西田一紀 『狂いてさぶらふ』

ある事ない事そんな事

大きな欠伸

2017年11月14日 13時05分55秒 | 日記
散歩をしていると色々と思い、感じる事がある。
草木の色付きを見ては季節を感じ、空を眺めては己の存在の矮小さを感じ、野良猫を見つけては友達になれないものかと思い、夕暮れの景色に包まれては腹がへる。

大抵は自分の頭の上や、目の先で起こっている事に意識が引き込まれるものなのである。

しかしながら先日、珍しく靴紐が解けてしまったので、道の真ん中にしゃがみ込んだのだが、その時ひとつの疑問が生まれた。


はて、車のタイヤのカスはいったい何処へいったのだろうか。


世の中には、それはもう数え上げるのも阿呆らしい程の車が行ったり来たりしている。
それらの車には、例外なくタイヤが付いており、言うまでもなくそれはゴムでできている。
それにも関わらず、道路をよく見て歩いてみても、タイヤのカスらしきものは見当たらない。

勿論、消しゴムのそれとは異なるにしても、あれだけの量の車が行きかっていれば、いよいよ目に見えるくらいのタイヤカスが転がっていてもなんら不思議な事ではないだろう。
にも関わらず、道路の上にはそれらしきものは何一つ見当たらない。

なんとも不可思議な話である。


そんな事を考えていると、また新たな疑問が浮かび上がってきた。


よく「身を削る」だとか、「魂を擦り減らす」なんて表現を目にするが、その削りカスは何処へいったのだろうか。


身を削って何かに打ち込めば、当然それだけの削りカスが取れる事は明白であるし、それは魂にしてみても同じ事であろう。
例えば、一流のスポーツ選手なんてものは、若き時代より、絶え間なく身を削って、もしくは身を粉にして打ち込んでいるわけであるから、これはかなりの量の取れ高があるはずなのである。
さらに、この選手にライバルなんてものがいた場合、互いに切磋琢磨するわけで、削り取られる量は通常の倍以上となる事が想定されるし、それが二人分となるわけである。
これらの削りカスを集めてこねれば、もう一人人間が作れてしまうような気になる。


そんな事を考えながら歩いていると、太陽もすっかり低くなって、街には夕飯の匂いがたちこめてきた。
少し疲れたので、公園のベンチに腰掛けると、大きな大きな欠伸が出た。


ああ、きっとこれが僕のの削りカスなのだなあ。


そんな事を思ったら、なんだかスッキリとした。