今年、本校の5年生では「南中ソーラン」を運動会の演目にしていました。
力強く、かつ今の子どもたちのリズム感に合うような振り付けと構成で、
他学年の子どもや親御さんにも感銘を与えていました。
「ソーラン節」自体は、たしか、民族歌舞団わらび座の創作舞踊で、
ニシン漁の「労働」の形を振り付けしたものだったはずー。
ただ、わたしが新任の頃に取り組んでいた振り付けは、
アコーディオンと太鼓の伴奏で、もっとゆっくりしたものでした。
それを「南中」では労働の形をくっきりと描きつつ、現代風に再創造し、
より魅力的なものになっていました。
そして、わたしの担当する4年生は「みかぐら」でした。
みかぐらも、たとえば学校体育同志会などの教材分析もすすんでいる
有名なもので、あちこちでとりくまれてきています。
しかし、今回のものは、曲「獅子の舞」を間に挟み、
その前後を太鼓だけのリズムで踊るという構成で、
木に竹を接ぐような感しかしないものにしてしまいました。
「今までとはちがうみかぐらにしたい」という思いが
、みんなにうまく伝わらず、
わたし自身も明確な方向性が見いだせないままの、
「船頭が多くして船、山にのぼる」という形になったためです。
(獅子の舞の挿入は学年の先生の提案です。)
そして、みかぐら自体も、
「振り」の一部分にストップモーションをかけたような構成にしたり、
前後の向きを変えての群舞の形を取り入れたりもしましたが、
もうひとつ煮え切らないものにしかできませんでした。
わたしの力不足でしたし、
なによりも「みかぐら」の魅力をつかみきれないままの、
小手先の、「水増し」構成の域をぐるぐると這い回っていた…
としか思えません。
「みかぐら」の魅力はなんなのか。
伝統芸能とも言える「振り」を
個人の思いつきでいじくってみても
「再創造」にはならない!
ということを思い知らされた、苦い運動会になりました。
力強く、かつ今の子どもたちのリズム感に合うような振り付けと構成で、
他学年の子どもや親御さんにも感銘を与えていました。
「ソーラン節」自体は、たしか、民族歌舞団わらび座の創作舞踊で、
ニシン漁の「労働」の形を振り付けしたものだったはずー。
ただ、わたしが新任の頃に取り組んでいた振り付けは、
アコーディオンと太鼓の伴奏で、もっとゆっくりしたものでした。
それを「南中」では労働の形をくっきりと描きつつ、現代風に再創造し、
より魅力的なものになっていました。
そして、わたしの担当する4年生は「みかぐら」でした。
みかぐらも、たとえば学校体育同志会などの教材分析もすすんでいる
有名なもので、あちこちでとりくまれてきています。
しかし、今回のものは、曲「獅子の舞」を間に挟み、
その前後を太鼓だけのリズムで踊るという構成で、
木に竹を接ぐような感しかしないものにしてしまいました。
「今までとはちがうみかぐらにしたい」という思いが
、みんなにうまく伝わらず、
わたし自身も明確な方向性が見いだせないままの、
「船頭が多くして船、山にのぼる」という形になったためです。
(獅子の舞の挿入は学年の先生の提案です。)
そして、みかぐら自体も、
「振り」の一部分にストップモーションをかけたような構成にしたり、
前後の向きを変えての群舞の形を取り入れたりもしましたが、
もうひとつ煮え切らないものにしかできませんでした。
わたしの力不足でしたし、
なによりも「みかぐら」の魅力をつかみきれないままの、
小手先の、「水増し」構成の域をぐるぐると這い回っていた…
としか思えません。
「みかぐら」の魅力はなんなのか。
伝統芸能とも言える「振り」を
個人の思いつきでいじくってみても
「再創造」にはならない!
ということを思い知らされた、苦い運動会になりました。