中々気づかないだろうが、マンネリ化している生活から視点を変えて、生命の活動から入ると気がつくことが出てくる。

 生命の活動、心臓の鼓動、呼吸から入るのが良いと思う。どうしてかというと、心臓は常に鼓動し、呼吸している。ここに疑問や不思議さを感じなければならない。毎日の生活に囚われていると気づきにくい。先ずは、寝るときに一日を思い出し、外に向かうことを止めて、自分の体に、その生命の不思議さに思いを寄せるのがよい。この静かな生命の活動に意識を寄せる。マンネリ化された生活の殻を抜けるうえで、これは良いと思う。

 生命の静かな活動に不思議さ、驚きを感じることができるならば、可能性があるということです。生命の精緻さ、神秘さと少しずつ感じてくるものがあれば、開かれてくるものがあるということです。頭が硬直化してしまうと、同じような考え方に固まってしまうと、殻の中にあることさえ感じなくなるので、その分時間もかかるかもしれませんが。

 生きていること自体が奇跡であると感じるようになってきたら、更にすごいです。この辺りが実感できるようになれば、ものに結び付いた理性の活動から解かれて、生命の驚き、不思議さ、奇跡などを通して、更に開かれてくるものがあるからです。努力すれば、この流れは途切れることなく続くようになってくる。

 そしてこの生命の驚異、不思議さ、精緻、、を通して、生きていることの意味を真剣に考えるようになってくる。こうした気持ちは、ものに結び付いた理性では難しいかもしれません。

 仏教的には、心を磨き、心の調律を通して心の透明感を得ていく、、という修行と悟りの道に相当しているかもしれません。

 すでに、理性的理解に馴染んでいるこの世界については、それはそれとしたうえで、理性の理解とは異なる世界が開かれてくるということです。この方向に理解が深まり、更に進んでいくと、やがて内と外が共存する意識が体験されるようになってくる。科学的に理解される世界と異なる内側の世界、愛一元の世界、この両面が分かるようになってくる。

 理性の二値論理の世界では、あれかこれかどちらかだと考える傾向がある。この理性の意識だと、真偽を判断し、真を選択して偽を捨象する。これはこれで良いとは思うが、これだとどうも視野が狭いままだと思う。これだけでは実は制約された意識だと感じてしまう。この原因は物質の領域に囚われているからだと考えると分かりやすい。

 二値論理の領域、あれかこれかではなく、あれもこれもと考えて、視野を広げていくことだってあるだろう思う。あれであれば、何が開かれ、これであればまた別な何かが開かれる、、どれにも開かれてくるものがあるという意識も出てくる。色々の可能性が考えられるはずだ。その中で、人を幸福にするものがどれか、、こう考えて、理性に囚われずに、理解が深まっていくと考え方にも厚みが出てくる。

 人生に無駄なものはないのではと感じてくる。これは二元性の領域の影響を受けなくなってくるということかもしれない。人生に無駄なものはないと考えて良いと思う。ものごとを真偽、白黒など二つに分けて、一方を取り入れ、他方を捨てる意識から離れてみる。

 人生は神仏の創造、神仏の生命、、どれも神仏の世界であり、すべてが神仏のつくっている素材なんだと感じてくる。神仏が提供している素材を生かして日々の生活を豊かにすること。これが生きる意味とも繋がってくる。

○分離の意識と一体の意識 
 理性の理解している世界は、見える世界での知識世界というか、ものに結び付いている理解である。ものや形の意識が各自の意識を占領している。この知識思考に馴染んでしまうと、分析的思考のせいか、知らずに分離分割、細分化された意識ができあがっていく。仏教でいうものへの執着にもなっていく。

 昔、縮み思考の日本人という本を読んだことがあるけれど、細分化した領域、小さな意識に囚われていくのもどうか。日本人の性質なのかもしれないが、こせこせして小さなことに囚われ、ストレスも感じながら生きている。老荘的な言い方かも知れないが、こうした意識から抜けて、自然に触れ、大らかな気持ちを取り戻すことも必要でしょうね。

 理性的な理解に偏っていることに否定的な書き方をしているが、これと全く正反対、一体型の意識が成長する方向もあるので、そのバランスも取る必要はあるでしょう。ということで、続いて一体型の意識の領域を書いてみる。

 細かく考える知識思考から抜け出て、大きな意識が出てくる一体型の世界があるということ。本当は、全体がひとつの生命、愛が生きている意識から観ると、世界は大きなひとつの生命なのであると言える。

 理性の意識は、人間や他の生命が個々別々に生きている意識を前提にできているとも言える。更に分析知を求めるあり方なので、分離分割型の小さな意識へと知らずに入り込んでいく。専門的な知識領域にも入り込んで、周りが見えないようになっていきそうだ。一方に偏っていく方向では、心に歪みも出てくるだろう。

 本当は各自個別に生きている訳ではない。お互いが支え合いながら生きているのだということを色々の視点から感じ取っていくことも必要だ。人も他の生命もみんなが繋がって存在しているという理解も大切なのだ。

 分離の意識だと、気持ちも段々小さくなり萎縮していくことになる。しかし、人と人、人と他の生命など色々の結びつきがあることを意識して、小さな発見を積み重ねていくと、やがて、分離型の知識、その領域から解脱して、全体が結び付いている知恵、力を感じてくるようになる。

 自分の存在と周囲は全部繋がっている。お互いが同じように感じてくると、益々全体がひとつの生命なのだと、実感しやすくなってくる。そうすると、分離の意識のため萎縮していた心も広がり始めて、心のゆとり、豊かさ、新鮮、感動など、ものに囚われていた心が生きて動き出す、そんな気持ちに変わっていく。

○全体がひとつの生命、愛である
 理性とその分離の意識から解脱して、愛、一体型の知恵、力が自然に発露して広がり始める。ものや形の中にあった意識、心、生命が生きて動き出し、これが逆転して、愛が生きて動き出す、愛の中に生きている生命を感じ始める。

 理性の意識では、見える世界と意識・心の領域とは仕切りがあり、異なる領域であったが、内の領域が覚醒してくると、内と外の分離・仕切りが取れてくる。これ即ち、小さな意識、個別化している意識から解脱して、全体がひとつの生命、愛が生きて鼓動している領域が開かれてくる。

 個々別々に生きている意識・心から全体がひつの生命、愛が生きて自己展開している世界が開かれてくる。世界、宇宙は愛が生きて自己展開している。これに併せて有限の意識から永遠の意識へと変わっていく。

 理性の意識では、新しいものは見えない世界、遠い世界にありそうに思えるが、愛の意識では、真理は身近にあるのではと思えるようになる。意識の中に、思いの中に、言葉の中に、眼前に真理が現れてくるという気持ちが強くなってくる。

 細分化された意識、その知識の領域にもいろいろと現れてくるものはあるが、しかし、正反対に、一体型の意識、全体が結び付いてひとつの生命へと高まっていく方向にも智慧や力が湧いてくる、視野が拡大していく。ということで、一方に偏ることなく、バランスのとれた考え方が必要なのだとよく分かるようになってくる。


愛一元の世界を開いていく

2024-01-14 10:29:16 | 日記

 一年ぶりの投稿です。
 気持ちを切り替えて、今後とも意識を高めて生きたいと思っている。

 これまで二元性の理性の領域で色々考え書いてきた。幸福の科学の教えに愛知反省発展の四正道があるが、今後は更にこれに愛一元の世界観を入れて書こうと思う。自分の心境が変わってきたのだ。愛一元の世界観で人や世界を観ていくという意識に切り替わっていく流れかなと感じている。

 何故かというと、大川先生の書籍「愛から祈りへ」の中に、愛一元の世界観でもう一度世の中を見てほしいと書かれていたからです。これを読んで見て、ああ、これだなあと感じたと言うことです。これがイエス様の愛の教えと良く合っているんですね。愛一元とは、世界は愛の現れであるとの理解であり、多様性の世界が愛そのものであると理解して生きるということですね。

 これに対して、例えば、教育は二元性の世界観であり、その内容は二元的に理解されて身に付いていく。例えば、数学は真か偽かで判断されるし、裁判は白か黒かで判断される。別の言い方だと、二値論理という言い方にもなる。あれかこれかと考えて、どちらかを選択するという思考です。みんなが教育を通してこの二値論理思考を身につけるので、こうした意識が知らずにできあがってしまう。

 理性の二元的理解と愛一元の理解では性質に大きな違いがありますね。これは最初の入り方、出だしがそもそも違うと考えた方が分かりやすい。

 即ち、基本的な形である「主体と対象の関係」から入ると分かりやすい。簡単に言うと、対象を学ぶ、対象を重視して考えるのが理性であり、反対に主体を重視して、主体から入るのが愛であるといえます。

 物事を観察して、これを客観的に理解するのが理性ですね。見える世界、形、物質を見て考え語る、、この方向を深めていくと理性の領域がいろいろと開かれて来ますね。ものごとを色々の視点から観察してその特徴や傾向を捉えるのは、科学的な行き方であり、これはこれで大切ですね。

 しかし、これとは逆に、主体を重視して我自身を色々の視点から理解しようと努力すると、今度は、生命や愛の領域が開かれてくるといえる。慣れてくると、科学的な思考も、生命や愛の意識も、本当は分離・仕切りなどないのだと感じてくる。求めるものは開かれてくる可能性があるということですね。

 主体である自分を観察して、色々の視点から自分を知ろうとすると、これは科学的な視点とはまた異なる領域が開かれてくるわけです。まず、第一にそもそもの生命を知るという意識が出てくる。生命を漠然と意識している意識から、その生命を深く知りたいとの気持ちが出てくるのです。

 生命という活動を通して、心、気持ちなどを含んだより広がった世界へと意識が進んでいくと、生命のもつイメージもだんだんと変わってきます。これまで、理性の知識世界というか、もの中心、形中心の理解をしてきたのですが、これが変わってくるのです。やがてものや形中心の意識から離れて、生命中心に理解する世界が現れてくるのです。

 科学思考、もの中心の理解の中にずうっとあると、やがて心も気持ちもこれに縛られてくるんですね。これが愛中心だと、ものや形の領域は愛の現れの中の見える部分でしかないとの意識に変わってくる。これは愛の領域が広がっていくということを意味しているわけです。

 見える部分の中に生命もあり、意識、心もあり、もっと言うと、身体の中に意識、心、生命の活動があるというおぼろげな生命の活動から、意識が逆転して、意識、心があって、この中に身体もある、もっと言うと、ものや形の中にある意識や心から解脱して意識や心の中にものや形があると考えた方がより分かりやすいと考えるようになってくるのです。

 こうして生命の意識、愛の意識が出てくると、ものや形の中にある意識や心が開かれてきて、全体がひとつの生命、愛である、、こうした意識が発達し始める。これが高まってくるとものの理解ではなく、愛が生きて動いている世界、物質に縛られた意識から解かれて、生命や意識の自由度が高まってくることになる。

 ものに囚われた意識から解脱して、愛が生きて呼吸している世界が現れてくる。これが、ああ、求める世界だなあと自分として感じてくるわけです。

 最初の入り方がものの領域を観察し、考えて理解する、、これが広がって科学的思考が発展しているけれども、これはそのまま見える世界中心の制限された意識をつくってしまうということです。言い方を変えると、ものに偏った考え方ができてしまうということですね。

 理性の知識は、固定静止の動かない知識、いわば、写真の世界を観ている知識であり、この知識を脳細胞で動かして、あるいはコンピューターが動かして、ものごとを理解している状態に見えます。 

 これを生命の活動、愛の意識から観ると、理性の知識理解は、見える世界に限定された意識であり、その知識世界に囚われた意識であるといえます。

 生命の活動、愛の意識は、もともと見える形とは違い、見える世界をつくり維持している力、エネルギーの世界です。従って、その理解は形があるという意識とそれをつくり維持しているエネルギーまでも含んだ理解になる。固定静止の知識ではなく、常に生きて動いている生命の活動です。この違いはやっぱり大きいですね。

 常に生きて動いて躍動している不滅のエネルギーです。ですから、生命の活動、愛の意識に慣れてくると、見える世界とこれをつくり維持しているエネルギーを一体として捉える意識が自然なものとなってくる。

 理性の意識では、見えない領域はないもの、従って、頭の中で抽象的、仮想的な知識として理解してしまう。また、ものや形の中に生命がある、心があるという意識であるが、これが逆転して、心や生命がまずあって、その中にものや形があると考えた方がより分かりやすい理解の仕方であると分かって来る。

 人間について言うと、人間という形の中に心があるという意識から、心があってその中に形があるという意識に逆転してしまう。こんなふうに意識も変わっていく。

 これを仏教的に言えば、修行と悟り、心を磨いて、心の透明感を得ていく中で、心の透明感の中に世界が映し出されていく、、といったイメージになってくる。

 理性の知識理解がその中に止まらず、生きて動いている感覚が出てくるということで考えると分かりやすいと思う。

 AI技術が益々発達して、人々がAIに管理されてしまう時代が近づいているのかもしれない。ものに囚われてしまうと、心や意識の領域は隠れて見えないものになってしまう。このことからも、ものに囚われず、科学と愛のバランスが必要でしょうね。

 愛の理解では、愛は見える世界をつくり、維持している見えない力ではあるが、生命すべてを支え維持している不滅の智慧、力、エネルギーであるわけで、そう考えると、科学的な考え方は、愛の意識、理解の中の一部として含まれてしまうとも言える。

 科学中心、理性中心に打ち勝ち、愛中心、愛一元の世界観で世界を観る生き方は、すべての人に人生の豊かさと充実感を与えてくれるでしょう。、