世の中には難しい事がたくさんある。
たくさんあるから難しい。
あまりにも殺生だと思う。
その中でも、僕がかねてより思う事は、「友達」の定義についてである。
漠然としていて、抽象的であるから、人によって捉え方が面白い程に違う。
ある時、知人の男と話していると、Aという人物の話になった。
それは皆が一目置くような人で、僕もまたAの事を称えるような事を言った。
すると知人は、Aは友達であると言った。
君は交友関係が広いから、まったく羨ましい限りだね。僕は掛け値なしにそう言った。
それから時が経ち、僕はAと話しする機会を得た。
そして私の知人と友達だそうですね、という話を持ちかけたが、Aは二、三度話をした事があると言った。
ついにAの口からは、その男が友人であるという事は語られなかった。
Aにとっては、その男は大多数の人間の一人に過ぎなかったのである。
そんな事があってから、なんだか知人の交友関係というものが、少し怪しく思われるようになった。
世の中には連絡先を知っていれば、もう友人だという者もいる。
なんだか面の皮がシフォンケーキみたいな事を言う。
時に、友人でなくとも連絡先を交換する事もあるものである。
そんな事では、友人の数を勘定するのに算盤が必要になってくる。
そう思って僕は自分の電話帳を開いてみた。
不思議な事に、何度数えてみても、五十件程で計算が終わった。
イッツァスモールワールドである。
そんなわけで、世の中には凡ゆる友人勘定法が出回っているが、僕にも矢張り独自の勘定法というものがある。
先に書いた知人ではないが、自分が友情を感じていながらも、相手の方ではなんとも思っていないのでは、それはあまりにも悲しい。
ましてや、それを第三者に向かって、友人だと吹聴して回るのは、相手方の名誉にも関わる事なので、安易に口にするのは気が臆する。
僕の場合は、その人物を知りたいと思えば、一先ずお茶に誘ってみる。
大人の社交といえば、大抵は酒の席であるものだが、僕は下戸に毛が生えたくらいにしか飲めないので、酒場ではかまえてしまうから、どうにもいけない。
珈琲屋で素面で話してみれば、大抵ウマが合うかどうかがわかる。きっと相手方にしてみてもそうだと思う。
僕は気が乗れば沢山喋ってしまうが、そうでない時はコンクリートよりも喋らない。
しかし、喋らないからと言って、退屈しているわけではない。0というものが数字であるならば、沈黙もまた会話のうちなのである。
時折、沈黙を気不味いと感じる人は、取ってつけたような話をもって、間を埋めようとする。
僕の方では沈黙には一種の心地よさのようなものがあるものだから、かえって気不味くなる。
こうなってくると、相性が良くないのだと思う。
気の合うものは沈黙さえも、共有できてしまうものだ。
そのうちに打ち解けてくると、自然と会話が生まれてくるもので、終いにはなんとも下らない話で意気投合してしまったりする。
ここに至るまでの時間は、相手によってまちまちである。一度でそうなる場合もあれば、二、三度話をする機会を経なければならない場合もある。
しかし、ここに至れば、それは僕の中では「友人」と呼べるものであると思う。
そんな人が、僕には五人程いる。
勿論、相手が何と思っているかなど、知る由もない。
仕事でもない限り、人間関係において、気の使い過ぎは賢明ではないように思う。
互いに自然体でいられることこそが、友情の第一歩なのである。
だから僕は喋る時は喋るし、そうでない時は沈黙する。
そして、それを許してくれる人がいたならば、それはとても幸せな事なのだと思う。
しかし同時に、そんな事だから、電話帳も増えないのだと、しみじみと思う。
たくさんあるから難しい。
あまりにも殺生だと思う。
その中でも、僕がかねてより思う事は、「友達」の定義についてである。
漠然としていて、抽象的であるから、人によって捉え方が面白い程に違う。
ある時、知人の男と話していると、Aという人物の話になった。
それは皆が一目置くような人で、僕もまたAの事を称えるような事を言った。
すると知人は、Aは友達であると言った。
君は交友関係が広いから、まったく羨ましい限りだね。僕は掛け値なしにそう言った。
それから時が経ち、僕はAと話しする機会を得た。
そして私の知人と友達だそうですね、という話を持ちかけたが、Aは二、三度話をした事があると言った。
ついにAの口からは、その男が友人であるという事は語られなかった。
Aにとっては、その男は大多数の人間の一人に過ぎなかったのである。
そんな事があってから、なんだか知人の交友関係というものが、少し怪しく思われるようになった。
世の中には連絡先を知っていれば、もう友人だという者もいる。
なんだか面の皮がシフォンケーキみたいな事を言う。
時に、友人でなくとも連絡先を交換する事もあるものである。
そんな事では、友人の数を勘定するのに算盤が必要になってくる。
そう思って僕は自分の電話帳を開いてみた。
不思議な事に、何度数えてみても、五十件程で計算が終わった。
イッツァスモールワールドである。
そんなわけで、世の中には凡ゆる友人勘定法が出回っているが、僕にも矢張り独自の勘定法というものがある。
先に書いた知人ではないが、自分が友情を感じていながらも、相手の方ではなんとも思っていないのでは、それはあまりにも悲しい。
ましてや、それを第三者に向かって、友人だと吹聴して回るのは、相手方の名誉にも関わる事なので、安易に口にするのは気が臆する。
僕の場合は、その人物を知りたいと思えば、一先ずお茶に誘ってみる。
大人の社交といえば、大抵は酒の席であるものだが、僕は下戸に毛が生えたくらいにしか飲めないので、酒場ではかまえてしまうから、どうにもいけない。
珈琲屋で素面で話してみれば、大抵ウマが合うかどうかがわかる。きっと相手方にしてみてもそうだと思う。
僕は気が乗れば沢山喋ってしまうが、そうでない時はコンクリートよりも喋らない。
しかし、喋らないからと言って、退屈しているわけではない。0というものが数字であるならば、沈黙もまた会話のうちなのである。
時折、沈黙を気不味いと感じる人は、取ってつけたような話をもって、間を埋めようとする。
僕の方では沈黙には一種の心地よさのようなものがあるものだから、かえって気不味くなる。
こうなってくると、相性が良くないのだと思う。
気の合うものは沈黙さえも、共有できてしまうものだ。
そのうちに打ち解けてくると、自然と会話が生まれてくるもので、終いにはなんとも下らない話で意気投合してしまったりする。
ここに至るまでの時間は、相手によってまちまちである。一度でそうなる場合もあれば、二、三度話をする機会を経なければならない場合もある。
しかし、ここに至れば、それは僕の中では「友人」と呼べるものであると思う。
そんな人が、僕には五人程いる。
勿論、相手が何と思っているかなど、知る由もない。
仕事でもない限り、人間関係において、気の使い過ぎは賢明ではないように思う。
互いに自然体でいられることこそが、友情の第一歩なのである。
だから僕は喋る時は喋るし、そうでない時は沈黙する。
そして、それを許してくれる人がいたならば、それはとても幸せな事なのだと思う。
しかし同時に、そんな事だから、電話帳も増えないのだと、しみじみと思う。
友人の定義は本当に人それぞれで難しいですよね。大人になって更にそれを感じます。
シフォンケーキやコンクリート、とても素晴らしい表現で、思わずクスッとしてしまいました。
ツアーお疲れ様でした(^^)
確かに学生の頃のように友達です!!って言い切れる間柄ではない方との出会いが多くなりますよね‥
すごい仲が良くても、関係を聞かれれば先輩後輩や、同僚と呼び方が変わるというか。。
そんな中で垣根も超えて心許せる人がいるのは有難い事ですね!
電話帳の登録数なんて気にしないでください!!
根っからの人見知りなので私もイッツァスモールワールドです。
羨ましいです^ ^
一緒にいて自分が自分のままでいられる友達って
ほんとに貴重だなって思います
無言でも心地良い関係の人ってなかなかいないですよね。私も片手におさまるくらいしかおりません。でもそこまでの関係を築くことができた友人は、一生大事にしていきたいと会うたびに思います。
誰でも初めて会った人には、無意識に気を使ってしまうと思います。でもそこから相手に興味を持つか、それとも持たれるか、打ち解けられる人に出会えたときすごく嬉しくなります。
西田さんのブログを読んだら、自分の大事な人たちにすごく会いたくなりました。
またの更新お待ちしております。
2/16のワンマンのなんばハッチで初めて夜ダンのライブ参加しました♪ニシカズさんのクールな演奏姿とほっこりしてしまうMCに沢山の元気を貰いました(*^^*)忙しい日々だと思いますし、お体ご自愛ください。