岩瀧山 往生院六萬寺のブログ

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地蔵盆法要のご案内

2023年08月05日 | 往生院六萬寺 縁起
8/24 地蔵盆法要のご案内

午後6時~ 水子地蔵尊前にて(雨天の場合は本堂内)

お布施 2千円~ お供物(参列者の皆さんに配れるもの)

事前申し込みが必要です。全国どなたでも参加できます。

それぞれ、皆に終わった後に分けてお配りできるお供えのお菓子、カップ麺、ジュースなど(個数・25~)のお供物をお届け頂きます。もちろん供物は無くても構いません。

お布施はだいたい2千円~ぐらいの方が多いです。

家族の息災、生まれたお子様の息災を願っての提灯の新調は、3千円になります。事前にお申し出下さい。

18時開始。それまでに水子地蔵尊前までお集まり下さい。

水子地蔵尊前にて、提灯を吊り、ござを引いて、事前に皆様から預かりました供物(すぐに持って帰って頂けるように袋詰めしてあります)を並べ、事前に書いた供養の経木塔婆(経木は2尺)を用意して、始まりとなります。

下記をご参考ください
http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/85168589.html

往生院六萬寺サイト
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年表関連の一考集について

2023年07月27日 | 往生院六萬寺 縁起
往生院・最新年表はこちらになります↓
http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/91065827.html




















本能寺の変についての一考

明智光秀による「本能寺の変」の背後には、南北朝の対立による影響もあったのではないだろうかと考えられる。

織田家は信秀の時代から、有力臣下には南朝功臣たちの子孫が多く、やがて信長を総大将として、南朝方による復権へと向けた工作意図があった可能性も否定できない。

楠木家の子孫である楠木正虎も、書記官として信長の近くにて仕えている。南朝最大の遺臣である北畠家に織田信雄(のぶかつ)を養子として北畠の家門を継がせたのも、南朝功臣たちの子孫への配慮であったと思える。

また、津島大橋家(大橋重長)と織田家(信秀の娘)との間の子・信弌(のぶかず)は、織田家の連枝(一門)となっている。一説には津島大橋家に後醍醐帝の後胤が入っているとされることからも、南朝方においては、南朝後胤を天下統一間近である織田家の一門に加えることのできた意義は大きく、それもあって、いよいよ南朝の本格的な復権(南朝の後胤への天皇譲位)を恐れた朝廷が、本能寺の変の背後にあったとしても全く不思議ではない。

とすれば、光秀の本命は、信長、信忠よりも、むしろ後醍醐帝の後胤とされる信弌にあった可能性も否定できないだろう。(信弌は本能寺の変で戦死している。)

(明智家の出自となる土岐家は、南北朝時代、最初は後醍醐帝に従うも、その後は足利尊氏に従って北朝の功臣となり、美濃守護となっている。その土岐家、足利家に従ったのが明智家であり、光秀も信長の家臣ではあるものの、足利義昭の忠臣中の忠臣であり、信長の足利義昭追放後には北朝方の一番の有力者となっていた。南朝復権を恐れた朝廷が、光秀に信長討伐を密かに命じた可能性も十分に考えられるのである。)



徳川家康の出自の松平家についての一考

徳川家康の出自の松平家は、元々は新田系清和源氏である世良田氏からの流れとされている。

世良田家は、新田家と共に後醍醐帝、特に宗良(むねなが)親王に仕えて各地を転戦した南朝功臣である。

津島大橋家とももちろん縁が深く、南北朝期では同志中の同志として艱難辛苦を共にしている。織田信長が松平家、徳川家康を厚遇したのも、津島大橋家と一緒で、やはり南朝功臣の子孫であったからだと推測できる。

非情だとされた信長ではあるが、よくよくに調べてみると、南朝功臣の子孫となる者たちにはかなり配慮している。

一方、北朝側の子孫へは容赦しなかった。この歴然としてある差はいたるところで現れている。

やはり、信長は南朝功臣たち子孫の勢力結集、復権への悲願を利用することにより、北朝・足利方の勢力を排して、天下統一を果たそうとしたのではないかと思われるのである。

そのあともう一歩のところで、足利義昭の下で一番の幕臣であった明智光秀により討たれることになる。

その後、豊臣秀吉により天下統一は達成されるが、南朝方の復権(南朝の天皇即位)とまでは至らずであった。

秀吉の死去後、南朝功臣たち子孫は、徳川家康をその中心として、やがて豊臣政権を打倒、江戸幕府が開かれることになるのである。関ヶ原の戦いも各勢力を分析すると、まさに北朝方と南朝方との争いに綺麗に分けることができるのである。



関ケ原の戦いについての一考

関ヶ原の戦いにおいて、小早川秀秋が本来は西軍であるべきが、東軍についたのは、後南朝の朝廷が関係していたと思われる。小早川秀秋は、木下家の出身で、秀吉の後継者の一人として豊臣家の連枝となっていた。

秀次事件によって秀吉より後継者から外されてはいたものの、秀頼の後見人と期待されると共に、当然に豊臣家を守るべきであるはずが、関ヶ原の戦いにおいて、豊臣家を裏切り、徳川家康につくことになった謎が、後南朝の朝廷にあったのではないかと考えられる。

後南朝後胤である小倉宮家とは、秀秋が越前(福井)・北ノ庄15万石の大名に転封になった際に、秀次事件に連座して以来、中央政権への再起を図るために、美作(みまさか)には行かずに北ノ庄に残っていた小倉宮家との関係を築き、そして、その関係から、南朝方勢力が集まっていた徳川家康にやがて従うことになったと考えることができるのである。そして、関ケ原の戦いでの論功行賞により、秀秋は、宇喜多秀家(西軍側)の改易によって岡山藩主となる。これには、既にあった小倉宮家の美作・津山の後南朝・朝廷「植月御所」を管轄、庇護するようにとの家康の裏の意図があったのではないかとも思われる。(実際に、家康、秀忠の代において、江戸幕府は美作後南朝・朝廷に対して2万石を扶持している。関ヶ原の戦いにおける南朝勢力結集へのお礼、対価であると考えることができる。)

秀秋の死去後、秀秋に跡継ぎがなかったため、無嗣改易となり、その後は、やはり南朝方と言える織田信長の家臣として活躍した森可成(よしなり)(森家は清和源氏の流れ)の子・森忠政が、美作・津山藩主となり、後南朝・朝廷を安堵している。同族の森家は、南北朝時代には細川清氏(北朝方から南朝方となった)に仕えて南朝方として戦っている。(岡山藩主は、池田光政。摂津池田家は楠木家と共に北朝と戦った南朝功臣である。足利尊氏に帰順後も南朝方として、特に楠木正行の遺児・教正を匿って育てたとされている。)森可成は、土岐家、斎藤家、織田家と従った戦国武将。森可成の兄弟には本能寺の変で信長と共に死去した森蘭丸がいる。その後、津山藩・森家は四代にわたり後南朝・美作の朝廷を庇護するものの、やがて幕府により意図的に森家が改易されると共に、美作の朝廷は廃絶されることになる。(1697年、幕府による良懐(かねよし)親王の親王号の剥奪。)



後南朝についての一考

南北朝の統一としての「明徳の和約」が破られると、後南朝勢力が南帝を擁立して蜂起することが度々に起こる。

北畠満雅(みつまさ)による後亀山上皇とその皇子・小倉宮恒敦を擁立しての挙兵(和睦)、恒敦の子・小倉宮聖承を擁立しての挙兵(伊勢守護・土岐持頼により鎮圧)、その後も、河内での楠木家による挙兵(畠山持国により鎮圧)、源尊秀によって南朝皇胤とされる通蔵主・金蔵主兄弟を擁立しての「禁闕(きんけつ)の変」(鎮圧)、同じく南朝の皇胤であるとされる自天王と忠義王が、赤松家再興を目指していた赤松家家臣たちにより討ち滅ぼされる「長禄の変」、また、後村上帝の孫である円満院門跡・円胤(説成(かねなり)親王の子)の挙兵(鎮圧)、そして、小倉宮の末裔とする者たちによる挙兵と相次ぐも、全て失敗に終わることになる。

その後、戦国時代へと向かう大きなきっかけとなる応仁の乱でも、南北朝が絡むことになり、東軍は北朝、西軍が南朝といった構図となっている。

東軍の総大将・細川勝元が、後土御門天皇・足利義政を味方としていたことに対抗して、西軍の総大将・山名宗全は、南帝(奈良・高取の壷阪寺にいたとされる小倉宮の末裔)を擁立し、南朝勢力を結集して戦いを進めていこうとする。しかし、山名宗全が死去し、東西の和議が成立すると、この西陣南帝は放逐され、越前(福井)・北ノ庄へと落ちのびることになる。

また、小倉宮家は、近江(滋賀)・甲賀を経て、山名宗全と同族で、嘉吉の乱後の赤松満祐の討伐の功績により、美作・石見守護となった山名教清(のりきよ)(祖父の山名時氏は、新田系源氏ではあるが、足利家との姻戚関係から最初は足利尊氏に従うも、その後、足利直義に従って南朝方となる)を頼って、美作・津山へ辿り着き、吉野と同様に朝廷としての「植月御所」を立てることになる。

流れとしては、小倉宮良泰の子・高福天皇(尊義)・後南朝初代天皇→義有親王の子・興福天皇(尊雅)→尊義親王の子・忠義天皇→尊朝親王→尊光親王→尊通親王→尊純親王(青蓮院宮、1638年、天台座主になる)→高仁天皇(1626年、後水尾天皇より譲位されたとされているが、1634年に幕府により廃帝。但し、正統な天皇の系統には入っていない。

後水尾天皇の次は、その皇女・明正天皇となっている。この譲位は名目的なもので、実質的には後南朝後胤の断絶へと向けた幕府による懐柔策の一つとして意図的に行われたものであるとも思われる)→良懐(かねよし)親王(1697年、幕府により親王号剥奪。1709年、岡山・西大寺へ参詣に向かう途中で死去。暗殺されたとも。)

以後、小倉宮家は断絶されたとされるが、この小倉宮家の末裔と称する者たちが、戦後に南朝系の天皇であると何人も名乗り出ている。



美作(みまさか)後南朝についての一考

正史では、後水尾天皇の次の天皇は、明正天皇となっている。この間では朝廷と幕府において色々と揉め事が頻繁に起こっている。

高仁親王の名も正史には確かにあるが、それは夭折した後水尾天皇の実子とされている。

一方、美作後南朝史では、1626年に後水尾天皇より譲位されて、後南朝天皇・高仁天皇(正統歴代には含まれていない)が即位し、1634年には幕府により廃位されて、明正天皇(女帝)がその次の天皇となっている。

明正天皇は、後水尾天皇の第二皇女で、母は徳川秀忠の五女の和子であり、徳川家の外戚が天皇となったのである。

この間に、もしも後南朝側の天皇を幕府が意図的に即位させていたとするならば、その意図は、南朝方勢力への配慮(あるいは懐柔策、ガス抜き)であったと言えるのかもしれません。

徳川家にとっては、南朝方功臣たち子孫の活躍によって、関ヶ原の戦いも勝利できたため、南朝方への最大級の見返りということになるわけです。南朝功臣たち子孫の悲願は、何よりも南朝方天皇の即位にあったからです。

しかし、美作後南朝史では、間もなくして高仁天皇は廃位に追い込まれています。やはり、北朝の天皇が正統であるということが、当然に朝廷・公家たちの認識であり、後水尾上皇もまだまだ健在である中で、王子も誕生していたのであるから、そんな幕府の側の事情による皇位継承などお構いなしで、南朝の高仁天皇の存在など、朝廷は微塵も認めることなどなかったと推測できるのであります。

もちろん、実質的には朝廷としての機能がそのまま京都御所にあるため、南朝の高仁天皇が美作から京都入りできていなかった以上、その譲位は、ただ、幕府によっての名目的なものであったことが容易に理解できるわけであります。そして、当然に歴代天皇、歴史上にも正式に記録が残されることはなかったのであります。

また、徳川家にとっては、その外戚となる皇女が、次の天皇となることになったため、南朝方であった松平家とはいえども断る理由などどこにもなく、早々に高仁天皇を廃するのは、むしろ歓迎されるべきことであったのかもしれません。もしくは、それが後水尾上皇との取引であったのかもしれません。高仁天皇の廃位と明正天皇の即位のバーターということです。

明正天皇の後には、後水尾上皇と藤原光子(壬生院)との男子である素鵞宮(すがのみや)が、後光明天皇として即位します。

しかし、後光明天皇は早逝し、その弟が後西天皇となり、その次には後水尾上皇のまた別の王子である霊元天皇、そして、その次には霊元天皇の子、東山天皇と、結局は、北朝方の天皇がそのまま続くことになります。当然に後南朝、小倉宮家の皇位継承は論外とされているのであります。(後南朝の宮家としては、小倉宮家の他にも、護聖院宮家、玉川宮家などが存在していた。)

やがて、五代将軍・徳川綱吉の代においては、後南朝後胤、後南朝勢力の断滅策が講じられることになり、1697年、美作・津山藩主・森家が正当な理由が見当たらないのに突然に改易処分、幕府は美作後南朝の良懐(かねよし)親王の親王号を剥奪、その後に良懐親王は暗殺されたと思われるのであります。

関ケ原の戦いで活躍した南朝方功臣の子孫たちも、代がすっかりと変わってしまい、後南朝のことなど忘れ去られつつある中、もはや南朝復権への悲願も遠い昔のことになってしまったのでしょう。

奇しくも、津山藩主・森家が改易された同時期には、青菅旗本の川口家も改易されています。同じ南朝功臣の子孫、織田家家臣の子孫という繋がり、果たして偶然といえるでしょうか。

他にも、徳川綱吉の代においては、他にも多くの外様大名・旗本が改易処分されています。南朝功臣の子孫たちの排除もその目的の一つにあったのではないでしょうか・・



日本における祟りや怨霊伝説についての一考

日本においては、祟り、怨霊伝説はたくさんあるし、絶対に立ち入ってはいけない、忌み地・禁足地として現在でも残ってあるところも多くある。樹木伐採が古来より厳禁されてあるところなどもそうである。

祟り、怨霊の類は、有るのか、無いのかといえば、無いとは言えないぐらいにしか考えてはいなかったが、最近は有ると考えるようになった。

顕密共の精緻な仏教教理哲学、認識論・論理学を有するチベット仏教においてでさえも、シュクデン等、怨霊への畏敬崇拝が、時にゲルク派をも二分するほどのものとして、この現代でさえ控えている。

話は少し変わるが、近場でもよく店が変わるところがいくつかすぐに思いつく。立地条件は抜群なのに、潰れてはコロコロ店舗が変わるのである。条件は良いので店子は入るのだが、まず長くもたない。

土地の因縁に問題があるのだとピンとくる。最近は、お祓いや地鎮祭、棟上式等、祭祀を何もせずに建物を建てたり、土地を造作することも多くなっていることがあるからであろう。

また、昔の人は、村々、土地々々において、お寺、神社、地蔵堂を大事にしていたのは、祟りや怨霊から皆を守ってくれるからといった意識も強かった。

しかし、今や現代人において、そんな意識は無くなりつつある。引っ越ししたからといっても、その村の神社やお寺にまず先にお参りにいくことなども無くなってしまっているだろう。チェーン店が色々なところに店舗を開設しても、その村のお寺、神社に挨拶や祈願に行くようなことも、ほとんどないのであろう。ただ、利益・売上のために、その土地、そこの人々を利用するという感じでは仕方ないであろうが、やはりそれだけではうまくいかない。マーケティングにはまず載らないことではあるが、村々、土地々々の因縁、人々の因縁を無視してはいけないと思うのである。

更に話は脱線するが、明治維新・戊辰戦争では、薩長の北朝側と幕府の南朝側との戦いとなった。幕府の方が圧倒的に有利であったはずなのに、南朝勢力はうまくまとまらずに、ほとんど動かず、実質的には松平家だけが戦うことになった。

徳川綱吉による後南朝後胤の断滅策、南朝功臣の子孫弱体策が、結局は徳川幕府の終わりをもたらすものへと繋がったと考えられるのである。

関ヶ原の戦いでの勝利は、南朝功臣の子孫たちの勢力によるところが大きかった。それにあまり報いることなく、あろうことか、後南朝後胤を断滅、南朝功臣勢力を改易の嵐で追い落としてしまった。

七生報國。

徳川幕府の最期には、小倉宮家や南朝功臣たちによる祟り、怨霊が絡まなかったとは言い切れないであろう…

後南朝、美作朝廷の御霊方を、現代であれば、宮内庁が祭祀を調えて慰霊することが、国の安寧、安泰のあり方として望ましいと思われるのであるが、どうであろうか。廃絶していった宮家、特に、南朝方のように意図的に断滅させられていった宮家の御霊方への慰霊は大切なことであると考える。

親鸞正室であった玉日姫のことについても色々と調べていく機会があって、更に祟りや怨霊についても考えるようになったことも、もちろん影響としてあります。

皇室にしても、本願寺・大谷家にしても、今後の家門の安寧、安泰のためには、先祖、特に無念にも逝去していった御霊方の慰霊は、やはり大切なことになるのではないかと存じております。

「 焼香の意義について 」岩瀧山 往生院六萬寺 令和5年8月・お盆施餓鬼法要 配布資料

2023年07月26日 | 往生院六萬寺 縁起
「 焼香の意義について 」岩瀧山 往生院六萬寺 令和5年8月・お盆施餓鬼法要 配布資料









岩瀧山 往生院六萬寺 令和5年8月・お盆施餓鬼法要 配布資料

「 焼香の意義について 」

現代における仏教の供養、祭祀儀礼において、実際に自らの行為として行うものとなると、その一番の代表として、「焼香」を挙げることができます。

昔は、共に読経をしたり、お遍路のような講巡り、写経の納経等、後生や故人・先祖への追善のためとして、実際に、様々な仏事、供養、功徳に取り組むことが多くあったものの、今では、そのほとんどが成されることが少なくなりつつあり、焼香(線香)のお供えが、主となって残っているのが現実的なあり方となっています。

特に、葬儀においては、喪家、会葬者共に実際に、自らの行為として具体的に行う主な供養も、焼香となっている次第であります。また、寺院の御本尊へのお参りやお墓へのお参り、お仏壇での供養においても、焼香(線香)、または灯明のお供えがその主なものとなっています。

では、実際に「焼香」の供養とは何か、と聞かれても、あまり理解している方も少ないのではないかと思い、今回、私見も交えながら、いくつかその由来について考えてみたいと思います。

一、場と自分の清め

おおよそ、世間一般、仏教一般としての「焼香」の用例としては、まず「清め」ということのためとなります。どうして焼香で清めとするのかということは、仏教の始まりとなるお釈迦様の時代に、その由来が遡ることになります。

お釈迦様の時代のインドは、当然に日本よりか南に位置しているところ(緯度的に主に活動された王舎城付近は台湾のあたりとなりますでしょうか)にありますから、気候は高温多湿であり、そのような中での生活では、様々な「臭い」もある程度、きつくあったことが想像できます。

そのような中、説法会においては、大勢の人が集まって、お釈迦様の説法を聴くことになります。当然に、人もひしめき合い、色々な「臭い」が更にきつくなるわけです。わざわざ精舎からお出まし頂いて、尊い法をお説き下さるお釈迦様には大変に失礼なことになると考えるわけです。

そこで、その場のきつい「臭い」を和らげて、心地よい香りにて、お迎えし、説法を有り難く頂戴するということで、良い香りを焚き、その場を「清める」ものとして、ある意味で、尊い、高貴な方を迎える作法、習慣として「焼香」が始まったと言えるのであります。

そして、良い香りは、人の心を落ち着かせるという、ある種のアロマテラピー的な効果もあります。普段の煩雑な生活の中で、乱れてある心を落ち着かせて、有り難く尊い教えを頂く前に、煩悩を鎮める「心の清め」としても大切なことになったと考えることができます。

以上のように、神聖となる場の清めと、清らかで尊い教えを頂くための自分の清めとして、「焼香」が習慣化していく中で、定着した供養になったのだと思われるのであります。

また、やがては、香を焚き始めるだけで、お釈迦様がそれを神通力にてお知りになられて、お迎えも来ない早々の内にお出かけになられるようになります。そのことから、焼香すると、お釈迦様にご来迎頂けるということで、如来をお迎えする、現代では、如来の教えである仏法をお迎えするというために、法要の際、読経の前にて、まず焼香を行うということになったのだと考えられます。

ですから、通夜や葬儀、法事においては、まず導師は、三拝しての焼香から作法に入ることになるのでもあります。

二、香食(こうじき)

次に、香食のために行う場合を挙げることができます。

香食とは、そのままで、「香を食べる」ということですが、誰が食べるためかと言うと、亡くなられた方の、次の世界へと生まれるまでの間の存在となります。

人は、亡くなって、肉体の機能を失うと、次の輪廻、次の生まれへと向かう意識が肉体から離れることになります(しばらくは肉体に留まることもあります)。

それは、微細な輪廻を繋ぐ意識となりますが、その意識は普段の意識、肉体に左右されるような意識とは異なっており、死と次の生を繋ぐ意識と考えると良いかとは思います。少し、私たちの概念としてある魂、霊魂とは違うのですが、まあ、似たようなものではあります。

そして、その微細な輪廻を繋ぐ意識も、実は身体を持ちます。意成身、意生身と言われるものです。その身体も7日ごとに死を迎えるとされる不安定なものですが、肉体のように目に見えるものではなく、ある種、影のようなもので、普通、私たちが捉えられるようなものではありません。それは私たちが霊、幽霊と言っているものとは、やや異なるのではありますが、おおよそ似ているとは思います。

その意成身、意生身の状態において食べれるものが、霞(かすみ)、烟(けむり)、香となるのであります。その中で、やはり美味しいものが、良い香木を燃やしての香りである「焼香」となるのであります。


意成身、意生身は、非常に不安定な存在です。その意識も大抵の場合は混乱、混濁して不安定なものとなります。この意識下において、しっかりとその先への悟り、成仏へと向かう仏道が照らされてある功徳、智慧が、今世、過去世で集積されてあるならば、自ずと次の仏道、極楽などの浄土へと安定して向かうものとなりますが、そうでなければ、やはり、不安定な状態としての中有(ちゅうう)、中陰(ちゅういん)となるのであります。

この中有・中陰の状態は、どんなに長くても49日間が最長となります。早ければ、死後すぐにでも次の往生へと向かう場合も、もちろんあります。この中有・中陰においての意成身、意生身の意識・心を安定させて、次の往生へと向けて、落ち着いて向かって頂くために、その餞として召し上がってもらうために行うのが、特に逮夜・通夜での焼香となるのであります。

もちろん、実際に歩いたり、走ったりして、次の世界、浄土へと行くわけではありませんが、お腹が減っては、集中もできず、やる気も、元気も無くなるのは、私たち生身の人間も、意成身、意生身も同じことであります。元気に次へと向かって行って頂くために、そして、清めの時と同じように、アロマテラピー的に心を落ち着けて、これから通夜、葬儀と仏の教えを聴いて、仏弟子となりて、仏道をしっかり歩めていけるように調えて頂くためにも、香を薫じるということになるのであります。通夜・葬儀における「焼香」の意義は、場の清め、自分の清めと共に、香食の意味合いも大切になるということであります。

近年、一般の方は、葬儀会館の備え付けの抹香で焼香することがほとんどとなっていますが、会館によっては、大量に消費するため、安価であったり、化学配合の多い抹香を使用している場合もあることは否めません。

故人への香食、餞別のためとして、個々人で、良い香りのする香木を持参して、焼香するのも良いのではないかと存じます。ある方は、故人が大変に愛でていた木の皮を、焼香にてお供えしたということも。きっと、さぞかし故人は喜ばれたのではないかと存じます。

このように焼香には、香食としてのお供えのあり方があるということも知って頂ければと思います。

三、雲程(うんてい)

さて、次に、焼香における大切な意味合いとして、「雲程」という考え方もあります。

雲程とは、空の一番高いところにある、青く清らかな雲、青雲を「悟り」と例えて、そこへと至る雲の道のりという言葉となります。


雲は、霞、烟と同じようなものとなります。つまり、亡くなった方を悟り、浄土へと送り、導く雲のお供えということであります。立ち上る焼香の烟が、瞬く間に悟り、浄土へと至る雲となるようにとして、清らかな真心の気持ちにてお供えするわけです。

葬儀の際における秉炬(ひんこ)佛事の前に、「山頭念誦(さんとうねんじゅ)」を読みますが、その最後の一節には、「茶、三奠(てん)を傾(かたむ)け、香、一炉に熱※(た)いて、雲程に送り奉りて、聖衆(せいしゅ)を和南(わなん)す」とあります。(※ 熱は、草かんむりがつく)

お茶を三点献じて、香を焚く、というのは、亡くなった方へ惜別の真心を表す場合と、お迎えの聖衆、つまり、来迎の如来、菩薩方へと献じるという場合の二通りが考えられますが、そのあとに「雲程に送り奉りて」とあるように、雲程へと送られる故人を送るのは、導師、喪家、会葬者となるため、亡くなった方へと向けて、お茶と香をお供えするというのが正解となるのではないかと考えます。

ちなみに、お茶を三杯献じるというのは、相手に真心の誠意を示すという意味があり、その昔に、近江・長浜で鷹狩をしていた豊臣秀吉が、休憩の際に寄った寺にて、お茶を所望した際、後の石田三成となる小姓が、一杯目に大きな茶碗にぬるま湯の茶を、二杯目には、ややそれよりも小さな茶碗に少し熱い湯の茶を、そして三杯目には、更に小さな茶碗に熱い湯の茶を出し、そのことに感心した秀吉が、その小姓を召し抱えたというエピソードがあります。石田三成はおそらく、この三杯のことを仏教の故事で学んでいたのであろうと思われるのであります。

そして、香の烟に乗って、雲程(悟り・浄土)へと至れるようにとして、「香、一炉に熱いて」は、私たちが真心、誠意にて故人を送り出すための焼香と考えることができるわけであります。

ここで、最後の「和南(わなん)す」とは、如来・菩薩方を、恭(うやうや)しく称名(念仏)して、敬礼(きょうらい)する、という意味となります。つまり、故人の悟り・浄土への導きを深くお願い申し上げるということであります。

この場面を考えると、つまり、ご来迎で、故人をお迎えに来て下さった如来、菩薩方のお姿が想像できるわけです。ご来迎で乗って来られるのは、もちろん、「雲」となります。つまり、「香、一炉に熱いて、雲程に送り奉りて」とは、故人を浄土へと送り出す「雲」を、まさに私たちの焼香の烟にてお作り申し上げて、故人を送り出すということを示すわけでもあります。

以上のように、「焼香」にはおおよそ三つの大きな意義があると考えることができるのであります。今後の焼香の際の参考になさって頂ければと存じます。合掌

年表関連の一考集について

2023年07月26日 | 往生院六萬寺 縁起
年表とは別にて、一考集を改めました。

最新年表はこちらになります↓
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本能寺の変についての一考

明智光秀による「本能寺の変」の背後には、南北朝の対立による影響もあったのではないだろうかと考えられる。

織田家は信秀の時代から、有力臣下には南朝功臣たちの子孫が多く、やがて信長を総大将として、南朝の復権へと向けた工作意図があった可能性も否定できない。

楠木家の子孫である楠木正虎も、書記官として信長の近くにて仕えている。南朝最大の遺臣である北畠家に織田信雄(のぶかつ)を養子として北畠の家門を継がせたのも、南朝功臣たちの子孫への配慮であったと思える。

また、津島大橋家(大橋重長)と織田家(信秀の娘)との間の子・信弌(のぶかず)は、織田家の連枝(一門)となっている。一説には津島大橋家が後醍醐帝の後胤であったとされることからも、南朝方においては、南朝後胤を天下統一間近である織田家の一門に加えることのできた意義は大きく、それもあって、いよいよ南朝の復権(南朝の後胤への天皇譲位)を恐れた朝廷が、本能寺の変の背後にあったとしても全く不思議ではない。

とすれば、光秀の本命は、信長、信忠よりも、むしろ後醍醐帝の後胤とされる信弌にあった可能性も否定できないだろう。(信弌は本能寺の変で戦死している。)

(明智家の出自となる土岐家は、南北朝時代、最初は後醍醐帝に従うも、その後は足利尊氏に従って北朝の功臣となり、美濃守護となっている。その土岐家、足利家に従ったのが明智家であり、光秀も信長の家臣ではあるものの、足利義昭の忠臣中の忠臣であり、信長の足利義昭追放後には北朝方の一番の有力者となっていた。南朝復権を恐れた朝廷が、光秀に信長討伐を密かに命じた可能性も十分に考えられるである。)



徳川家康の出自の松平家についての一考

徳川家康の出自の松平家は、元々は新田系清和源氏である世良田氏からの流れとされている。

世良田家は、新田家と共に後醍醐帝、特に宗良(むねなが)親王に仕えて各地を転戦した南朝功臣である。

津島大橋家とももちろん縁が深く、南北朝期では同志中の同志として艱難辛苦を共にしている。織田信長が松平家、徳川家康を厚遇したのも、津島大橋家と一緒で、やはり南朝功臣の子孫であったからだと推測できる。

非情だとされた信長ではあるが、よくよくに調べてみると、南朝功臣の子孫となる者たちにはかなり配慮している。

一方、北朝側の子孫へは容赦しなかった。この歴然としてある差はいたるところで現れている。

やはり、信長は南朝功臣たち子孫の勢力結集、復権への悲願を利用することにより、北朝勢力を排して、天下統一を果たそうとしたのではないかと思われるのである。

そのあともう一歩のところで、足利義昭の下で一番の幕臣であった明智光秀により討たれることになる。

その後、豊臣秀吉により天下統一は達成されるが、南朝方の復権(南朝の天皇即位)とまでは至らずであった。

秀吉の死去後、南朝功臣たち子孫は、徳川家康をその中心として、やがて豊臣政権を打倒、江戸幕府が開かれることになるのである。関ヶ原の戦いも各勢力を分析すると、まさに北朝方と南朝方との争いに綺麗に分けることができるのである。



関ケ原の戦いについての一考

関ヶ原の戦いにおいて、小早川秀秋が本来は西軍であるべきが、東軍についたのは、後南朝の朝廷が関係していたと思われる。小早川秀秋は、木下家の出自で、秀吉の後継者の一人として豊臣家の連枝となっていた。

秀次事件によって秀吉より後継者から外されてはいたものの、秀頼の後見人と期待されると共に、当然に豊臣家を守るべきであるはずが、関ヶ原の戦いにおいて、豊臣家を裏切り、徳川家康につくことになった謎が、後南朝の朝廷にあったのではないかと考えられる。

後南朝後胤である小倉宮家とは、秀秋が越前(福井)・北ノ庄15万石の大名に転封になった際に、秀次事件に連座して以来、中央政権への再起を図るために、美作(みまさか)には行かずに北ノ庄に残っていた小倉宮家との関係を築き、そして、その関係から、南朝方勢力が集まっていた徳川家康にやがて従うことになったと考えることができるのである。そして、関ケ原の戦いでの論功行賞により、秀秋は、宇喜多秀家(西軍側)の改易によって岡山藩主となる。これには、既にあった小倉宮家の美作・津山の後南朝・朝廷「植月御所」を管轄、庇護するようにとの家康の裏の意図があったのではないかとも思われる。(実際に、家康、秀忠の代において、江戸幕府は美作後南朝・朝廷に対して2万石を扶持している。関ヶ原の戦いにおける南朝勢力結集へのお礼、対価であると考えることができる。)

秀秋の死去後、秀秋に跡継ぎがなかったため、無嗣改易となり、その後は、やはり南朝方と言える織田信長の家臣として活躍した森可成(よしなり)(森家は清和源氏の流れ)の子・森忠政が、美作・津山藩主となり、後南朝・朝廷を安堵している。同族の森家は、南北朝時代には細川清氏(北朝方から南朝方となった)に仕えて南朝方として戦っている。(岡山藩主は、池田光政。摂津池田家は楠木家と共に北朝と戦った南朝功臣である。足利尊氏に帰順後も南朝方として、特に楠木正行の遺児・教正を匿って育てたとされている。)森可成は、土岐家、斎藤家、織田家と従った戦国武将。森可成の兄弟には本能寺の変で信長と共に死去した森蘭丸がいる。その後、津山藩・森家は四代にわたり後南朝・美作の朝廷を庇護するものの、やがて幕府により意図的に森家が改易されると共に、美作の朝廷は廃絶されることになる。(1697年、幕府による良懐(かねよし)親王の親王号の剥奪。)



後南朝についての一考

南北朝の統一としての「明徳の和約」が破られると、後南朝勢力が南帝を擁立して蜂起することが度々に起こる。

北畠満雅(みつまさ)による後亀山上皇とその皇子・小倉宮恒敦を擁立しての挙兵(和睦)、恒敦の子・小倉宮聖承を擁立しての挙兵(伊勢守護・土岐持頼により鎮圧)、その後も、河内での楠木家による挙兵(畠山持国により鎮圧)、源尊秀によって南朝皇胤とされる通蔵主・金蔵主兄弟を擁立しての「禁闕(きんけつ)の変」(鎮圧)、同じく南朝の皇胤であるとされる自天王と忠義王が、赤松家再興を目指していた赤松家家臣たちにより討ち滅ぼされる「長禄の変」、また、後村上帝の孫である円満院門跡・円胤(説成(かねなり)親王の子)の挙兵(鎮圧)、そして、小倉宮の末裔とする者たちによる挙兵と相次ぐも、全て失敗に終わることになる。

その後、戦国時代へと向かう大きなきっかけとなる応仁の乱でも、南北朝が絡むことになり、東軍は北朝、西軍が南朝といった構図となっている。

東軍の総大将・細川勝元が、後土御門天皇・足利義政を味方としていたことに対抗して、西軍の総大将・山名宗全は、南帝(奈良・高取の壷阪寺にいたとされる小倉宮の末裔)を擁立し、南朝勢力を結集して戦いを進めていこうとする。しかし、山名宗全が死去し、東西の和議が成立すると、この西陣南帝は放逐され、越前(福井)・北ノ庄へと落ちのびることになる。

また、小倉宮家は、近江(滋賀)・甲賀を経て、山名宗全と同族で、嘉吉の乱後の赤松満祐の討伐の功績により、美作・石見守護となった山名教清(祖父の山名時氏は、新田系源氏ではあるが、足利家との姻戚関係から最初は足利尊氏に従うも、その後、足利直義に従って南朝方となる)を頼って、美作・津山へ辿り着き、吉野と同様に朝廷としての「植月御所」を立てることになる。

流れとしては、小倉宮良泰の子・高福天皇(尊義)・後南朝初代天皇→義有親王の子・興福天皇(尊雅)→尊義親王の子・忠義天皇→尊朝親王→尊光親王→尊通親王→尊純親王(青蓮院宮、1638年、天台座主になる)→高仁天皇(1626年、後水尾天皇より譲位されたとされているが、1634年に幕府により廃帝。但し、正統な天皇の系統には入っていない。

後水尾天皇の次は、その皇女・明正天皇となっている。この譲位は名目的なもので、実質的には後南朝後胤の断絶へと向けた幕府による懐柔策の一つとして意図的に行われたものであるとも思われる)→良懐(かねよし)親王(1697年、幕府により親王号剥奪。1709年、岡山・西大寺へ参詣に向かう途中で死去。暗殺されたとも。)

以後、小倉宮家は断絶されたとされるが、この小倉宮家の末裔と称する者たちが、戦後に南朝系の天皇であると何人も名乗り出ている。



美作(みまさか)後南朝についての一考

正史では、後水尾天皇の次の天皇は、明正天皇となっている。この間では朝廷と幕府において色々と揉め事が頻繁に起こっている。

高仁親王の名も正史には確かにあるが、それは夭折した後水尾天皇の実子とされている。

一方、美作後南朝史では、1626年に後水尾天皇より譲位されて、後南朝天皇・高仁天皇(正統歴代には含まれていない)が即位し、1634年には幕府により廃位されて、明正天皇(女帝)がその次の天皇となっている。

明正天皇は、後水尾天皇の第二皇女で、母は徳川秀忠の五女の和子であり、徳川家の外戚が天皇となったのである。

この間に、もしも後南朝側の天皇を幕府が意図的に即位させていたとするならば、その意図は、南朝方勢力への配慮(あるいは懐柔策)であったと言えるのかもしれません。

徳川家にとっては、南朝方功臣たち子孫の活躍によって、関ヶ原の戦いも勝利できたため、南朝方への最大級の見返りということになるわけです。南朝功臣たち子孫の悲願は、何よりも南朝方天皇の即位にあったからです。

しかし、美作後南朝史では、間もなくして高仁天皇は廃位に追い込まれています。やはり、北朝の天皇が正統であるということが、当然に朝廷・公家たちの認識であり、後水尾上皇もまだまだ健在である中で、王子も誕生していたのであるから、そんな幕府の側の事情による皇位継承などお構いなしで、南朝の高仁天皇の存在など、朝廷は微塵も認めることなどなかったと推測できるのであります。

もちろん、実質的には朝廷としての機能がそのまま京都御所にあるため、南朝の高仁天皇が美作から京都入りできていなかった以上、その譲位は、ただ、幕府によっての名目的なものであったことが容易に理解できるわけであります。そして、当然に歴代天皇、歴史上にも正式に記録が残されることはなかったのであります。

また、徳川家にとっては、その外戚となる皇女が、次の天皇となることになったため、南朝方であった松平家とはいえども断る理由などどこにもなく、早々に高仁天皇を廃するのは、むしろ歓迎されるべきことであったのかもしれません。もしくは、それが後水尾上皇との取引であったのかもしれません。高仁天皇の廃位と明正天皇の即位のバーターということです。

明正天皇の後には、後水尾上皇と藤原光子(壬生院)との男子である素鵞宮(すがのみや)が、後光明天皇として即位します。

しかし、後光明天皇は早逝し、その弟が後西天皇となり、その次には後水尾上皇のまた別の王子である霊元天皇、そして、その次には霊元天皇の子、東山天皇と、結局は、北朝方の天皇がそのまま続くことになります。当然に後南朝、小倉宮家の皇位継承は論外とされているのであります。(後南朝の宮家としては、小倉宮家の他にも、護聖院宮家、玉川宮家などが存在していた。)

やがて、五代将軍・徳川綱吉の代においては、後南朝後胤、後南朝勢力の断滅策が講じられることになり、1697年、美作・津山藩主・森家が正当な理由が見当たらないのに突然に改易処分、幕府は美作後南朝の良懐(かねよし)親王の親王号を剥奪、その後に良懐親王は暗殺されたと思われるのであります。

関ケ原の戦いで活躍した南朝方功臣の子孫たちも、代がすっかりと変わってしまい、後南朝のことなど忘れ去られつつある中、もはや南朝復権への悲願も遠い昔のことになってしまったのでしょう。

奇しくも、津山藩主・森家が改易された同時期には、青菅旗本の川口家も改易されています。同じ南朝功臣の子孫、織田家家臣の子孫という繋がり、果たして偶然といえるでしょうか。

他にも、徳川綱吉の代においては多くの外様大名・旗本が改易処分されています。南朝功臣の子孫たちの排除もその目的の一つにあったのではないでしょうか・・


日本における祟りや怨霊伝説についての一考

日本においては、祟り、怨霊伝説はたくさんあるし、絶対に立ち入ってはいけない、禁足地として現在でも残ってあるところも多くある。樹木伐採が古来より厳禁されてあるところなどもそうである。


祟り、怨霊の類は、有るのか、無いのかといえば、無いとは言えないぐらいにしか考えてはいなかったが、最近は有ると考えるようになった。

顕密共の精緻な仏教教理哲学、認識論・論理学を有するチベット仏教においてでさえも、シュクデン等、怨霊への畏敬崇拝が、時にゲルク派をも二分するほどのものとして、この現代でさえ控えている。

話は少し変わるが、近場でもよく店が変わるところがいくつかすぐに思いつく。立地条件は抜群なのに、潰れてはコロコロ店舗が変わるのである。条件は良いので店子は入るのだが、まず長くもたない。

土地の因縁に問題があるのだとピンとくる。最近は、お祓いや地鎮祭、棟上式等、祭祀を何もせずに建物を建てたり、土地を造作することも多くなっていることがあるからであろう。

また、昔の人は、村々、土地々々において、お寺、神社、地蔵堂を大事にしていたのは、祟りや怨霊から皆を守ってくれるからといった意識も強かった。

しかし、今や現代人において、そんな意識は無くなりつつある。引っ越ししたからといっても、その村の神社やお寺にまず先にお参りにいくことなども無くなってしまっているだろう。チェーン店が色々なところに店舗を開設しても、その村のお寺、神社に挨拶や祈願に行くようなことも、ほとんどないのであろう。ただ、利益・売上のために、その土地、そこの人々を利用するという感じでは仕方ないであろうが、やはりそれだけではうまくいかない。マーケティングにはまず載らないことではあるが、村々、土地々々の因縁、人々の因縁を無視してはいけないと思うのである。


更に話は脱線するが、明治維新・戊辰戦争では、薩長の北朝側と幕府の南朝側との戦いとなった。幕府の方が圧倒的に有利であったはずなのに、南朝勢力はうまくまとまらずにほとんど動かず、実質的には松平家だけが戦うことになった。

徳川綱吉による後南朝後胤の断滅策、南朝功臣の子孫弱体策が、結局は徳川幕府の終わりをもたらすものへと繋がったと考えられるのである。

関ヶ原の戦いでの勝利は、南朝功臣の子孫たちの勢力によるところが大きかった。それにあまり報いることなく、あろうことか、後南朝後胤を断滅、南朝功臣勢力を改易の嵐で追い落としてしまった。

七生報國。

徳川幕府の最期には、小倉宮家や南朝功臣たちによる祟り、怨霊が絡まなかったとは言い切れないであろう…

後南朝、美作朝廷の御霊方を、現代であれば、宮内庁が祭祀を調えて慰霊することが、国の安寧、安泰のあり方として望ましいと思われるのであるが、どうであろうか。今後の皇室、皇家の安泰のためにも。

玉日姫のこともあり、更に祟りや怨霊について色々と考えるようになったことも、もちろん影響としてあります。

往生院関連年表を最新に更新しました

2023年07月25日 | 往生院六萬寺 縁起
往生院関連年表を最新に更新しました






























































桜井寺・善信尼帰国入寺
役行者・岩瀧山開山
女人大峯・修験道修行場、葛城修験宿場の一つであった
聖武天皇勅願・行基開基
六萬寺・本尊・薬師如来
宇多天皇(仁和寺御室)による寄進があった
念仏聖・安助上人・川瀬吉松の夢告通りに来訪。川瀬吉松の開基・安助上人により往生院の創建(拾遺往生伝・三善為康)

安助上人往生。以後、日想観・五念門・二十五三昧会・百万遍念仏を修する寺院として、多くの念仏行者・信者が来山し栄える。

この頃、往生院は、九条家の権勢が強まる中で、九条家の荘園地・寺社領地の一つに組み込まれることになったと思われる。九条兼実により四天王寺の奥の院として金堂が建立される。(九条家の祈願寺となる)九条兼実・慈円・法然等の参詣。九条兼実の奉納と思われる法然の三日月の御影が往生院に伝わる。また、宗派的には天台系の浄土教であったと推測される。往生院は、鎌倉~南北朝までは、九条家の寺院として管理され、四天王寺の一院・奥の院として、四天王寺の別当、僧侶が住持を兼ねていたものと思われる。

玉日姫供養
九条家の祈願寺として九条家の子女であった玉日姫を供養

慈円、良快、慈源など九条家の者が四天王寺別当であった時代以降の往生院では、同じく九条家に関係する僧侶により管理されていたものと思われる。

仁和寺御室・道深法親王(九条道家の後見人)の参詣。九条家祈願寺であるため、高野山への中継地として参詣の度に訪れる。(藤原定家・明月記)この頃における往生院での九条道家・関係者との深い交流が窺える。

親鸞・九条家の祈願寺である往生院を参詣・自作坐像安置・玉日姫を供養する

九条道家が開基となり臨済宗・往生院の成立(九条家文書)

円爾(聖一国師)が来寺
伽藍整備・東福寺の末寺となる(東福寺の開基は九条道家・東福寺・初代住職は円爾)

親鸞の供養

楠木家の要所となる。山城として利用される。この頃から、河内地方は楠木家等、武家勢力が支配する地域となり、各地にあった九条家など公家の荘園地・寺社領地は急速に失われていった中で、往生院も九条家の管理から離れた可能性が高い。

夢窓疎石の弟子・黙庵周諭の兼務寺となる

楠木正成・四天王寺にて聖徳太子の「未来記」見る。

楠木正行と弁内侍が結婚
(弁内侍は後醍醐天皇の女官で親鸞と同族となる日野俊基の娘)
新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼす
湊川の合戦・楠木正成と足利尊氏が戦う。正成死後、楠木正行が楠木家の当主となる。

北畠親房の長男・花将軍・北畠顕家が戦死。顕家は南朝勢力維持のため後醍醐帝の下、各地を転戦して活躍した。

四条縄手の合戦、高師直と楠木正行・正時が戦う。往生院が本陣となる。正行死後、黙庵周諭が楠木正行墓所建立(胴塚)。以後、往生院は楠木正行菩提寺となる。翌年に楠木正儀が供養のため来寺している。

楠木正儀に仕えた、赤松光範の家臣・宇野六郎の子・熊王丸こと和田正寛が法師として往生院に入寺

畠山家内紛時に城塞化が進む

応仁の乱

若江城の戦い・往生院城焼失

畠山義豊戦死・往生院城焼失

往生院の本堂にあった説相箱が古・神感寺へと渡っている。

戦国期、往生院は、城塞として利用されるものの、細川晴元の内衆三好家に仕えていた渡辺(稙)孫三郎(渡辺惣官家)の所領となり、三好長慶が畿内を制覇した際には、その所領を安堵されている。また、織田信長が三好三人衆を畿内から駆逐した際には、渡辺(稙)孫三郎は信長に従い、その所領が安堵された。渡辺(稙)孫三郎が織田信長に所領地を安堵された理由の一つには、渡辺家が元々は南朝の功臣であったからではないかと思われる。信長は南朝功臣たちを明らかに厚遇、一定配慮しているのが分かる。
江戸前期の往生院には、有名な大きな柘榴の木があった。(和漢三才図会・河内國名所鑑)近くの寺院には、南北朝期に会通していた古・神感寺があり、山号は楉蔵山であった。古・神感寺由来の柘榴ではないかと考えられる。

鷹司信房の開基により浄土宗・往生院の成立。欣誉浄泉(池島村・富家家)が初代住職。本堂再興。後陽成天皇の庇護を受ける。浄土寺往生院と戦時供出した梵鐘に銘されていた。寺号を浄土寺としていたことが分かる。浄土宗知恩院の末寺として、浄土宗鎮西派となるが、元々平安期より浄土信仰の篤いお寺であったことから、浄土宗だけでなく浄土真宗も受容していたことが、在家墓所や位牌堂にある位牌からも推測できる。また、何よりも親鸞の正妻であった玉日姫を祀る九条家の祈願寺であり、親鸞の自作坐像が納めてあったこと、玉日姫、親鸞それぞれの舎利(遺骨の分骨)が納められてあった可能性もあることから、浄土真宗と併宗していた可能性も極めて高い。

十世・松誉貞故の際に寺域が再整備される。池島村に往生院浄士寺という塔頭寺院があった。

江戸後期、本願寺派20世・広如の時に、玉日姫の菩提寺・祈願寺・史跡が一斉に整備された際、鷹司家により、往生院に玉日姫坐像並びに親鸞坐像が奉納された。

往生院は、明治期に楠木正行公御墓所を御陵墓(小楠公神社)とする計画が立ち上がり、その中心となった会が南木会(明治35年発足)であった。会長は、鷹司熈通。そして、九条家・鷹司家の祈願寺であった往生院は、この南木会によって小楠公神社の一角になっていた可能性があった。寺院としての根底が破壊されてしまいかねなかった時期である。(但し、神仏分離令の例外として往生院存続のためにやむなく神社の一角となり往生院を再興しようとしていた可能性もあった。)

しかし、この南木会は財政問題により早々に解散。やがて小楠公神社の中心的な整備は、四條畷神社へと移り、往生院は難を逃れた。

以後、九条家・鷹司家と往生院は戦後に交流は完全に絶えたが、現代では、春日大社の藤裔会での、寺族との個人的な挨拶程度における交流、面識が続いている。

大正・昭和・平成・令和の歴史は別紙、川口家関連年表を参照


伝・聖武天皇御宸筆・六萬寺・山門額「岩瀧山」

藤原北家、関白・藤原忠通の六男として九条兼実誕生。1155年、兼実の弟である慈円誕生

九条兼実、摂政・関白・太政大臣と出世。弟・慈円は、四天王寺別当、天台座主となる。慈円は後鳥羽上皇の護持僧。浄土信仰に篤い四天王寺における念仏三昧院では民衆だけでなく後白河法皇、天台宗の高僧などによっても百万遍念仏行が常時行われていた。しかし、承元の法難では四天王寺でも念仏停止となる。
九条兼実・法然の下で出家
九条良経(九条家二代目)・死去

九条兼実・死去。九条道家・九条家三代目当主となる。
九条家の玉日姫の供養においては、親鸞の妻であると共に、父である九条兼実の浄土信仰の篤さからも、本来は、念仏・浄土宗において供養するところ、念仏停止の法難中のため、法難の中でも浄土教・念仏で供養ができるところとして、往生院において菩提が弔われた可能性が高い。その際には、玉日姫の遺骨を分骨した可能性もある。(但し、往生院では明治における四條畷神社建立地選定の際に、それを免れるべくに多くの歴史的な古文書等を処分してしまったため、保管されてあった舎利容器の遺骨の由来について書かれたものもその際に失われた可能性があり、それらの舎利を慈雲尊者の舎利と伝わってあるものとして、1980年、新本堂前の三重塔建立時に埋葬されてしまった可能性がある。)
慈円・示寂

九条道家・安貞二年の政変で復権。(仁和寺御室・道深法親王がその立役者)
近衛家実から関白を奪還

四条天皇の即位・母は九条道家の娘。九条道家、権勢の全盛期を迎える。

九条道家の長男・四代目当主・九条教実死去。その後、九条道家の次男の良実が二条家、四男の実経が一条家と、それぞれの初代となり、九条家分裂。室町・戦国期以降、九条家の権勢は徐々に衰え、荘園地・寺社領地も失っていく。

九条道家・東福寺(九条家菩提寺)建立の発願

慈円・慈鎮和尚の諡を四条天皇より賜る。慈円13回忌。九条兼実の30年遠忌。九条教実の3回忌。法然の遠忌もあり、親鸞と九条家にとっては大切な節目の歳と言える。九条道家の娘・仁子が近衛兼経へと嫁ぐ。九条家と近衛家の和解。近衛兼経が四条天皇の摂政となる。近衛兼経の兄弟・近衛家実の四男・鷹司兼平が鷹司家の初代となる。

九条道家の五男・福王(法助)が仁和寺御室・道深法親王の弟子となる。道家・良快の下で出家する(良快は兼実の子・道家の叔父・天台座主・四天王寺別当)
道家の子・慈源や慈実も天台座主・四天王寺別当になっている。日本仏教界を実質、九条家が管理していた時代でもある。

九条道家・死去
東福寺の完成

親鸞往生後、所縁のところへと遺骨が分骨される。
遺骨分骨の際に、九条家か、あるいは、親鸞の弟子
で玉日姫のお付きであった田村光隆(有阿弥)が、往生院へ親鸞の遺骨を分骨した可能性がある。(慈雲尊者の舎利とされて、1980年、新本堂前の三重塔建立時に納められたものがそうであった可能性がある。また、幾つかの舎利容器の一つには分骨された玉日姫の遺骨も含まれてあった可能性がある)

南北朝~室町~戦国と武家中心の政権となり、それに伴い九条家を始めとした摂関家、公家の力は衰えていく。南北朝時代から戦国時代にかけて、特に河内地方における河内十七箇所の荘園群を巡っての争奪戦が激しく繰り広げられることになる。往生院もその争いに巻き込まれることになっていく。

新田義貞・燈明寺畷で戦死

楠木正行は幼少期を多く過ごし、武芸をみがいた往生院にて本陣を構えて決戦へと挑むことになった。

畠山義就と畠山政長との争い

畠山義就による河内平定

畠山尚順との家督争い

説相箱はその後、竹林寺、唐招提寺へと渡っている。

鷹司家12代・鷹司忠冬・死去・直系が絶える。

九条家15代・九条尚経の長女・経子を母とする二条晴良の子・信房が、織田信長の勧めによって正式に鷹司家を再興する。

鷹司信房、関白となる

信房の兄は、九条兼孝・17代九条家当主。九条尚経は九条兼孝の曽祖父にあたる。

九条家19代当主・道房死去。鷹司家から養子を迎えて、九条兼晴が20代・九条家の当主となる。江戸期以降、鷹司家と九条家はほぼ同家となり、鷹司家が九条家の祈願寺であった往生院の後見となる。

以後、九条家と共に鷹司家の祈願寺にもなる。後陽成天皇より御宸筆の勅賜本堂額「往生院」を賜る。

早逝した鷹司基輝の御袍が供養のため往生院に奉納されている。

113代・東山天皇の子・閑院宮直仁親王の娘が、本願寺派16世・湛如に嫁いでいる。閑院宮直仁親王の第四王子は、鷹司家の養子となった鷹司家21代の鷹司輔平。この時、鷹司家が皇別摂家となる。鷹司輔平の子が、鷹司政熈。その娘が、本願寺派20世・広如に嫁いでいる。また、閑院宮直仁親王の第三王子が、典仁親王。その子が、光格天皇となり、その直系が現代の天皇家まで続いている。
鷹司政熈の子が鷹司政通。
鷹司政通→鷹司輔熈(九条家からの養子)と続く。

本願寺派20世・広如の時に、九条家・鷹司家が、玉日姫の菩提寺・祈願寺・史跡を一斉に整備して玉日姫の総供養を行っている。

鷹司家は、明治5年に、九条尚忠の子・熈通を、鷹司輔熈の養子として迎えて当主とし、また九条家の本流となった。鷹司熈通は、九条家29代・九条尚忠の子。鷹司家養子となる。大正天皇侍従長、貴族院議員。兄弟姉妹には、孝明天皇に嫁いだ皇后・夙子。
また、尚忠の子、道孝の四女は、大正天皇に嫁いだ皇后・節子。そして、昭和天皇が誕生する。

鷹司家は、その後、信輔、平通と続き、その後は松平家から養子(鷹司信輔の娘の子)を迎えての鷹司尚武が、現当主となる。九条家は、九条尚忠→九条道孝→九条道実→九条道秀→九条道弘と続き、九条道成が、現当主となる。

鷹司輔平の子には、真宗高田派の門主となった円祥がいる。その後は、近衛忠煕の子、常盤井堯煕が有栖川宮家として入り、堯煕の後は、近衛忠房の子、常盤井堯猷、鸞猷、慈祥と、近衛家の流れとなっている。

真宗佛光寺派は、鷹司政通の三男、教応の跡を、伏見宮邦家親王の子・家教が26世となり、以後、渋谷姓を名乗り、真意尼、渋谷隆教、渋谷有教、真承、暁真、恵照、真覚と続く。


法然・誕生

親鸞・誕生
法然・浄土宗立教開宗
親鸞・慈円(青蓮院門跡)の下で得度
親鸞・磯長の夢告

法然・慈円や兼実と交流、四天王寺で日想観を修している(一心寺は、法然の日想観の庵)

法然・選択本願念仏集を著す(九条兼実の要請)
親鸞・六角夢告

親鸞・法然の弟子となる
親鸞・玉日姫(九条兼実の娘)と結婚。範意(印信)・善鸞の誕生

興福寺奏状(貞慶・解脱上人の起草)

承元の法難(後鳥羽上皇)
法然・土佐へ流罪
親鸞・越後へ流罪
玉日姫・死去(25歳)
法名・善変、京都伏見・西岸寺(九条兼実の父・藤原忠通が建てたと伝えられる法性寺の小御堂が後の西岸寺)に葬られる

親鸞・越後にて三善為教の娘・恵信尼と結婚
恵信尼の先祖には拾遺往生伝を著した三善為康がいる。(安助上人が往生院を創建した由来が記されてある)

法然・京都へ帰る
法然・往生
(親鸞・越後から一時帰京して玉日姫と法然の墓参をする)

親鸞・越後から関東へ

承久の乱(後鳥羽上皇の失脚)

親鸞・顕浄土真実教行証文類を著す(浄土真宗・立教開宗)

法然・親鸞と親交が深くあった九条兼実(兼実は、法然・親鸞と熊谷直実[蓮生法師]と高野山参籠も共にしている)は、九条道家の祖父。寵愛を受けていた道家は、祖父より法然・親鸞の庇護を頼まれていた可能性が高く、九条道家が執権を担うと共に、念仏への弾圧も当然に緩みつつあったと思われる。※熊谷直実は平敦盛を討った武将

親鸞・関東から京都に帰る
玉日姫の27回忌を期として帰京したと思われる。当時の日野家15代当主・日野家光が病床に伏したことも関連があるかもしれない。以後、京都で過ごすことになった下京区の光圓寺は九条兼実の別荘・月輪本庄花園殿のあった地で、結婚時代に玉日姫と過ごしたところにて晩年を迎えて往生するのである。

親鸞・九条家の祈願寺である往生院を参詣・自作坐像安置・玉日姫を供養する

法然・華頂尊者の諡を四条天皇より賜る。法然25年遠忌。

日野家15代当主・日野家光死去

全国に伝わる玉日姫の墓所
京都・伏見の西岸寺の御墓所。茨城・笠間の西念寺(稲田の草庵跡)の御廟。茨城・結城の玉日姫の御墓所。

親鸞・玉日姫との次男・善鸞を義絶

親鸞・往生

唯善事件・大谷廟堂留守職就任問題・浄土真宗後継問題・1309年決着・覚如(親鸞と恵信尼の娘である覚信尼の子)が後継となる。この際、覚如の異母兄弟・唯善と親鸞と玉日姫の子・範意の娘の子・源伊とも後継を争ったとされる。

三世・覚如・大谷廟堂を寺院化し本願寺とする

正中の変。後醍醐天皇の下にあった日野資朝・日野俊基が鎌倉幕府討幕を計画し失敗する。

建武の新政(後醍醐天皇)
足利尊氏、日野賢俊の仲介にて光厳上皇から新田義貞追討の院宣を受ける。

足利尊氏が征夷大将軍となり、室町幕府を起こす。後醍醐天皇、吉野にて南朝を立てる。(南朝・大覚寺統と北朝・持明院統に天皇が分かれる)

日野家は室町幕府の立役者となったことで、以後、足利家の下で権勢を強めていく。

四世・善如・楠木正勝に浄土真宗を講じる

蓮如・東国布教

蓮如・本願寺八世となる

日野家の権勢、日野富子の代で最も大きくなる。

蓮如・石山本願寺建立
蓮如・往生

1559年に正親町天皇の綸旨により本願寺が門跡寺院となる。本願寺は正親町天皇へ多額の援助をしており、また、証如・顕如が摂関家である九条家の猶子となって門跡に相応しい格式を得たとして門跡への昇格を求めていた。蓮如以来、教勢が一気に拡大していく。

本願寺が東西に分かれる

九条忠栄の娘と本願寺派13世・良如が結婚。(玉日姫以来、九条家と再び縁戚関係となる)。同時期には、東本願寺・13世・宣如が九条幸家の娘と結婚。その子が14世・琢如。琢如は、近衛信尋の娘と結婚。

本願寺派14世・寂如と鷹司信房の娘が結婚。(鷹司家と縁戚関係になる)

九条兼晴の子・住如が本願寺派14世・寂如の養子となる。寂如の娘と結婚。住如が本願寺派15世となる(九条家の者が宗主となる)

本願寺派16世・湛如死去(一説には自害)後、湛如の弟の静如が法継したが即隠居させられ、河内国・顕証寺住職の寂峰が法如として本願寺派17世となる。本願寺派7世・良如の子の寂円の子。

本願寺派18世・文如、二条宗基の娘と結婚(二条家と縁戚関係)

鷹司政通の子・華園摂信(東山天皇系)が真宗興正寺派・27世門主となり、西本願寺から興正寺が独立する。華園沢称→真淳→真暢→沙弥香

本願寺派20世・広如、鷹司政熈の娘と結婚。同時期、東本願寺20世・達如も鷹司政熈の娘と結婚している。

明治になり、本願寺派21世大谷光尊の子・3名が九条道孝の子・3名と結婚している。本願寺派22世・大谷光瑞(大谷探検隊で有名)は、道孝の娘・九条籌子と結婚。本願寺派23世・大谷光照の母は九条道孝の娘・紝子。大谷光照→大谷光真→大谷光淳と続く。

東本願寺・24世・大谷光暢は、久邇宮邦彦王の三女で香淳皇后の妹にあたる智子女王と結婚。智子女王は、現上皇(平成天皇)の叔母にあたる。大谷光暢による開申事件以降、宗門の方針、教義的な論議が激化し、やがてお東騒動へと発展し、東本願寺は著しく分派・分裂することになる。真宗大谷派・大谷暢裕、浄土真宗東本願寺派・大谷光見、浄土真宗大谷本願寺派・大谷暢順、真宗東派・大谷光道。

真宗木辺派は、西本願寺、本願寺派21世、大谷光尊の次男、孝慈を20世として迎えている。木邊孝慈→宣慈→円慈→顯慈と続く。

真宗出雲路派は、18世に真宗興正派の22世・寂永の子を迎えている。

真宗誠照寺派は、近年、二条家が歴代門主となっている。二条家は、九条家、鷹司家とほぼ同格摂家である。


桜井寺・善信尼帰国入寺
役行者・岩瀧山開山
女人大峯・修験道修行場、葛城修験宿場の一つであった
聖武天皇勅願・行基開基
六萬寺・本尊・薬師如来
宇多天皇(仁和寺御室)による寄進があった

念仏聖・安助上人・川瀬吉松の夢告通りに来訪。川瀬吉松の開基・安助上人により往生院の創建(拾遺往生伝・三善為康)

安助上人往生。以後、日想観・五念門・二十五三昧会・百万遍念仏を修する寺院として、多くの念仏行者・信者が来山し栄える。この頃から、往生院は、九条家の権勢が強まる中で、九条家の荘園地・寺社領地の一つに組み込まれることになったと思われる。九条兼実により四天王寺の奥の院として金堂が建立される。(九条家の祈願寺となる)。九条兼実・慈円・法然等の参詣。九条兼実の奉納と思われる法然の三日月の御影が往生院に伝わる。また、宗派的には天台系の浄土教であったと推測される。

往生院は、鎌倉~南北朝までは、九条家の寺院として管理され、四天王寺の一院・奥の院として、四天王寺の別当、僧侶が住持を兼ねていたものと思われる。

仁和寺御室・道深法親王(九条道家の後見人)の参詣。九条家祈願寺であるため、高野山への中継地として参詣の度に訪れる。(藤原定家・明月記)この頃における往生院での九条道家・関係者との深い交流が窺える。

親鸞・九条家の祈願寺である往生院を参詣・自作坐像安置・玉日姫を供養する

九条道家が開基となり臨済宗・往生院の成立(九条家文書)

円爾(聖一国師)が来寺
伽藍整備・東福寺の末寺となる(東福寺の開基は九条道家・東福寺・初代住職は円爾)

楠木家の要所となる。山城として利用される。

夢窓疎石の弟子・黙庵周諭の兼務寺となる

楠木正成・四天王寺にて聖徳太子の「未来記」見る。
新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼす
湊川の合戦・楠木正成と足利尊氏が戦う。正成死後、楠木正行が楠木家の当主となる。

北畠親房の長男・花将軍・北畠顕家が戦死。顕家は南朝勢力維持のため後醍醐帝の下、各地を転戦して活躍した。
四条縄手の合戦、高師直と楠木正行・正時が戦う。往生院が本陣となる。正行死後、黙庵周諭が楠木正行墓所建立(胴塚)。以後、往生院は楠木正行菩提寺となる。翌年に楠木正儀が供養のため来寺している。
楠木正儀に仕えた、赤松光範の家臣・宇野六郎の子・熊王丸こと和田正寛が法師として往生院に入寺。
畠山家内紛時に城塞化が進む
畠山義就と畠山政長との争いに巻き込まれる
応仁の乱
若江城の戦い・往生院城焼失
畠山義豊戦死・往生院城焼失
畠山尚順との家督争い
往生院の本堂にあった説相箱が古・神感寺へと渡っている。
戦国期、往生院は、城塞として利用されるものの、細川晴元の内衆三好家に仕えていた渡辺(稙)孫三郎(渡辺惣官家)の所領となり、三好長慶が畿内を制覇した際には、その所領を安堵されている。また、織田信長が三好三人衆を畿内から駆逐した際には、渡辺(稙)孫三郎は信長に従い、その所領が安堵された。渡辺(稙)孫三郎が織田信長に所領地を安堵された理由の一つには、渡辺家が元々は南朝の功臣であったからではないかと思われる。信長は南朝功臣たちを明らかに厚遇、一定配慮しているのが分かる。

キリスト教伝来

桶狭間の戦いで織田信長が今川義元を破る

織田信長が足利義昭と共に京都に入る

室町幕府滅亡

安土城完成

本能寺の変

賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が豊臣秀吉に敗れる

豊臣秀吉が関白になる。

豊臣秀吉が天下統一

豊臣秀吉死去

関ヶ原の戦い・東軍の勝利

江戸幕府成立

大坂夏の陣・豊臣家滅ぶ

江戸前期の往生院には、有名な大きな柘榴の木があった。(和漢三才図会・河内國名所鑑)近くの寺院には、南北朝期に会通していた古・神感寺があり、山号は楉蔵山であった。古・神感寺由来の柘榴ではないかと考えられる。
鷹司信房の開基により浄土宗・往生院の成立。欣誉浄泉(池島村・富家家)が初代住職。本堂再興。後陽成天皇の庇護を受ける。後陽成天皇より御宸筆の勅賜本堂額「往生院」を賜る。以後、九条家と共に鷹司家の祈願寺にもなる。浄土寺往生院と戦時供出した梵鐘に銘されていた。寺号を浄土寺としていたことが分かる。浄土宗知恩院の末寺として、浄土宗鎮西派となるが、元々平安期より浄土信仰の篤いお寺であったことから、浄土宗だけでなく浄土真宗も受容していたことが、在家墓所や位牌堂にある位牌からも推測できる。
早逝した鷹司基輝の御袍が供養のため往生院に奉納されている。
十世・松誉貞故の際に寺域が再整備される。
池島村に往生院浄士寺という塔頭寺院があった。
江戸後期、本願寺派20世・広如の時に、玉日姫の菩提寺・祈願寺・史跡が一斉に整備された際、鷹司家により、往生院に玉日姫坐像並びに親鸞坐像が奉納された。
往生院は、明治時代に楠木正行公御墓所を御陵墓(小楠公神社)とする計画が立ち上がり、その中心となった会が南木会(明治35年発足)であった。会長は、鷹司熈通。そして、九条家・鷹司家の祈願寺であった往生院は、この南木会によって小楠公神社の一角になっていた可能性があった。寺院としての根底が破壊されてしまいかねなかった時期である。(但し、神仏分離令の例外として往生院存続のためにやむなく神社の一角となり往生院を再興しようとしていた可能性もあった。)しかし、この南木会は財政問題により早々に解散。やがて小楠公神社の中心的な整備は、四條畷神社へと移り、往生院は難を逃れた。その後、明治時代後半から荒廃したままの往生院は無住となり、村の総代、世話人たちが管理していた。南朝にゆかりのある者を住持として迎えたいとして待つ中、大正14年に川口蓮海が入寺し、浄土宗教師となって再興を目指すことになる。川口蓮海は、楠木正行御墓所の整備、林間学舎建設(1930)、楠公道場の建設(1940)など、心身の鍛錬所として寺院を開放していた。また、菊水会・楠薫会・三寶会など講社を結成して往生院の檀家を増やすことに努力する。神武天皇御聖蹟巡拝会も結成している。文筆家としても小説の刊行、また、小誌を多く監修している。

往生院参道整備・桜並木化
行者堂建立(1926)
小楠公銅像建立(1927)
菊水寮建立(1930)
楠公道場建立(1940)
梵鐘の供出
小楠公銅像の供出
学童疎開の受け入れ
8月11日・川口蓮海・往生
8月15日・終戦
川口立誡が住職となる

単立寺院となる(臨済宗系)
檀家制度廃止、信徒制度となる

戦後すぐの頃の往生院は困窮著しく、薪を売ったり、托鉢に出るなど、日々の生活にも厳しい状況であった。法輪・菊水という機関誌を発行して生計の足しとしていた。

この頃の無縁塔の整備から始まり、本堂修理、金堂跡整備、墓苑整備、稲荷社整備と、ようやく本格的な復興が始まる。
寺務所建立
梵鐘再鋳(戦時供出)
中門建立
仏殿建立
新本堂・奥之院建立
宝蔵・校倉建立
仁王門建立
新寺務所・客殿建立
川口立誡・遷化
川口哲秀が住職となる
小楠公銅像再鋳・建立
民具供養館建立
新鐘楼堂建立
歴史館・展示館の改修建立
公衆トイレ建立

日想観法要再興
岩瀧山・滝行再興
合祀塔・やよい観音建立
寺史再考証


桓武天皇・誕生・白壁王(光仁天皇)の長男

桓武天皇・即位
桓武天皇の子・葛原親王(桓武平氏の祖)→平高望→平国香(伊勢平氏の祖)

平国香・平将門の乱で戦死
平国香→平貞盛(平将門の乱の鎮圧・鎮守府将軍)→平維衡→平正度→平正衡→平正盛→平忠盛(平清盛の父)

平正度の子・正衡の兄弟・貞季の子が、平正季→範季→季房→家貞(筑後守)→
貞能(筑前守・肥後守)

平貞能は、平清盛の参謀。治承・寿永の乱で活躍。大橋姓を名乗る。

平貞能は、平家滅亡後に流浪。母が宇都宮家でもあり、親友であった宇都宮朝綱(奥州合戦で活躍)を頼り、身を寄せた。宇都宮朝綱には貞能への恩義があった。朝綱の嘆願により源頼朝の許しを得た。

貞能以降、大橋通貞→貞経→貞宗→貞俊→貞高→定清→定省(愛知県津島市に奴野城を築城・城主となる)

津島四家七名字。新田系の四家としての大橋家・恒川家・岡本家・山川家、七名字としての堀田家・平野家・服部家・光賀家・鈴木家・真野家・河村家となる。

南北朝時代から戦国時代にかけて、特に河内地方における河内十七箇所の荘園群を巡っての争奪戦が激しく繰り広げられることになる。往生院もその争いに巻き込まれることになっていく。

足利尊氏、光厳上皇から新田義貞追討の院宣を受ける。

新田義貞・燈明寺畷で戦死

後醍醐天皇を助けた北畠親房の三男・北畠顕能は伊勢国の国司となり、以後、公家大名として伊勢周辺域を支配している。この際に北畠家に従い、南朝方の武将として参戦し、新田義貞・楠木正成と共に活躍することになったのだと思われる。

定省→信吉→信重(良王君の子・後醍醐天皇の後胤説)→定廣

定廣の子に、定安(禅休)・宗定・定祐・廣正と女子(大河内家へ嫁ぐ)・女子(蜂須賀家へ嫁ぐ・蜂須賀正勝の母)がおり、この内の宗定(帯刀・盛祐)が、川口家へと養子に入る。

大橋家と同様に川口家も桓武平氏で、平季房の子の流れで同族であり、美濃の川口村(岐阜県安八郡)にあった宗倫の代から川口姓となり、8代・宗持の養子に大橋家の宗定(帯刀・盛祐)が入った。

川口宗吉。妻は、小島信房の娘、織田信長の伯母とされる。大橋家と同様に織田信秀に仕える。子に川口宗勝。宗勝の織田家での厚遇から織田信長の伯母の子であると考えられる。

川口宗勝。妻は、福富直貞(福富家は織田家家臣)の娘。水野信元→柴田勝家→織田信長に仕える。織田信長の直臣旗本、弓大将となる。本能寺の変後、織田信雄、豊臣秀吉と仕える。伊勢国と尾張国内で1万8千石を拝領している。

関ヶ原の戦いにおいては、安濃津城攻めなどに参加する。西軍が敗れると高野山に蟄居し、所領は没収。身柄を伊達政宗に預けられる。1606年、徳川秀忠に許されて千葉・佐倉・青菅2千5百石を賜って旗本となった。1612年、青菅にて死去。以後、1698年までの92年間、宗信(孫作)、宗次(久助)、宗恒(源左衛門、摂津守、長崎奉行のちに江戸町奉行)と4代に同地を知行された。徳川秀忠に許されたのは、宗勝と徳川家康との血縁関係によることからも考えられる。

川口宗勝が、織田信長、信雄に仕えていた時代、つまり、安土幕府の時には、安土城の城下屋敷に川口家も一族が移り住んでいたと思われる。現在、川口家が代々住職となっている西法寺は、元々武家屋敷であった事が、昔の地名から分かる。安土村大字中屋字屋敷内。川口宗勝の兄弟、あるいは子、川口家の一族が、武家屋敷を寺院として、信長や柴田勝家、戦友たちの菩提を弔うために僧侶となって西法寺を開基したと思われる。現在の往生院・川口家のルーツは、川口宗吉・宗勝にあると推測でき、また西法寺の由来について改めて詳しく調査、精査することで確定させることができると考えている。

織田信雄が秀吉の配下となると共に、宗勝は秀吉の家臣となる。おそらくは、織田信長の直臣であった川口家が、秀吉の家臣になることなど屈辱的でもあり、許さなかった川口家一族の中で、秀吉の家臣にはならずに屋敷を寺院として出家した者が西法寺の住職になったということではないかと考えられる。

以後の川口宗勝の直系は、徳川家の下、旗本として関東に所領を持ち、代々徳川幕府に仕えることになった。

滋賀県近江八幡市安土町中屋の浄土真宗・大谷派・西法寺は、安土桃山時代から代々、川口家が住職を勤めているものと思われる。明治時代に西法寺の住職であった川口法旭の三男・蓮海が、大正14年に往生院に入寺することになる。川口蓮海は、東京帝国大学・英文科を出て、朝日新聞の本社編集長となるも、前妻・英子の死去後、紆余曲折を経て、岸和田の久米田寺(高野山真言宗)にて得度、修行し、その後に泉南の信達楠畑にある浄土宗・大雄寺にて文筆家として小説を多く書いていた。縁によって往生院に入寺し、浄土宗へと転籍、浄土宗教師となって、往生院の復興を目指すことになる。

豊島英海が中心となり、河内新西国三十三箇所霊場を開く(1930)。現在の河内西国観音霊場の前身である。

川口立誡が三樹子(芳樹尼)と結婚。1946年に現住・川口哲秀が生まれる

川口立誡は、浄土宗で得度した後、教師過程から、思うところがあり、曹洞宗・橋本恵光老師門下となり、曹洞宗の僧籍へと転籍している。薬師寺の橋本凝胤の下で3年間、唯識を学んでいる。漢詩作成に秀でていた。法隆寺の佐伯良謙、東大寺の清水公俊らとの交流があった。

1966年・川口哲秀・岐阜・正眼寺禅専門僧堂(臨済宗・妙心寺派)へ修行に。1969年に帰山。その後、敏子と結婚。1976年に現副住・川口英俊が生まれる。民具供養館にて社会見学の受け入れ(延べ20万人以上)。近隣の幼稚園の園児たちの岩瀧山・登山遠足を受け入れていた。また、定期的に子ども向けの坐禅会も開催していた。

1999年・川口英俊・岐阜・
瑞龍寺禅専門僧堂(臨済宗・妙心寺派)へ修行に。2001年に帰山。

仏像・宝物について再調査


伝・聖武天皇御宸筆・六萬寺・山門額「岩瀧山」
聖武天皇→孝謙天皇→淳仁天皇→称徳天皇→光仁天皇
光仁天皇は天智天皇の孫

南都仏教を牽制・最澄留学

坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命して東北平定

平将門の乱

平忠盛は白河院・鳥羽院に仕えた武将。娘を源義忠(河内守・検非違使)に嫁がせて河内源氏と和合した。

保元の乱

平治の乱

平清盛が太政大臣になる。

源頼朝が挙兵する。

壇ノ浦の戦い・平家滅亡

源頼朝が征夷大将軍になる。

鎌倉幕府の成立

承久の乱(後鳥羽上皇流罪)

一説には、大橋定省に後醍醐天皇の子である宗良親王の娘・桜姫が嫁ぎ、その生まれた子・定元の娘が、宗良親王の子であるとされる尹良親王の子の良王君の妻となり、その子が大橋信重となるとあり、後醍醐天皇の後胤との説もある。

また、新田系となるのは、新田家の世良田政義の娘が、良王君の母であるとされたからであろう。

いずれにしても、以後、津島四家七名字、その代表であった大橋家は南朝方に従って戦ったのである。

後醍醐天皇即位

後醍醐天皇・建武の新政
後醍醐天皇が吉野に移る。
(南朝・大覚寺統と北朝・持明院統に天皇が分かれる)

足利尊氏・征夷大将軍となる
室町幕府の成立
北畠親房が神皇正統記を著す
観応の擾乱の際には南北・正平一統が一時的にあった。
南北朝の統一・明徳の和約
しかし、足利義満が死去すると和約・両統迭立が破られることになり、北朝中心の天皇継承となる。以後、後南朝勢力が断続的に新帝を立て蜂起することになるが鎮圧される。
川口家・・姓ハ桓武平氏、平宗清末流、宗信美濃国川口村ニ住シ男宗倫ヨリ川口ヲ称ス、宗倫八代ノ孫宗持大橋廣定ノ二男宗貞(定)ヲ養子トス、家紋ハ丸ニ茗荷一ノ字、王ノ字(向島岩子島史)

川口家は、大橋家とは季房までは同じ平氏で、大橋家は、家貞の流れとなり、川口家は、季宗の流れとなって、川口家は代々「宗」がつけられるようになったと推測できる。つまり、同じ伊勢平氏として大橋家ともほとんど同族関係にあったのだと思われる。そして、盛祐が、宗定と改名して、嫡子の絶える川口家を継いだと考えられる。

川口宗定の妻は、徳川家康の祖母の華陽院(於富の方)。
以後の川口家(川口宗吉から)は、徳川家康とも血縁関係ということになる。華陽院は、松平清康、水野忠政、あと二人と結婚している。華陽院との子に川口宗吉。華陽院は、なんと5名と結婚している。よほどに魅力があったのだろう。

水野忠政と華陽院との娘(於大の方)が徳川家康の母である。

大橋安定の子、大橋重長は、織田信秀の娘婿で織田信長の姉婿である。最初は、尾張国・清洲城主織田家と領地を争っていたが、後に、織田信秀に帰順する。

大橋安定と織田信秀の娘の子は、織田一門となった織田信弌。本能寺の変で戦死した。もう一人の大橋安定の子、大橋重一は、津島に近い美濃の高須城の城主となっている。川口家の由来となった美濃の川口村にも近い。津島四家七名字に川口家は含まれていないが、大橋家と同様に武家としての力があったと推測できる。

川口宗勝が、徳川秀忠に召し抱えられることになったのは、伊達政宗の嘆願によるところも大きなところがあったと考えられる。伊達家は、南北朝時代は南朝の忠臣であり、第7代、伊達行宗(行朝)は、後醍醐天皇に従い、義良親王(後村上帝)、北畠顕家の式評定衆として尽くしており、同じく南朝の忠臣であった津島大橋家とも同朋の関係であったことから、一説に後醍醐天皇の後胤であるとされる大橋家から養子となり川口家となった子孫である宗勝を、とにかく何としてでも擁護するのは、南朝忠臣の伊達家として当然のことであったということであるのかもしれない。

大橋家は、大橋重賢が、織田家の家臣として、滝川一益に仕えたが、滝川家の没落後、福島正則に仕える。福島正則の改易後、松平直政(父は徳川家康の次男・結城秀康)に仕えて家老となっている。(松平直政が、出雲松江藩に入る際、武名の高かった福島正則・旧臣の大橋茂右衛門を6千石で召し抱え、家老としている。)

久米田寺は、往生院とも似たような歴史を持っており、奈良時代に聖武天皇勅願、行基菩薩開基の四十九院の一つとして創建されたとされており、平安時代に九条兼実の姉・皇嘉門院の持仏堂である九条御堂の末寺として寺域が整備されている。更に、南北朝時代には、楠木正成らによる南朝の一大拠点となっており、南朝からの庇護を篤く受けているのである。

大雄寺は、大正時代に、豊島妙澄尼(松山藩士の子孫)が住職になっていた。豊島妙澄尼の長女・壽子(茶道・華道・俳句の師範)と川口蓮海が結婚し、川口立誡が生まれている。大雄寺は、楠木正成の一族・和田高家が築城した岸和田城に近く、また、楠畑と名があるように、近くには楠由来の名前が幾つも見られることから、南朝・楠木家に縁があったと推測できる。現在は無住のお寺である。

豊島英海・浄土宗教師・松山藩士の子孫。蓮海の妻・壽子の弟(松山には豊島家住宅・重要文化財が残る)。

終戦後すぐの頃には、度々、窮状打開・寺院護持のための断食行、千巻心経祈願・一切経祈願・金剛経祈願・理趣経祈願が川口立誡により修されている。復興へと向けた並々ならない気迫が伝わる。
三樹子(芳樹尼)の母・塩田妙澄尼(前述の豊島妙澄尼とは別人)は大阪市・天王寺区・六大院(真言宗)の尼僧。戦後になり往生院に入り、長年、三樹子(芳樹尼)と共に往生院の復興に大変貢献される。当時、川口立誡が住職であった頃は、檀家制度を廃止しており(信徒制度)、また、川口立誡は、葬式仏教を廃するとの強い信念があり、葬式の導師を勤めることは住職在中、一度たりとも無かった。ただ、次世の川口哲秀の頃からは葬儀の導師の受け入れを再開している。寺院・小楠公の歴史・史跡の保全に努める。民具歳時記の発行(延べ30号以上)。

戦時に梵鐘と共に供出されて無くなっていた小楠公銅像を再鋳再建。

浄土真宗開祖・親鸞、親鸞の正妻・玉日姫との関連精査


伝・親鸞聖人自作像

由緒書解読

具一切功徳 慈眼視衆生

福聚海無量 是故應頂礼

星歳如夢 往昔□□日□□末代門葉唯称佛名歓喜踊躍

祖大織冠鎌足末父有範母吉光前師慈鎮和尚後?帰?法然上人

釋愚禿親鸞世壽六十五歳而自像作者也

干時□□□丁酉年三月廿二日

南旡阿弥陀佛

丁酉(ひのととり)は、1237年1297年1357年1417年1477年1537年1597年1657年1717年1777年1837年1897年1957年

とある。本当に六十五歳の時に自作されたとすれば、1237年・嘉禎三年となる。

筆跡は、親鸞聖人の自筆では無いと思われる。筆跡を親鸞聖人真筆の教行信証等と比較すると、特に「世」が明らかに違うと思われる。また、名前も正式には、愚禿親鸞 か 愚禿釋親鸞 と書くはずである。おそらくは、後にお付の者か、弟子か、後世の者かが、その由来を書いて貼ったのだと思われる。

胎内仏・阿弥陀如来立像・金属製・後ろに「九品仏」と彫られてある


法然聖人・三日月の御影

知恩院の三日月の御影の軸画ともまた違う絵柄である。知恩院の三日月の御影は、特別な時(御忌定式)にしか掲げられない大切なもののようで、南北朝時代に描かれたものであるらしい。

三日月の御影の由来は、藤原隆信(1142-1205)が、夢の中で見た三日月に座す法然聖人であるらしいが、隆信が描いたものは、現在、現存していない(未発見)。隆信の原画ではないにしても、原画の模写の可能性もある。

藤原隆信の子、藤原信実(1176-1266)によるものではないかと思われる。藤原隆信は、歌人、画家で法然聖人の下で出家しており、藤原北流であり、九条家とも交流は深く、その子、信実は、似絵の家元になっている。特に信実は一尺五寸の坐像を主に描いており、まさにこれもその寸法である。信実によるものを九条兼実か九条道家、あるいはその子孫、または鷹司家が、往生院に下賜したものであろうかと思われる。


玉日姫坐像

この尼像は、親鸞聖人の後妻・恵信尼ではなく、前妻・玉日姫である可能性が高い。九条家の菩提寺であった往生院において、当時は徹底的な念仏法難の折にて、京都や奈良では念仏での供養は難しい中(大坂の四天王寺でも念仏停止中)であったが、往生院であれば、幕府や南都仏教の監視を掻い潜って、玉日姫の菩提を念仏供養にて行えたものと考えられる。親鸞聖人の妻は二人おり、一番有名であるのが、三善為教の娘、つまり、恵信尼。三善為教となれば、その先祖は三善為康と思われる。為康は、拾遺往生伝を著した浄土教信仰者で、その拾遺往生伝には、平安期に念仏聖の安助上人が往生院を創建された由来が詳しく記されている。その恵信尼とは別人である親鸞聖人の最初の妻が、関白・九条兼実の娘の玉日姫(たまひひめ)である。

九条兼実は、法然聖人の弟子で、浄土信仰の篤信者でもあり、教義的な確信を得たいとのことから、法然聖人に弟子と自分の娘との結婚を懇願し、親鸞聖人が選ばれたということである。更に、九条兼実の異母兄弟には、親鸞聖人の戒師となった天台宗の慈鎮和尚(慈円)がいる。つまり、親鸞聖人と九条家との関係もここで生じているところである。また、同じ藤原家の流れとなる日野家の親鸞聖人と藤原家の流れの当時の一番の有力者である九条兼実の娘との結婚、そして、当時の日本仏教界の指導者的な立場であった慈円、その姪にあたる玉日姫と親鸞聖人との結婚は、僧侶の破戒的な行為として本来であれば咎められるところであるはずが、公然、黙認されたのも兼実と慈円が兄弟関係であったことからも頷けるところとなる。九条家、鷹司家により、江戸時代においての玉日姫の供養の際に、対となる親鸞聖人坐像と共に、九条家・鷹司家の祈願寺であった往生院に奉納されたものと考えられる。

玉日姫であるとして、なぜ往生院で祀ることになったのか。

浄土宗往生院の開基は、鷹司信房である。

以後、鷹司家が往生院の後見となるが、藤原北家の嫡流の流れでは鷹司家と九条家は同じ摂関家となる。特に鷹司家は戦国時代に中絶したものの、九条家の流れを汲む二条家により再興したのである。

この再興した際の二条晴良の三男・信房が、まさに浄土宗往生院の開基となっている。もともと九条兼実の頃から九条家の祈願寺であった往生院に、鷹司家が、九条家の玉日姫(兼実の娘)を供養のために祀った可能性が極めて高いと思われるのである。

また、臨済宗往生院の開基、九条道家の父、九条良経は、兼実の子であり、玉日姫とは兄弟姉妹の関係である。

父の兄弟姉妹であり、祖父の兼実から道家は後継ぎとして寵愛されていたことから、その道家がよくよく兼実から話を伺っていたであろう玉日姫のことを篤く弔ったことは十分に考えられる。

つまり、浄土信仰の中心地でもあった往生院において、玉日姫が亡くなった当時、念仏はまだ法難中ではあるものの、法然聖人、そして正妻として親鸞聖人と、浄土教との強い縁があった玉日姫を、浄土教の根本地である往生院にて隠れて弔わせた可能性が極めて高いと思われるのである。

そして、関東から関西に戻った親鸞聖人が、玉日姫の菩提を弔いに、玉日姫の縁のある地としての往生院を参詣した可能性がある。その際に、妻である玉日姫の供養の意のためにと、自分の像を作って、あるいは作らせて、安置させ、常にそばに私がいるからと、手厚く供養したとも推測できるのである。

また、あくまでもこれも推測となるが、玉日姫の遺骸の一部か、遺髪か、遺品かが、九条家の祈願寺としての往生院に祀られてある可能性も否定はできない。

であれば、やはり親鸞聖人が供養のためにと自分で彫った自作像ということも否定されるものではないと考えることができるのである。


舎利容器と舎利塔

かなり古い金属製の方には明らかに舎利がない。しかし、本堂最奥にあり、昔から寺宝級として大切に保管されてきてあったと思われる複数は、当寺院と縁のあったとされる高僧、その中でも慈雲尊者の舎利(遺骨)であると先代は判断して、新本堂建立に際して、東西の三重塔に全ての舎利を納めたようである。

これまでの調査から分かってきたことから、あくまでもここからは私の憶測となるが、木製の古い舎利塔には、玉日姫の御遺骨か遺灰、遺髪が、そして金属製の舎利塔には、もしかすると親鸞聖人の御遺骨が納められてあったのではないかと思われるのである。

本当であるとすれば、わざわざ自分の木像まで自分で彫って、玉日姫の菩提を弔った親鸞聖人のことである。

ご本人の御遺志ではなくとも、九条家の当代か、あるいは、玉日姫のお付きで、のちに親鸞聖人の下で出家した田村光隆(有阿弥1176~1269)が、親鸞聖人のご遺骨を幾つか譲り受けて、玉日姫のそばへとお祀りした可能性もあるのではないかと思われるのである。

慈雲尊者の舎利と判断した先代も、明治、大正、昭和と戦時における混乱の中で、その由来となる文献類のほとんどが滅失していたため分からなかったが、この舎利塔らの護持のあり方には、何か特別なものがあると思われて、慈雲尊者のものとして三重塔に納められたのであろう。

私の推測が正しければ、本堂前の東西の三重塔には、親鸞聖人の御遺骨と、玉日姫の御遺骨あるいは遺灰、遺髪が祀られてある可能性もあるのではないかと考えており、今後の調査の進展を待ちたいところである。


その他、今回の調査対象

伝・浄泉和尚(浄土宗・往生院中興開山)坐像

江戸時代に作成されたものと思われるが、はっきりとした由来はわからない。


百万塔

百万塔は、天平宝字8年(764)におこった恵美押勝(えみのおしかつ)(藤原仲麻呂)の乱後の動乱を鎮めるために、称徳天皇によって発願され、宝亀元年(770)に完成した100万基の小塔。中には陀羅尼経の一片が納められている。その一つで、奈良時代に聖武天皇勅願・行基開基にて創建された六萬寺に奉納されてあったものが、六萬寺の後に創建された往生院へと伝わったものであると推測される。


役行者坐像

旧本堂から昭和2年建立の行者堂にて祀られていた。行者堂は後に傷みのため解体、その後、現在の新しい本堂へと安置された。江戸時代の制作と思われるが、由来ははっきりしていない。伝わるところでは役行者の自作となっている。今回改めて調査対象とする。


本能寺の変についての一考

明智光秀による「本能寺の変」の背後には、南北朝の対立による影響もあったのではないだろうかと考えられる。

織田家は信秀の時代から、有力臣下には南朝功臣たちの子孫が多く、やがて信長を総大将として、南朝の復権へと向けた工作意図があった可能性も否定できない。

楠木家の子孫である楠木正虎も書記官として信長に仕えている。南朝最大の遺臣である北畠家に織田信雄を養子として北畠の家門を継がせたのも、南朝功臣たちの子孫への配慮であったと思える。

また、津島大橋家(大橋重長)と織田家(信秀の娘)との間の子・信弌は、織田家の連枝(一門)となっている。一説には津島大橋家が後醍醐帝の後胤であったとされることからも、南朝方においては、南朝後胤を天下統一間近である織田家の一門に加えることのできた意義は大きく、それもあって、いよいよ南朝の復権(南朝の天皇への譲位)を恐れた朝廷が、本能寺の変の背後にあったとしても全く不思議ではない。

とすれば、光秀の本命は、信長、信忠よりも、むしろ後醍醐帝の後胤とされる信弌にあった可能性も否定できないだろう。(信弌は本能寺の変で戦死している。)

(明智家の出自となる土岐家は、南北朝時代、最初は後醍醐帝に従うも、その後は足利尊氏に従って北朝の功臣となり、美濃守護となっている。その土岐家、足利家に従ったのが明智家であり、光秀も信長の家臣ではあるものの、足利義昭の忠臣中の忠臣であり、信長の足利義昭追放後には北朝方の一番の有力者となっていたのである。南朝復権を恐れた朝廷が光秀に信長討伐を密かに命じたのではないかとも考えられる。)


徳川家康の出自の松平家についての一考

徳川家康の出自の松平家は、元々は新田系清和源氏である世良田氏からの流れとされている。

世良田家は、新田家と共に後醍醐帝、特に宗良(むねなが)親王に仕えて各地を転戦した南朝功臣である。

津島大橋家とももちろん縁が深く、同志中の同志で艱難辛苦を共にしている。織田信長が松平家、徳川家康を厚遇したのも、津島大橋家と一緒で、やはり南朝功臣の子孫であったからだと推測できる。

非情だとされた信長ではあるが、よくよくに調べてみると南朝功臣の子孫となる者たちにはかなり配慮している。

一方、北朝側の子孫へは容赦しなかった。この歴然としてある差はいたるところで現れている。

やはり、信長は南朝功臣たち子孫の勢力結集、復権への悲願を利用することにより、北朝勢力を排して、天下統一を果たそうとしたのではないかと思われるのである。

そのあともう一歩のところで、足利義昭の下で一番の幕臣であった明智光秀により討たれることになる。

その後、豊臣秀吉により天下統一は達成されるが、南朝方の復権(南朝の天皇即位)とまでは至らずであった。

秀吉の死去後、南朝功臣たち子孫は、徳川家康をその中心として、やがて豊臣政権を打倒、江戸幕府が開かれることになるのである。関ヶ原の戦いも各勢力を分析すると、まさに北朝方と南朝方との争いに綺麗に分けることができるのである。


関ケ原の戦いについての一考

関ヶ原の戦いにおいて、小早川秀秋が本来は西軍であるべきが、東軍についたのは、後南朝の朝廷が関係していたと思われる。小早川秀秋は、木下家の出自で、秀吉の後継者の一人として豊臣家の連枝となっていた。

秀次事件によって秀吉より後継者から外されてはいたものの、秀頼の後見人と期待されると共に、当然に豊臣家を守るべきであるはずが、関ヶ原の戦いにおいて、豊臣家を裏切り、徳川家康につくことになった謎が、後南朝の朝廷にあったのではないかと考えられる。

後南朝後胤である小倉宮家とは、秀秋が越前(福井)・北ノ庄15万石の大名に転封になった際に、秀次事件に連座して以来、中央政権への再起を図るために、美作には行かずに北ノ庄に残っていた小倉宮家との関係を築き、そして、その関係から、南朝方勢力が集まっていた徳川家康にやがて従うことになったと考えることができるのである。そして、関ケ原の戦いでの論功行賞により、秀秋は、宇喜多秀家(西軍側)の改易によって岡山藩主となる。これには、既にあった小倉宮家の美作・津山の後南朝・朝廷「植月御所」を管轄、庇護するようにとの家康の裏の意図があったのではないかとも思われる。(実際に、家康、秀忠の代において、江戸幕府は美作後南朝・朝廷に対して2万石を扶持している。関ヶ原の戦いにおける南朝勢力結集へのお礼、対価であると考えることができる。)

秀秋の死去後、秀秋に跡継ぎがなかったため、無嗣改易となり、その後は、やはり南朝方と言える織田信長の家臣として活躍した森可成(清和源氏の流れ)の子・森忠政が、美作・津山藩主となり、後南朝朝廷を安堵している。同族の森家は、南北朝時代には細川清氏(北朝方から南朝方となった)に仕えて南朝方として戦っている。(岡山藩主は、池田光政。摂津池田家は楠木家と共に北朝と戦った南朝功臣である。足利尊氏に帰順後も南朝方として特に楠木正行の遺児・教正を匿って育てたとされている。)

森可成は、土岐家、斎藤家、織田家と従った戦国武将。森可成の兄弟には本能寺の変で信長と共に死去した森蘭丸がいる。その後、津山藩・森家は四代にわたり後南朝・美作朝廷を庇護するものの、やがて幕府により意図的に森家が改易されると共に、美作朝廷は廃絶されることになる。(1697年、幕府による良懐親王の親王号の剥奪。)


後南朝についての一考

南北朝の統一としての「明徳の和約」が破られると、後南朝勢力が南帝を擁立して蜂起することが度々に起こる。

北畠満雅による後亀山上皇とその皇子・小倉宮恒敦を擁立しての挙兵(和睦)、恒敦の子・小倉宮聖承を擁立しての挙兵(伊勢守護・土岐持頼により鎮圧)、その後も、河内での楠木家による挙兵(畠山持国により鎮圧)、源尊秀によって南朝皇胤とされる通蔵主・金蔵主兄弟を擁立しての「禁闕の変」(鎮圧)、同じく南朝の皇胤であるとされる自天王と忠義王が、赤松家再興を目指していた赤松家家臣たちにより討ち滅ぼされる「長禄の変」、また、後村上帝の孫である円満院門跡・円胤(説成親王の子)の挙兵(鎮圧)、そして、小倉宮の末裔とする者たちによる挙兵と相次ぐも、全て失敗に終わることになる。

その後、戦国時代へと向かう大きなきっかけとなる応仁の乱でも、南北朝が絡むことになり、東軍は北朝、西軍が南朝といった構図となっている。

東軍の総大将・細川勝元が、後土御門天皇・足利義政を味方としていたことに対抗して、西軍の総大将・山名宗全は、南帝(奈良・高取の壷阪寺にいたとされる小倉宮の末裔)を擁立し、南朝勢力を結集して戦いを進めていこうとする。しかし、山名宗全が死去し、東西の和議が成立すると、この西陣南帝は放逐され、越前(福井)・北ノ庄へと落ちのびることになる。

また、小倉宮家は、近江(滋賀)・甲賀を経て、山名宗全と同族で、嘉吉の乱後の赤松満祐の討伐の功績により、美作・石見守護となった山名教清(祖父の山名時氏は、新田系源氏ではあるが、足利家との姻戚関係から最初は足利尊氏に従うも、その後、足利直義に従って南朝方となる)を頼って、美作(岡山)・津山へ辿り着き、吉野と同様に朝廷としての「植月御所」を立てることになる。

流れとしては、小倉宮良泰の子・高福天皇(尊義)・後南朝初代天皇→義有親王の子・興福天皇(尊雅)→尊義親王の子・忠義天皇→尊朝親王→尊光親王→尊通親王→尊純親王(青蓮院宮、1638年、天台座主になる)→高仁天皇(1626年、後水尾天皇より譲位されたとされているが、1634年に幕府により廃帝。但し、正統な天皇の系統には入っていない。後水尾天皇の次は、その皇女・明正天皇となっている。この譲位は名目的なもので、実質的には後南朝後胤の断絶を意図した幕府の懐柔策として行われたものであるとも思われる)→良懐親王(1697年、幕府により親王号剥奪。1709年、岡山・西大寺へ参詣に向かう途中で死去。暗殺されたとも。)

以後、小倉宮家は断絶されたとされるが、この小倉宮家の末裔と称する者たちが、戦後に南朝系の天皇であると何人も名乗り出ている。


美作後南朝についての一考

正史では、後水尾天皇の次の天皇は、明正天皇となっている。この間では朝廷と幕府において色々と揉め事が頻繁に起こっている。

高仁親王の名も正史には確かにあるが、それは夭折した後水尾天皇の実子とされている。

一方、美作後南朝史では、1626年に後水尾天皇より譲位されて、後南朝天皇・高仁天皇(正統歴代には含まれていない)が即位し、1634年には幕府により廃位されて、明正天皇(女帝)がその次の天皇となっている。

明正天皇は、後水尾天皇の第二皇女で、母は徳川秀忠の五女の和子であり、徳川家の外戚が天皇となったのである。

この間に、もしも後南朝側の天皇を幕府が意図的に即位させていたとするならば、その意図は、南朝方勢力への配慮であったと言えるのかもしれません。

徳川家にとっては、南朝方功臣たち子孫の活躍によって、関ヶ原の戦いも勝利できたため、南朝方への最大級の見返りということになるわけです。南朝功臣たち子孫の悲願は、何よりも南朝方天皇の即位にあったからです。

しかし、美作後南朝史では、間もなくして高仁天皇は廃位に追い込まれています。やはり、北朝の天皇が正統であるということが、当然に朝廷・公家たちの認識であり、後水尾上皇もまだまだ健在である中で、王子も誕生していたのであるから、そんな幕府の側の事情による皇位継承などお構いなしで、南朝の高仁天皇の存在など、朝廷は微塵も認めることなどなかったと推測できるのであります。

もちろん、実質的に朝廷としての機能はそのまま京都御所にあるため、南朝の高仁天皇が美作から京都入りできていなかった以上、その譲位は、ただ、幕府によっての名目的なものであったことが容易に分かるわけであります。そして、当然に歴代天皇、歴史上にも正式に記録が残されることはなかったのであります。

また、徳川家にとっては、その外戚となる皇女が次の天皇となることになったため、南朝方であった松平家とはいえども断る理由などどこにもなく、早々に高仁天皇を廃するのは、むしろ歓迎されるべきことであったのかもしれません。もしくは、それが後水尾上皇との取引であったのかもしれません。高仁天皇の廃位と明正天皇の即位のバーターということです。

明正天皇の後には、後水尾上皇と藤原光子(壬生院)との男子である素鵞宮が、後光明天皇として即位。

しかし、後光明天皇は早逝し、その弟が後西天皇となり、その次には後水尾上皇のまた別の王子である霊元天皇、そして、その次には霊元天皇の子、東山天皇と、結局は、北朝方の天皇がそのまま続くことになります。当然に後南朝、小倉宮家の皇位継承は論外とされているのであります。

やがて、五代将軍・徳川綱吉の代においては、後南朝後胤、後南朝勢力の断滅策が講じられることになり、1697年、美作・津山藩主・森家が正当な理由が見当たらないのに突然に改易処分、幕府は美作後南朝の良懐親王の親王号を剥奪、その後に良懐親王は暗殺されたと思われるのであります。

関ケ原の戦いで活躍した南朝方功臣の子孫たちも、代がすっかりと変わってしまい、後南朝のことなど忘れ去られつつある中、もはや南朝復権への悲願も遠い昔のことになってしまったのでしょう。

奇しくも、津山藩主・森家が改易された同時期には、青菅旗本の川口家も改易されています。同じ南朝功臣の子孫、織田家家臣の子孫という繋がり、果たして偶然といえるでしょうか。

他にも、徳川綱吉の代においては多くの外様大名・旗本が改易処分されています。南朝功臣の子孫たちの排除もその目的の一つにあったのではないでしょうか・・(後南朝の宮家としては、小倉宮家の他にも、護聖院宮家、玉川宮家などが存在していた。)