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2019.9.24【國分功一郎|シリーズ「ケアをひらく」|中動態の世界_意志と責任の考古学/医学書院2017.4

2019年09月24日 | 《こ》 _読んだ本・人・ブログ
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現代ビジネス|2017.004.02
私たちがこれまで決して知ることのなかった「中動態の世界」_「する」と「される」の外側へ/國分 功一郎

  https://gendai.ismedia.jp/articles/-/51348
「する」と「される」――能動と受動の世界をあたりまえに生きている私たち。しかし、歴史をみれば、「する/される」では語ることのできない「中動態」というものがあったのです。

中動態って何? それは能動と受動の中間なのか? そして、なぜ消えてしまったのか?……「する/される」の外側――中動態の世界に関するさまざま問いをスリリングにひも解いていく『中動態の世界』(医学書院)が大きな話題となっています。

発売即重版となった本書を上梓した哲学者・國分功一郎さんが「謝ること」を例に「中動態の世界」の入り口にご案内。世界の見え方が少しずつ変わることになるでしょう。


「する」と「される」の外側へ
 中動態というのは、英文法でやった能動態・受動態の仲間です。かつての言語では、能動態と受動態ではなくて、能動態と中動態が対立していました。たとえば古典ギリシア語を勉強する時には、中動態の活用を学びます。受動というのは中動態がもつ意味の一つに過ぎませんでした。

 誤解を恐れずに単純化して言うと、中動態というのは、「する」と「される」の外側にあるものです。私たちは様々なことを、「する」(能動)か「される」(受動)に分類してしまいます。しかし、かつてはこの分類に入りきらないものをきちんと認める文法が存在していました。

 能動と受動という区別は実は非常に不便なものです。フランスの言語学者エミール・バンヴェニストがはっきりと述べていることですが、能動と受動の対立というのは、一度これを知ってしまうとそれ以外のものが認められなくなるほどに強力だけれども、少しも普遍的なものではありません。

 バンヴェニストは多くの言語がこの対立を知らないし、そもそも、英語やフランス語などの印欧語の歴史においても、この対立は比較的最近現れたものなのだと強調しています。というのも、既に述べたように、かつて言語の中にあったのは、能動態と受動態の対立ではなくて、能動態と中動態の対立だったからです。

 かつて、行為や出来事は今とは全く異なった仕方で分類されていました。いまのように能動と受動でこれを分類するようになったことの背景には、おそらく、責任という観念の発達があります。「これはお前がやったのか? それともお前はやらされたに過ぎないのか?」──責任をはっきりさせるために言語がこのように問うようになったのです。

 責任の観念と結びついている以上、能動と受動の区別を易々と捨て去ることはできません。しかし、この区別が決して普遍的ではないこと、それどころか、かなり不便なものであることもまた事実です。

午前7:52 · 2018年7月3日
熊田一雄の日記|


午後8:36 · 2018年9月27日by龍隆
 国分功一郎は、スピノザが中動態で記述したというのです。
 分かる気がしませんか。私はあるところで古代ギリシャの悲劇は、合唱/共同の意思から離れてしまった悲劇/独唱、やがて独唱が合唱に合わさっていく終幕、なんだと。

午後8:26 · 2018年9月27日
読みたい本が、きっと見つかる!HONZ|
『中動態の世界 意志と責任の考古学』善でもなく、悪でもない。あいまいさを語る幻の文法/
内藤 順2017年04月11日
  https://honz.jp/articles/-/43946

興味深いのは、古代ギリシャにおいて中動態の存在と意志概念の不在という、二つの現象が同時に見られたことである。ならばなぜ、中動態が姿を消すことになったのか? 著者は様々な文献をつなぎ合わせ、この「ミッシング・リンク」へ挑んでいく。そして言語が、出来事を描写するためのものから行為者を確定するものへと移行していく歴史の中で、中動態が抑圧されたことが明らかになる。

午後5:00 · 2018年9月28日by龍隆
スピノザの言う「能動」と「受動」は、単に個物が作用したり作用を受けたりすることには重なっていないからである。〜
端的に言って、「能動」目指すべきのも「受動」は斥けるべきものに他ならない。p243中動態の世界_意思と責任の考古学/国分功一郎2017.4
午後5:19 · 2018年9月28日by龍隆
これでカツアゲが説明できる。
脅されてお金を渡す行為を我々は能動とは言わない。しかし、一般的な能動と受動の区別では、たとえば困っている人に義の心からお金を手渡す行為と、脅されてお金を渡す行為をうまく区別できない。義の心からお金を手渡すのは限りなく能動に近い行為と言い得る。p257同
  
午前11:11 · 2018年9月30日
週刊読書人ウエブ更新日:2017年6月29日 / 新聞掲載日:2017年6月23日(第3195号)特集「中動態の世界」 第一部 國分功一郎×大澤真幸「中動態と自由」(代官山蔦屋書店) 『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院)刊行記念


午後5:07 · 2018年9月30日
2017.6.17
尾藤誠司_東京で働く総合医。ハロペリドールズのボーカル。note|
自分なくしの文法、あるいは戦争を防止する文法 --國分功一郎「中動態の世界」-感想文
|Seiji Bito
@bitoseiji
|note(ノート)| https://note.mu/bitoseiji/n/n963435c4169d


 「ナラティヴ志向とは、要するに、注意を人に向けずに出来事に向けていくことです」と答えます。この言葉を聞いて「そういうことか!」といってくれる人は10人中1人くらいで、9人は「???、それ、逆じゃないの?」というさらなる混乱を招いたりします。
 私が「ナラティヴ・アプローチ」から学んで「これだ!」と感じたことは、「支援者としての私と患者としてのあなた」にコミットし過ぎてしまうために、「あなた」を「私」が支配してしまうような構造から解放されるような感覚だったのです。そして、何がその構造を解き放ったのかといえば、臨床場面を「私とあなた」ではなく、「私の物語とあなたの物語が邂逅している場」ととらえるという視点でした。
 そして、そこで行われることは「出来事」であり、「私があなたに何をしてあげられるか?」というエゴの葛藤ではない、というようなある意味ドライ(私はあえて「ドライ」という言葉を使用せず、「湿度低め」と言っています)な感覚でした。その感覚が腑に落ちてから、少なくとも自分の臨床が楽になりましたし、患者さんや他職種プロフェッショナルとの対立を心地よいものとして感じることができるようになったのです。
 ジャムセッション
 セッション中に考えることはありません。そして、中心もない。ここには「私にとってのあなた」とか、「私があなたに伝えたいこと」という意図が希薄(全くないわけではないです)であり、あくまでも中心は「奏でられた音楽」なのです。これは、人を軽くしていきます。そして、人が人に縛られるような強い不自由を解き放っていきます。このようなセッションを「言葉」を用いて行うのがオープン・ダイアログの手法なのだと思っています。
 本書(中動態の世界/國分功一朗)に書かれていることは、「かつて、能動態とも受動態とも異なる態があった。それが中動態である。そしてそれはいったんほろんだ。しかし、最近少し復権しつつある」ということです。なので、本当にガチの言葉の考古学が本書の内容です。中動態は能動態と受動態の間にあるものではなく、全く別のアプローチを持った態であり、能動態と受動態が「主体→対象」の明確な構造を持っている態である一方で、中動態は「出来事を記述するための態」である、というのが國分氏が本書の中で述べていることです。

 個人的な白眉が2つ。一つは能動態/受動態の差は、行為の方向性の差ではなく、行為が生み出すものが自由なものか、強制なものかの差なのだという理解。これは最近私が考えている「させていただく症候群」とも関係深く実に腑に落ちる視点でした。もう一つが、「意志を持つということは、考えないようにすることである」という言説。

 個人的な白眉が2つ。
 ↑ここからは、話が展開しだす。



午前9:10 · 2018年10月2日by龍隆
國分功一朗 中動態
熊谷晋一郎、斉藤環、尾藤誠司
べてるの家、当事者研究、オープンダイアローグ

午後7:44 · 2018年10月3日by龍隆
文体を変えて見ようと思ってる。自由間接語法→ドウルーズ=ガタリ、中動態→スピノザ。ポストコロニアムはジェンダーである。あとの祭り、取り返しのつかない←この不安定さは、共有できる人たちの間で落ち着きのある文体となるだろう。

午後4:32 · 2018年10月4日by龍隆
とても荒っぽく『ドウルーズの哲学原理/國分功一朗/岩波現代全書2013.6』を読んだ。『シリーズケアをひらく|中動態の世界_意思と責任の考古学/國分功一朗/医学書院2017.4』に接続するキーを見つけ出しただろうか。
午後8:23 · 2018年10月4日by龍隆
《無人島》他者を欠いたところでは、そもそも自我というものを想定することができない。自我はアプリオリに存在する基体ではない。〜他者は、私を知覚する主体でもない。p55ドウルーズの哲学原理/国分功一郎2013
いがしろにして。

午前9:40 · 2018年10月5日by龍隆
ナラティブnarrative。なんだ、narra-tive narra-tion なんだ。自由間接話法、中動態、ドゥルーズ=ガタリが記述した物語。オープンダイアローグ、開かれ包み込んだ対話

概念の定まらないままに《流通》して《消費》されてる。流通や消費で語ることを拒否している人を置き去り、な

午前9:47 · 2018年10月5日by龍隆
①narra-tive 物語ることについての、に属する、に関しての
名詞じゃないってことだな。
名詞的に語るな、説明するな

午前9:24 · 2018年10月12日by龍隆
暇と退屈の倫理学|増補新版/國分功一朗/太田出版2015(初版:朝日出版、初出:小説トリッパー/朝日出版) 増補新版の付録から立ち読みしよう
ふと立ち止まった時に、自分で考えていいんだよ、その時に感じる孤独は哲学だよ、自分の生き方は自分で決めていいんだよ。
と、國分はゼミや講義で言った筈
②この本が、朝日文庫にならなかったのが不思議。朝日新聞出版、小説トリッパーは朝日新書になっていいはずなんだけど。どっかで編集者は待てなかったのだろうか。
③経済・哲学草稿(手稿)、ドイツイデオロギーを読んできた者には、第四章暇と退屈の疎外論ー贅沢とは何か?がとっつきやすいかな。ここで述べられれているのは人間論や主体性論にいく疎外論ではないからね。ヘーゲリアンに行かずに現象論、経験論を組み直すくだりが面白い。
④学術論文は手に負えないから置く。
スピノザの方法/みすず書房2011→暇と退屈の倫理学/朝日出版2011→ドゥルーズの哲学原理/岩波現代選書2013→本書2015→中動態の世界_意志と責任の考古学/医学書院2017
哲学は、かんがえること、結論だけじゃもったいない。結論をお急ぎの思索を消費したい方は不向き

午後0:40 · 2018年12月5日by龍隆
木田元が「時代が大きく変わるたびに呼び出され解釈を変えるスピノザ」と評した。「中動態の世界_意思と責任の考古学/國分功一郎/2017.4」が、能動態と中動態の世界をスピノザから解き明かす(この本の構成はそうなっていないが)。ポルトガルからオランダへ、スピノザはユダヤ教とキリスト教に
②に切り裂かれた、マラーノ。彼の文体、証明から、中動態を見つけた國分功一郎。思想を哲学から解放するプラグマチズム、生きにくさから解放する中動態、歴史を記述する言語を見つけ出そうね。
③福永光司は、老子の読まれ方は、時代によって違う、時代に沿って理解すればよくて、教条や勝手解釈はあかんつうてる。鶴見俊輔は、講座哲学、哲学史講義に陥った哲学を中からうち壊せないから、外からその体系、本質論論議から解放されろという。まことにその通りだと思うよ。

午前11:59 · 2018年12月7日by龍隆
 「意思の自由」や「自由意志」を否定することへの強い抵抗の根拠は、意思が一元的に行為を決定していると信じられているからこそ、その抵抗は強いものになる
p86第三回自由/エチカ_スピノザ/國分功一郎/NHKテキスト2018年12月

 読み始めたが説明が多くて歯切れが悪い。中動態の世界/國分功一郎と併読

 意思will、意識consciousness。英語だと全く別の単語ですから間違いようがないですが、日本語では似ているので注意が必要ですp88同

午前9:03 · 2019年1月28日by龍隆
 少しづつ読んでる
中動態の世界_意思と責任の考古学/国分功一朗/医学書院2017
能動態と受動態と、もう一つの中動態。スピノザの作法ががそうであると思う。中動態の文法を操れたら、当事者研究やその話法が進み、「仲間/敵対に苦しまなくても良くなる」ような予感がしてる。
 辛いことだがこの世間は、敵対してくる人の多いことよ。それに対する私の言葉も、敵に放つ言葉と、仲間に支えられた言葉しか持ち合わせていない。
互いが認めざるを得ない語法、話法、文法を紡げば、他者は、敵対してると受け取れないだろうし、発話者は己の言葉の刺々しさに怯えずに済む。はずだ。


by龍隆2019.9.24


中動態の世界_意志と責任の考古学/國分功一郎/医学書院2017.4
  山東・近江/長浜/滋賀ほか 104
初出:『精神看護』(医学書院)2014年1月号~11月号中動態の世界
医学書院:紹介 https://www.igaku-shoin.co.jp/bookDetail.do?book=87748 

精神看護
2019年01月号 (通常号) ( Vol.22 No.1)
特集 オープンダイアローグと中動態の世界
  https://www.igaku-shoin.co.jp/journalDetail.do?journal=38706
 2018年9月23日秋分の日、シンポジウム「オープンダイアローグと中動態の世界」が、オープンダイアローグ・ネットワーク・ジャパン(ODNJP)主催のもと、東京大学駒場キャンパスで行われた。
 中動態とは、能動態(する)や受動態(される)では言い表せない行為のあり方を示す態のこと。かつては言語の中枢にあった中動態だが、現在は片隅でかろうじて使われているにすぎない。この言語的地殻変動にはどんな意味があったのか……。以下略

國分功一朗講演、ODNJP共同代表斎藤環(筑波大学)、高木俊介(たかぎクリニック)、石原孝二(東京大学)など発言まとめ。


 能動態、受動態、中動態について。これは、ヒントになると思う→考えれば考えるほど、断酒という「依存症からの回復」は、能動態でも受動態でもなく、「中動態」の世界であるように思います。依存症は、近代的な「コントロールする主体」がフィクションにすぎないことを教えてくれる病気です。

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