1960年代生まれの音楽メモ。

あの時観た映像や好きな音楽をクリップしておくブログ。

アンカー。

2022-07-03 15:46:29 | その他
これはこのブログのアンカーです。続きは「-15」に。

「リベラル」について。

2017-10-03 19:05:28 | その他
小池旋風(?)にまつわって、もう1つ。

小池旋風にまつわって、「リベラル」ってなに?という話題がある。
市井の一個人の私がイメージするリベラルは

○自分がイメージする/思うところの「リベラル」:
   自由・寛容・公正・相互尊重(個人の尊重)という世界観、哲学、精神、気持ちの在り方。
   イメージするというか、そういうことを表現するときに使う。そういう意味を込めて使う。
○自分がイメージする/思うところの「リベラル」の反対:
   人に、その意思を無視して何かしていいと思っている/思う考え
   自分だけよければいい、他の人はどうなってもいい、という世界観、哲学、精神、気持ちの在り方。
   リバタリアニズム、新自由主義、新保守主義と親和性がある。
   人種差別、性差別など、差別と親和性がある。
     または
   全体主義:独裁主義国や共産主義国のような。
   因習世界 → 人間の振る舞いとしてはよりプリミティブな。(理性とか理念とかより、より本能的な態度・振る舞い)

です。


Wikipediaの記事「自由主義」によれば

○「自由主義(じゆうしゅぎ、英: liberalism、リベラリズム)とは」「人などが自由に判断し決定する事が可能であり自己決定権を持つとする思想・体制・傾向などを指す用語」。「自由主義のliberalism」「liberate(解放する)、liberator(解放者)、liberation(解放)も同じ語源」。

○「啓蒙思想から生まれた近代思想の一つであり、人間は理性を持ち従来の権威から自由であり自己決定権を持つとの立場」。「『自由主義』や『リベラリズム』という思想や用語は、時代や地域や立場などにより変化している」。「必ずしも保守主義との対立概念とはいえない。米国や日本では、主として保守の立場から、福祉を重視する(穏健な)革新主義の立場を指して『リベラル』と呼称するようになり、意味の変容がみられる」。

「近代自由主義(モダン・リベラリズム、英: Modern liberalism, Reform liberalism)は、自己と他者の自由を尊重する社会的公正を指向する思想体系のこと」。「『公正』とは、ジョン・ロールズによれば『立場入れ替え可能性の確保』を意味する。これは人々に『社会のどこに生まれても自分は耐えられるか』という反実仮想を迫るもの」。

※「政治的自由のみならず経済的自由を強調する表現はリバタリアニズム(libertarianism)および新自由主義(Neoliberalism)であり、これは新保守主義的考え方ということになり、歴史的な自由主義とは違う概念」。

だそうです(強調は引用者)。



民進党のなかの左の人たちについて。

2017-10-01 07:08:00 | その他
小池旋風(?)にまつわって、1つ。

この展開、民進党のなかの左の人を語るとき、その人たちを批判する人たちは、「リベラル」に対して上から目線になりたい、積年の恨みを晴らしたい、みたいな感情視点で語らないほうがいいし、いっぽう当の政治家たちは、なんで自分を公認してくれない?という気持を希望の党に対して抱いたり迫ったりする政局戦略処世術に徹した(?)言葉で捉えたり/を発信したりしないほうがいい。それでは、これまでの政策なき烏合集合離散数合わせ生き残り戦略とまったく同じ姿だ、両方とも。視点が視線が哲学が視る目が。

この展開になったら、たとえ当選しなさそうでも、しなかったとしても、個々の政治家は自分の信念に基づいて政策を掲げ、国民に信を問うのがいい。信念が共鳴する政党があったら所属すればいいし、なければ無所属で打って出るべきだ。
処世術としては厳しいかもしれないけど、その部分の覚悟が微塵もないのに国会議員になっているのだとしたら、その人は政治家ではなく政治屋だ。

上から目線になりたい、怨みを晴らしたい、という語り口で批判している人は、まあ、「イマドキ」なのかもしれない(けど)。


ダンケルク。

2017-09-16 16:42:58 | 映画
映画「ダンケルク(Dunkirk)」を観た。

ダンケルク (2017年の映画)
ダンケルクの戦い
Dunkirk

自分個人の感想では、キーワードは、 現実/生活のなかにおける、個人の勇気 だった。前に進む勇気、撤退する勇気、受け入れる勇気。

言葉としては、日本語字幕では、たしか1回だけ、「あいつは腰抜けか?」というセリフが出てくる。ヨーロッパ大陸のフランスから、海を越えて母国へ撤退しようとしているイギリス軍の兵隊たち、撤退を支援するために国から飛ぶ空軍の戦闘機のパイロット、兵士を迎えに戦場へ行く艦船に乗り組んだ兵士ではない女性男性たち、艦船が足りなくて徴用されてフランスへ向かう民間船の乗組員たちが、それぞれ各々の持ち場ポジション立ち位置立場でする瞬間瞬間の判断、ケガや命を奪われるのは当然恐い、そのなかで己が役割(?)、自分に与えられた(?)使命(?)仕事(?)を遂行するために、前に進むか、引き返すか、自身の命安全を維持したまま出来るかもしれないけどダメかもしれないことに直面したときの個々の判断/姿様が描かれる。ハナから完全に不可能な(つまり無謀な)行為に及ぶ話ではない(たとえば軍が撤退作戦を遂行するのは進軍が不可能になったからだろう。その時点で進軍をする/続けるのは無謀であると(政府が?国民が?)判断したからだろう)。こうすることが今あなたの役割である・生活である・仕事であると置かれたそれぞれの立場において、行けるか行けないか、個人個人の判断のシーン、局面が描かれる。

テルモピュライの戦いに擬えるシーンがあるラストサムライや、やはり戦場の兵士を救出に行く物語のプライベートライアン、怪物の出現にあたって対応する人々を描いたシンゴジラと通じるところがある映画。人間を描くなかで、描いている部分、描こうとするものが同じ映画。小説では、たとえば永遠の0 がある。
自分の生活のなかで、文字や情報で得られる部分にまで広げた範囲でではなくて、自分が実際に見聞き出来る範囲の実際の生活のなかで、自分の現実の行動(範囲)のなかで、瞬間瞬間に物事をどう判断し、どう向かうか、というところを、第三者(映画の観客)が冷静に観ている映画。命がかかっている「舞台設定」だと、その判断が際立ちますよね。


上に挙げたすべての映画に共通するのは、「観た人の評価が分かれる」 ところですね。胸にきたという評価と、どこが見どころなのか意味がわからないという評価と。
自分の思うところでは、たぶん、日々の自分の現実の実際の個々の行動について、「(人間として)恥ずかしくないのか?」と問われたときに、ドキッとする ないしは ふと自問してみる人は高い評価を付け、その問いからは逃げたい ないしは かわしたい または その部分はしかと(無視)していたいという人は低い評価を付ける、というところだと感じる。「『恥ずかしくないか?』『勇気?』何それ?」という人は、「嫌い」だろう。またあるいは、あの場面に居るのがもし自分だったら、という想像力を働かせないタイプの人、日常生活のなかで、(他)人の立場に立ってものを考えてみることを全然しない人は、まったく「ピンと来ない」だろう。吹き出しのなかに「?」という感じになるだろう。
ダンケルク、楽しいか楽しくないかといわれたら、楽しいわけじゃない。面白いか面白くないかといわれたら、面白いわけでもない。だからたとえば、今日は楽しい気分になってリフレッシュしたい、という状況の人(気分の時)にはお薦めしない。でも、映画として評価するし、見ごたえはあった。機会をみて観てみたら?とは薦められる。人間の感情や価値感や世界観を表現する1つの映画として。
ダンケルク 評価 - Google 検索


最後に。

戦争は、してはいけない。たとえば日常生活でもわかるように、何かをしてきて、それを 「やめてくれ」 と言ってもやめない人は現実には居る。国と国の話でもそうで、世の中、「話せばわかる」人や国ばかりではない。だから、準備は必要(※)。でも、国と国が戦争することになったら、戦場へ行くことになる生きている個々の生身の人間たちは、またそれだけでなく、「敵」は「戦線」を飛び越えて相手の国をちょくせつ爆撃攻撃しにかかるかもしれないから、戦争をしている国のすべての人が、あの状況に置かれるのだ。それは、嫌だ。

もうひとつ。

映画では、あの困難から生還した人に、「HOME」の人たちは暖かく迎え入れた。「迎:あなたはよくやった」「兵:生きて帰って来ただけだ」「迎:充分だ(It's enough)」といって毛布を差し出す人、食べ物を手渡す人、笑顔でビールを差し出す人。あのシーンはよかったなあ。あのシーンは、ちょっと、涙が出た。
たとえばかつてのベトナム戦争では、アメリカの世論が戦争を始めたときは「正義の戦争」だったのが途中から「でっちあげた戦争」に変わっていたので、帰還兵に「人殺し」呼ばわりを投げつける人も居て、それが理由で精神を病んだ人もいたそうですよね。国の振る舞いとしては、でっちあげてウソをついて戦争をするなんて「悪」だ。「極悪」だ。でも、愛する国が起こす戦争が「正しい」ものと信じて戦場に行くことを決めた者に、あるいは国や社会の全体の動きのなかで戦場に行くことになっ(てしまっ)た個々の生身の人間に、国が起こした戦争の正当性の是非を、それも途中から変わった世論の声を投げつけるなんて酷い。そのときのアメリカの世論は、彼らが出発したときには、「正しい戦争」として送り出したんじゃないのか。じゃあ、暖かく迎えないと。政府のことは、開戦を決めた判断は、判断をした人のことは、途中からでもあとからでもいくらでも極悪だ非道だと非難したとしても。

※武力は必要。意思表示が通じなかったら、使うしかない。でないと、一方的に搾取される(自分は得るものがないのに、相手は得るものがある状態)。「人間の尊厳」とは、「搾取を拒否すること」だ。「尊厳を守る」とは、具体的な何か行為そのものを1つ1つ「いい」とか「悪い」とか決めていくことではない。物理的には同じ行為行動でも、関わる人が受け入れていれば、それは悪くない。悪くないどころか、喜びであったりする。誰かが搾取されていることが、「悪い」ことだ。何かを提供して何かを得る。関わる者が、その交換に同意していることが、「悪くない」ことだ(※※)。
※※人と人のやり取りは、いちばんベースの部分では、ギブ&テイクだ。誰かのいいものを、同意なく誰かが手に入れる、誰かの価値あるものを、同意なく誰かが勝手に味わってしまう食べてしまうことは、「悪」だ。何か(※※※)を手に入れたい、欲しい、味わいたい、食べたいと思ったら、コミュニケーションを図って、それを持っている者の同意を得なければならない。
※※※何か:注がれる愛情、払われる敬意、向けられる関心、優越、体、物、売り上げ、お金、etc、「人が欲するもの」全般。所有物も人の気持ちも含まれる。物理的なものか精神的なものかは問わない。全て。


2017年初秋、二題。

2017-09-13 05:06:46 | その他
妬みとストーキング。

相手を不快にさせないではいられないという衝動、相手が不快を感じたら喜びを感じる気持ち、相手に不快な思いをさせたいという感情、相手に不快を感じさせることが出来たら満足という心境、(相手に何かをされた場合は別だけれど)何もしていない他人の安寧が許せない(邪魔をしないではいられない衝動が湧く)心持ち、それは妬みだ。目の前の相手への妬み、自分の思い通りに自分を受け入れてくれない相手や世の中への恨みだ(自分の思い通りに通用しない自分自身への怨みだ)。
一流の人は謙虚で二流の人は知ったかぶりをすると言う言い方もあるけど、二流の人、むやみに見栄を張る人とか、やたらと偉そうにしないではいられない人とか、際限なくマウンティングしたがる(頻度が高すぎる、あるいは、上からでは来ない相手にも(ムカツいて)しつこくマウントし(返さ(←そういう衝動を抱いてしまう))ないではいられない)人と言っても、合ってすよね。また、一流の人と二流の人と言うけど、(自分の思わぬところで)通用してしまう人と(自分の想定外で)通用しない人、(熱い願いや願望を抱いたとして)それが通用している時/人と通用していない時/人、と表現しても合っていますよね。

ストーキングは、振り向いてくれない!なんとかして自分に向かせたい!という気持ちから生まれるものと、妬みが意固地になったものがあります。
ストーカーって、暗に陽に自分の存在を知らせよう示そう通知しよう誇示しようとしますよね、ストーキングの対象に。コミュニケーションを経ない介さない通さない(相手の同意合意を得ないで何か(※)をする) その行動 が、どの立場にも組しないスタンスに立って客観視をしてみれば、たとえば天から人々の様子を見下ろしてみたとしたら、 “つきまとい(ストーキング)という外形” になっているわけですね。
※ 何か:人の行為の森羅万象。

妬みや願望が、その人の つきまとう/絡む という行動を生む。求められたほうは、嫌だったら、離れるか払おうとする。

なんかされたら、「するんじゃねえよ」と、した人を払い除けるのは当然で当たり前のことだけど、(何もしていない人に)意地悪するのは(意地悪しないではいられないのは)、報われていない人/時です( 報われてない!という感情 )。一見そうではない場合でも、当人の心の核心が満たされていない状態の人/時。