西田一紀 『狂いてさぶらふ』

ある事ない事そんな事

当たり前の事

2021年02月16日 16時21分25秒 | 日記
「当たり前」とは、一見、不動不変の価値観である様に見えて、世間一般における普遍的な共通認識であるかの如く思われるが、その実、非常に流動的で、想像しているより遥かに、頼りの無いものである。
 かつては電車やバスの中でも当然の様に煙草を吸う事ができる時代が有り、ドラマの中でも、オフィスで煙草を吸っているシーンもある。
映画館でも煙草は吸えたし、古いビルの男性用の小便器には灰皿が今も残っていたりする。
そんな時代の人間に、もう数十年もすると、飲食店でもまともに煙草が吸えなくなるし、喫煙者は文字通り煙たがられて、一本吸うにも難儀する、なんて話をすれば「なにを馬鹿なことを」と、笑って済まされて、取り合ってはくれないことだろう。
携帯電話は、携帯パソコンに電話がくっついている有り様で、テレビは肉眼で見るよりはっきりと映る。
結婚、マイホーム、マイカー、そんなものへの憧れも、いつしか薄らいでしまって、性別の選択は三択、バームロールは小ぶりになって七本。
この事実を、かつての人々に話してみても、皆にわかには信じられない事だろう。
空飛ぶ車なんて夢物語だと思っていたら、いよいよ本当になりそうな気色である。

 その様な訳で、「当たり前」なんてものは、時代と共にころころと変わってゆくものであり、今後も未来永劫、変わらぬ「当たり前」があるとすれば、それは、人様に迷惑をかけてはいけない、くらいのものであろう。
もっとも、この「当たり前」こそが、一番実行し難いものであったりするのだが。

 近頃の私は、この様な「当たり前」について、方々へ思いを巡らせていたのだが、その中で、今最も「当たり前から」脱落しようとしているものを見つけてしまった。
それは、概念の上では、もう殆ど脱落しているのだが、表現の上で、すんでのところで押し止まっていたのである。
誰かがひと吹きでもすれば、これげ落ちてしまいそうな、紙一重のバランスによって、そこに立っていたのである。

「これ、チンしといて」
誰もが一度は見聞きしたことのある、フレーズである。
勿論、この「チン」、国家では無い。
言い回しには多少のバリエーションはあるものの、「電子レンジで温める」という意味での「チン」は、皆の骨身に染み渡った言い回しであることは、間違いない。
しかしながら、近頃市場に出回っている電子レンジは、「チン」と鳴く物がすっかり減ってしまったようで、その代わりに、何とも味気のない電子音を発するようである。
我が実家の電子レンジも、何年も前からピコピコと頼りのない音を発するようになった上、回転皿も無しに、回さずに温めるという怠惰っぷりである。
概念の上では脱落した、と言うのは、この「チン」という音が、ピコピコにとって変わられた事なのである。
では、表現の上では、押し止まっていると言うのはどう言う事か。
それは、電子レンジそのものが「チン」と鳴かないにも関わらず、我々は「チンする」と言ってしまう事なのである。
人格形成期を「チン」と共に過ごした者にとっては、電子レンジ=チン、という構図は絶対的な条理なのであり、それがぽっと出の電子音に取り変わったからといって、易々と受け入れるわけにはいかない。

 とは言え、私とてお役人のような硬っ苦しい人間では無い。
時代の変化には成る可く、柔軟に対応していきたいとは思っている。
だがしかし、思ってはいても、それを上手くやってのける事は、思いの外困難なものであり、其れなりの努力が必要となる。
幸にして、我が家の電子レンジは、いまだ「チン」と鳴いては、不器用に皿を回している。
だが、きっと次の電子レンジを迎え入れる頃には、店に並んでいる物は皆、電子音のものであるかもしれない。
それまでに私が子供を作らねば、私の子供は電子音世代という事になり、即ち、電子レンジ=チンと言う構図が思い描くことのできない世代として世に放たれる事になる。
それはそれでかまいはしないのだが、私が子供に、
「これをチンしてから食べなさい」
と言いつけておいても、訳の解らぬ我が子は、
「父上が何か奇妙な事を仰られておる。前々からおかしいとは思っていたが、矢張り気狂いであったか。私が母上をお守りせねば」
という解釈に至り、父親としての威厳はおろか、人間としての信用まで失墜しかねない。
リモコンを、チャンネルと言う婦人について、我々はしばしばほくそ笑んだものだが、電子レンジで温める事を「チン」という事で、嘲笑される時代は、もう直ぐそこまで来ている。




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