愛一元の世界を開いていく
最初の入り方、出だしは重要です。
人間の身体、生命の活動から入ろうと思う。毎日を同じ繰り返しであると思って生きていると、中々気づかないだろうが、マンネリ化している生活から視点を変えて、生命の活動から入ると気がつくことが出てくる。
生命の活動、心臓の鼓動、呼吸から入るのが良いと思う。どうしてかというと、心臓は常に鼓動し、呼吸している。ここに疑問や不思議さを感じなければならない。毎日の生活に囚われていると気づきにくい。先ずは、寝るときに一日を思い出し、外に向かうことを止めて、自分の体に、その生命の不思議さに思いを寄せるのがよい。この静かな生命の活動に意識を寄せる。マンネリ化された生活の殻を抜けるうえで、これは良いと思う。
生命の静かな活動に不思議さ、驚きを感じることができるならば、可能性があるということです。生命の精緻さ、神秘さと少しずつ感じてくるものがあれば、開かれてくるものがあるということです。頭が硬直化してしまうと、同じような考え方に固まってしまうと、殻の中にあることさえ感じなくなるので、その分時間もかかるかもしれませんが。
生きていること自体が奇跡であると感じるようになってきたら、更にすごいです。この辺りが実感できるようになれば、ものに結び付いた理性の活動から解かれて、生命の驚き、不思議さ、奇跡などを通して、更に開かれてくるものがあるからです。努力すれば、この流れは途切れることなく続くようになってくる。
そしてこの生命の驚異、不思議さ、精緻、、を通して、生きていることの意味を真剣に考えるようになってくる。こうした気持ちは、ものに結び付いた理性では難しいかもしれません。
仏教的には、心を磨き、心の調律を通して心の透明感を得ていく、、という修行と悟りの道に相当しているかもしれません。
すでに、理性的理解に馴染んでいるこの世界については、それはそれとしたうえで、理性の理解とは異なる世界が開かれてくるということです。この方向に理解が深まり、更に進んでいくと、やがて内と外が共存する意識が体験されるようになってくる。科学的に理解される世界と異なる内側の世界、愛一元の世界、この両面が分かるようになってくる。
理性の二値論理の世界では、あれかこれかどちらかだと考える傾向がある。この理性の意識だと、真偽を判断し、真を選択して偽を捨象する。これはこれで良いとは思うが、これだとどうも視野が狭いままだと思う。これだけでは実は制約された意識だと感じてしまう。この原因は物質の領域に囚われているからだと考えると分かりやすい。
二値論理の領域、あれかこれかではなく、あれもこれもと考えて、視野を広げていくことだってあるだろう思う。あれであれば、何が開かれ、これであればまた別な何かが開かれる、、どれにも開かれてくるものがあるという意識も出てくる。色々の可能性が考えられるはずだ。その中で、人を幸福にするものがどれか、、こう考えて、理性に囚われずに、理解が深まっていくと考え方にも厚みが出てくる。
人生に無駄なものはないのではと感じてくる。これは二元性の領域の影響を受けなくなってくるということかもしれない。人生に無駄なものはないと考えて良いと思う。ものごとを真偽、白黒など二つに分けて、一方を取り入れ、他方を捨てる意識から離れてみる。
人生は神仏の創造、神仏の生命、、どれも神仏の世界であり、すべてが神仏のつくっている素材なんだと感じてくる。神仏が提供している素材を生かして日々の生活を豊かにすること。これが生きる意味とも繋がってくる。
○分離の意識と一体の意識
理性の理解している世界は、見える世界での知識世界というか、ものに結び付いている理解である。ものや形の意識が各自の意識を占領している。この知識思考に馴染んでしまうと、分析的思考のせいか、知らずに分離分割、細分化された意識ができあがっていく。仏教でいうものへの執着にもなっていく。
昔、縮み思考の日本人という本を読んだことがあるけれど、細分化した領域、小さな意識に囚われていくのもどうか。日本人の性質なのかもしれないが、こせこせして小さなことに囚われ、ストレスも感じながら生きている。老荘的な言い方かも知れないが、こうした意識から抜けて、自然に触れ、大らかな気持ちを取り戻すことも必要でしょうね。
理性的な理解に偏っていることに否定的な書き方をしているが、これと全く正反対、一体型の意識が成長する方向もあるので、そのバランスも取る必要はあるでしょう。ということで、続いて一体型の意識の領域を書いてみる。
細かく考える知識思考から抜け出て、大きな意識が出てくる一体型の世界があるということ。本当は、全体がひとつの生命、愛が生きている意識から観ると、世界は大きなひとつの生命なのであると言える。
理性の意識は、人間や他の生命が個々別々に生きている意識を前提にできているとも言える。更に分析知を求めるあり方なので、分離分割型の小さな意識へと知らずに入り込んでいく。専門的な知識領域にも入り込んで、周りが見えないようになっていきそうだ。一方に偏っていく方向では、心に歪みも出てくるだろう。
本当は各自個別に生きている訳ではない。お互いが支え合いながら生きているのだということを色々の視点から感じ取っていくことも必要だ。人も他の生命もみんなが繋がって存在しているという理解も大切なのだ。
分離の意識だと、気持ちも段々小さくなり萎縮していくことになる。しかし、人と人、人と他の生命など色々の結びつきがあることを意識して、小さな発見を積み重ねていくと、やがて、分離型の知識、その領域から解脱して、全体が結び付いている知恵、力を感じてくるようになる。
自分の存在と周囲は全部繋がっている。お互いが同じように感じてくると、益々全体がひとつの生命なのだと、実感しやすくなってくる。そうすると、分離の意識のため萎縮していた心も広がり始めて、心のゆとり、豊かさ、新鮮、感動など、ものに囚われていた心が生きて動き出す、そんな気持ちに変わっていく。
○全体がひとつの生命、愛である
理性とその分離の意識から解脱して、愛、一体型の知恵、力が自然に発露して広がり始める。ものや形の中にあった意識、心、生命が生きて動き出し、これが逆転して、愛が生きて動き出す、愛の中に生きている生命を感じ始める。
理性の意識では、見える世界と意識・心の領域とは仕切りがあり、異なる領域であったが、内の領域が覚醒してくると、内と外の分離・仕切りが取れてくる。これ即ち、小さな意識、個別化している意識から解脱して、全体がひとつの生命、愛が生きて鼓動している領域が開かれてくる。
個々別々に生きている意識・心から全体がひつの生命、愛が生きて自己展開している世界が開かれてくる。世界、宇宙は愛が生きて自己展開している。これに併せて有限の意識から永遠の意識へと変わっていく。
理性の意識では、新しいものは見えない世界、遠い世界にありそうに思えるが、愛の意識では、真理は身近にあるのではと思えるようになる。意識の中に、思いの中に、言葉の中に、眼前に真理が現れてくるという気持ちが強くなってくる。
細分化された意識、その知識の領域にもいろいろと現れてくるものはあるが、しかし、正反対に、一体型の意識、全体が結び付いてひとつの生命へと高まっていく方向にも智慧や力が湧いてくる、視野が拡大していく。ということで、一方に偏ることなく、バランスのとれた考え方が必要なのだとよく分かるようになってくる。