焼肉ぱるぱる店長ブログ

日置市伊集院町「焼肉ぱるぱる」の店長です。美味しくてアットホームな焼肉屋。ぜひ、ご家族お友達とご一緒にお越しください。

薩摩街道・伊作街道

2015年10月07日 09時54分02秒 | ブログ
 伊集院町の飲食店の繁華街を向江町といいます。

全国でもよく聞く地名ですが、

江は川のこと云い、向江は川の向こうの意味になります。

向江町の名前を付けた人は向江町にいたのでなく、

川のこちら側にいたことになります。

地域の中心地から見て名づけたのが見て取れます。

 薩摩街道は鹿児島市鶴丸城から

小倉の常盤橋迄と語られます。





ところが、筑紫野の山家(やまえ)で合流した後、

街道を小倉へ向かうと、

次の内野宿との間に案内板があって



長崎街道とあります。

近くの資料館で「この街道はなんといいますか?」と聞いたら

「長崎街道です」と言われました。



これからすると、薩摩街道は筑紫野の山家(やまえ)から

薩摩迄をいうのですね。

薩摩の人たちは薩摩街道は鹿児島城下から小倉迄と思っているけれど、

本当は江戸から見て、幕府直轄の長崎港へ向う長崎街道があって

その山家(やまえ)から分岐し薩摩へ向かうのが薩摩街道のようです。

江戸からの視点でいうと、薩摩街道は薩摩への道ですので

終点は薩摩国の国境となります、城下の鶴丸城でなく、

肥後国との国境の出水の境川あるいは野間之関になります。



 


 1536年、島津忠良と貴久父子は

吹上町伊作の亀丸城から伊集院一宇治城を攻略しました。

その後の1540年代、伊集院の一宇治城は、

三国(薩摩大隅日向)守護の居城でした。

伊集院から伊作への道はある時期重要な道と想定されます。

伊作街道と仮称し、推定路を探してみました。

伊作街道は、藩(国)内路ですので薩摩街道の

国境を起点とするのと違って、領主のいる

一宇治城を起点とします。



伊集院市街地から一宇治城祉を望んでいます。



赤線が伊作への途中、永吉川迄の推定路です。今回は永吉川までとします。



上の方の白い建物はハローワクです。道は一宇治城大手門です。

左の路地へ進み、阿多城(城とはいっても本城に連なる砦で、

薩摩ではくるわといいます。)の下を右へ回り込みます。



大田の町田口に近いブロックで閉められた防空壕の先の

空間がハローワークから来た道です。

進んで大田に至ります。



建物付近は当時左からの丘(尾といいます)が続いていました。

1536年島津忠良・貴久がライバル実久方の

一宇治城を攻略した時の陣をここに置きました。

小峯之尾といいます。

伊作街道は建物の手前を右に回り込み、向こう側へ出たら

県道を横切り、大田鉱泉へ進みます。



左の小道から出たら前方へ進みます。

右手に昔は一宇治城内にあったといわれる神明神社があります。



飯牟礼狩集から東市来美山間の農免道路に出る手前から

左山中へ進み、

農免道路、西回り高速道路を陸橋で越えて西に進みます。



昔山賊が出たといわれる山中から左へ下ります。

今は藪で道ははっきりしません。



日吉町の毘沙門天に出ます。この毘沙門天は、

貴久が一宇治城に入った時

城内の四神を広く配置し直したひとつだそうです。

進むと



県道の毘沙門天入口の看板の場所に出ます。



右手前方に住吉小学校があります。

左手の小丘付近を五丁田といいますが、

ここに毘沙門天は最初あったといわれています。

五丁田を過ぎたら、左へ大川を渡ります。





左は諏訪神社です。道は当時の道をよく現す湿地帯を避けた

台地の縁辺部を通っています。

道祖神のある諏訪集落を抜け日置八幡神社に出ます。



左上から下りて来て、右の道に入り山之口川を渡り、



日置と吉利の境に出ます。写真は吉利から日置を望んでいますが、

南薩線はここを横切っていました。左の微高地は六ッ坪遺跡で

前方の市来への道、右の伊集院への道の

分岐点に関わる遺跡かなとも思えます。

小松帯刀の墓所を左に見ながら進むと鬼丸神社があります。

今は基盤整理された田ですが、南へ直進すると、



由緒ありそうな石段と武家屋敷内の道があります。



正面は吉利小学校で、江戸時代末小松帯刀の城だった

南谷城(なんでんじょう)跡です。

左の路地から出て道を横切り右へ下ります。





国道270号線の東側の微高地を南へ進むと

吹上町永吉入口の信号手前に出ます。正面の看板の場所です。

途中には貴久が攻略した南郷城に関わる鹿児島塚があります。

信号を永吉方向に下ると、市街地に出る手前の南郷城の

搦め手口(?)下に出ます。



正面が南郷城、左は国道270号線から下りて来た道、

右は永吉市街になります。道を手前に下ります。



田圃をまっすぐ進み川久保橋です。当然当時は橋はありませんので、

渡河点になるかと思います。

 今回はここまでになります。










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