“ジョセフ・スミスは次のように述べたと伝えられている。「末日聖徒は信条を持たない。常に真実の原則を受け入れる姿勢で、明らかにされる毎に加えられていく」(「手書きによる教会史」Manuscript History of the Church, 1843年1月1日)。 ” のところですが、、これは、『歴代管長の教え ジョセフ・スミス』(2007)の第22章「永遠の真理についての知識を得る」のp264にありますな。
(英語だと“In reply to Mr. Butterfield, I stated that the most prominent difference in sentiment between the Latter-day Saints and sectarians was, that the latter were all circumscribed by some peculiar creed, which deprived its members the privilege of believing anything not contained therein, whereas the Latter-day Saints have no creed, but are ready to believe all true principles that exist, as they are made manifest from time to time. ” http://www.boap.org/LDS/History/History_of_the_Church/Vol_V )
それは過去の預言者の教えや勧告に「保守的な見解」「個人的な意見」「当時の状況を反映したもの」などと難癖をつけて蔑ろにしている背教的行為の正当化を推し進めることになるのではないでしょうか?
この福音とは、時の初めから定められていながら世に現れるのを末日までとっておかれ、現代に回復された真理なのです。時満ちたる神権時代、すなわち現代のために備えられていたものに対して、まるで時代に合わなくなったかのように見なすのであればその人の拠り所はいったい何なのだろうかと思います。
ところでNJ氏はクラーク副管長の感想を引用することで神の使徒であるマッコンキー長老の著書「モルモンの教義」の失墜を企図されていますが、同じ方法で視点さえ変えればクラーク副管長の感想のほうこそが「推測や誤り」だとなってしまうことにお気づきですか?
現実を見てみましょう、「モルモンの教義」近年絶版になるまで何十年にわたり教会員に親しまれ、多くの教会書籍や説教で引用された実績があります。私もまた伝道中にこの本がアメリカ人宣教師たちにとって注解書として利用されていたのを知っています。クラーク副管長の所感のとおりであればこのような格別の扱いを受けるはずはないのです。
であれば副管長であるクラークが間違いを言ったのか?となりますが、いえ、そうではないでしょう。
彼は教会員にとって有益な本だと認めていたのですが、「モルモンの教義」の存在を疎ましく思う人が彼の発言の中から「推測や誤り」「権威ある書物とは認められない」というキーワードを強調して見せているだけのことです。
この本は近年のNJ氏の主張と相対するものなのですが、以前有志の手によって翻訳された日本語版「モルモンの教義」の翻訳者の中にご自分の名前があるため、NJ氏は面と向かって批判も出来ず時折今回のような手法を用いてやんわりと過去を清算されているのですね。
おっと私の書き込みに立腹なさらないでいただきたいです。
ちょうどNJ氏の発言に対する私のような視点で預言者に向き合う作業、それは今回言及されている神学をまとめることには、こうした行為も含まれていると思います。
学問的手法なのか、信仰によるものなのか、真理に近づくにはどの切り口から入るべきでしょう。
末日聖徒イエス・キリスト教会は地上における唯一まことの教会であることを証します(笑)
原始キリスト教だって、最初はごった煮の状態だったものが、権威付けによって体系化されて正当と異端に区別され異端が滅ぼされてしまいました。 その結果かえって尊いものが失われたことになっています。(そのうちのひとつが人もイエスのように神になれるという教義も含まれています)
それとこれとはイコールではないけれども教訓にはなるだろう、教会の本来の使命は、「人を救うこと」そのものであって、救いに直接関係のない細々した教義については、間違ったり知らなくても昇栄にさしつかえないが、インステチュートで学ぶのも良いことだ(ただし絶対性はそれほど保障されていない)という運用になっているものと思われます。
人は無知では救われないが、知るべき内容は多くはなく、宣教師が教えている程度の「均質化され簡略化された神学上の枠のような知識」とその後に来る「それを象徴するいくつかの儀式」及び「キリストへの信仰と実践」によって、昇栄へ導かれるわけです。
本来の救いにとってはそれで十分だけれども、対外的には社会的な説明責任は求められており、そこが末日聖徒の教義の体系化のニーズになっているのであろう。 (神学がないのは教会員としてやはり困る)
ニーズは所詮この世的なものであって、ブルース・R・マッコンキーの著した「モルモンの教義」は概ね正しいと思いますし権威も勿論感じますが、度が過ぎると偶像崇拝になる危険もあり、預言者のお一人であるクラーク副管長の指摘は、そのポイントをついたものと信じています。
”
のところですが、、これは、『歴代管長の教え ジョセフ・スミス』(2007)の第22章「永遠の真理についての知識を得る」のp264にありますな。
「わたしは,末日聖徒と諸教派の最も顕著な違いは,後者は皆,何らかの特有の信条によって制限を受けており,そのために会員はその中に含まれていない事柄を信じる特権を奪われていることであると述べました。一方,末日聖徒は,……存在するすべての真実の原則を,それが明らかにされる度に,いつでも信じる用意ができているのです。」
‘……’のところは、‘信条を持ちませんが、’になるかな。
(英語だと“In reply to Mr. Butterfield, I stated that the most prominent difference in sentiment between the Latter-day Saints and sectarians was, that the latter were all circumscribed by some peculiar creed, which deprived its members the privilege of believing anything not contained therein, whereas the Latter-day Saints have no creed, but are ready to believe all true principles that exist, as they are made manifest from time to time.
”
http://www.boap.org/LDS/History/History_of_the_Church/Vol_V )
同章には他に、ジョセフからの引用として、例えば、こんなのが・・・・
「わたしには別の宗派のどのような信条も信じることはできません。どれも幾らかの真理が含まれていますが,同時にそれらすべての信条の中にわたしには受け入れられないものが含まれているからです。わ
たしは神の御前に行ってすべてのことを学びたいと思います。ところがそれらの信条は,杭(くい)を立てて〔制限を設けて〕,『ここまで来てもよい,越えてはならぬ』と言うのです〔ヨブ38:11〕。わたしにはそれを受け入れることはできません。」
「全能者に対して杭を立てる性癖があるすべての人々に申し上げます。皆さんは神の栄光を得ることができないでしょう。御子の受け継ぎの共同の相続人となるためには,あらゆる偽りの言い伝えを捨てなければなりません。」
「わたしたちが知るべき偉大なことは,創世の前に神が定められたことを理解することです。それが分かるのはだれでしょうか。人類には生まれながらに,全能者の業と道に杭を立て,制限を設ける性癖があります。……創世の前から隠されてきたことが,終わりの時には,みどりごや乳飲み子に示されます〔教義と聖約128:18参照〕。」
「人々が〔真理に〕反対して口を開くとき,彼らはわたしではなく,自分自身を傷つけることになります。……理解力の弱い人々が最も重要な事柄を一考すらせずに無視する一方で,わたしはあらゆる角度か
ら真理を見,胸のうちにしっかりしまっておきたいと思います。わたしは神がこれまでに明らかにされたすべてのことを信じています。信じすぎたために罰の定めを受けた人について聞いたことがありません。人は不信仰のゆえに罰の定めを受けるのです。」
http://ldschurch.jp/bc/content/Japan/gospel-library/manuals/teaching-of-prophets/of-the-church/36481_300_josephsmith.pdf
神学を構築しようとする場合、ジョセフの言う“杭を立てる”ことに矛盾しなければ、OKということになるんかな・・・・神学が継続する啓示や個々人の霊感等を排除してしまうとなれば、それは、“杭を立てる”になるんでしょうね。神学には継続する啓示とは相容れないんでしょうかね??ジョセフのこういった言説からは乖離してしまう??
神学 啓示
http://search.yahoo.co.jp/search;_ylt=A2RACGzHNRVUojUAvFmJBtF7?p=%E7%A5%9E%E5%AD%A6%E3%80%80%E3%80%80%E5%95%93%E7%A4%BA&search.x=1&fr=top_ga1_sa&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=&oq=&afs=
インスティチュート・テキストに代わる、教会を代表するテキスト。おおいにけっこうでは、常に改善され進歩発展していくみたいな・・・・
教会では、総大会での説教が霊感されたもの、啓示に次ぐものみたいに捕らえられてたりして・・・・どの程度、主がよしとして、霊感・啓示を与えてるものなのかぁぁ???
想像するに、個人の受ける最大・最高の啓示とは、その人自身が永遠の生命を受けるというものなんでしょうか??
そもそも、神学のなんたるかを突き詰めて考えたことがありませんでしたので、どのように進展するのかに興味を持っています。
宗教は、その教えを実践的に捉えて、日常的に昇華しようという立場と、例えば比較なんとか学のように、アカデミックに分析しようとする立場など、人によってそれぞれのアプローチ手法があるのだろうと愚考します。
学生の頃に読んだパスカルの「パンセ」の中に「神学的発生を認めざるを得ない」という表現があったと記憶しています。
いずれにしても、宗教の根源には科学的あるいは理論的には検証不能な「神秘的成立」がある以上、理論的な分析には限界があるのではないかと感じますが、でも、学究的な姿勢での分析は、大切な要素だとも思います。
引き続きの進展を教えていただければ、嬉しく思います。
"wikipedia"で末日聖徒を検索していたら、リンクが貼ってあったのでお邪魔してみました。
とっても刺激になって楽しいです。素敵なコンテンツをありがとうございます。
最近、宣教師のレッスンにジョイントで参加する機会があります。
私は、求道者に少しでも興味を持ってもらおうと時事ネタや進化論などを交えてついつい調子に乗って自由すぎる話になってしまいます。
決まった文言しか話せない宣教師には申し訳ないのですが、求道者のいろいろな反応を感じられるのでジョイントはとっても楽しいです。
"宣教師"と"ジョイント"、両者の決定的な違いは、前者は訓練を受け真実のみを語っているのに対し、後者は100%真実を語っているとは限らない。という事ではないでしょうか。
ですから、宣教師のみのレッスンは成立しても、会員の説明のみでバプテスマを受ける事はないです。
既出意見の焼き直しではありますが、人の手が加えられた(まとめられた)ものに対し簡単に教会が受け入れないのは「すべてが真実である保障が出来ない」と、これに尽きると思います。
どんなに品質が高く皆に受け入れられる教義本があっても、最初から教会のミッションとして作成された教義本(インスティチュートのテキストなど?)とは扱いが違ってくるのでしょうね。
末日聖徒は、現在に至るまであまりに人間味あふれる決断を繰り返しているため、ついつい他の教会と同じ土俵で比べてしまいがちです。
しかしながら、神の意志を代行する神権によって導かれる唯一の教会として、神権の鍵を持つ方たちはそのベクトルを保つ重い責任を負っているのだと思います。
(あとの2つはユダヤ教とイスラム教にかんすること)
モルモン神学はシンプル・イズ・ベスト。
簡単で誰にでも理解されやすい「神学」だと感じます。
人間は聖書にあるように文字通り「神の子孫」であり、行いに応じて公平に救われる。
一般のキリスト教の神学たるや、「哲学」の部類で一般信徒が概ね理解しているとは思えない学問のように感じられます。
イエス様が提唱した教えも現在の複雑怪奇な神学とは別物だと感じます。
キリストの教えを純粋に引き継いでいるのはやはり末日の聖徒のキリスト教会なんでしょう。
との事ですが・・・
私は、存在すると考えます。それは「福音の原則」です。
この書物は、日曜学校の「福音の基礎コース」で使用されています。 数年前に少し簡略化されましたが、系統だってモルモンの教義に関して説明がなされていますし、何より、教会本部が認めている公式なテキストです。
本書は、第一章の初めに「神の存在」について書かれていて、続いて「神の属性」について書かれています。
その他の章では、キリストについて、神権について、他、神殿や、戒め、あるいは聖徒の日常生活にかかわる事までまとめられています。
さらに、この書物は、新しい会員と、教会に来られた、教会外の人がモルモン教会を理解することが出来るように書かれています。
その意味で、教会が外部に向けた書物とも言えます。
又、これ以外にも、教会総合手引きも有ります。
モルモンほど、神学(教義)を系統化して、その手引き通りに運用している宗教組織も少ないのでは?と思います。(霊感の出る幕がないほど)
NJさんも、ちゃんと日曜学校に出席すれば?(笑)
指導者の手引きは、教会組織の運用マニュアルで、大管長によって考案され、主に承認されるものの時代に合わせて変わって行くものです。
「信仰箇条の研究」や「モルモンの教義」、「インスチュートの教科書」などは霊の渇望によって必用とされていたり、対外的な説明責任の意味で存在してるようなもので、好ましいとされる範疇の学問というべきもの。学問である以上は間違ってる可能性もある。
設計図面は主から預言者を通じて直接受け取るが、内装や外観は預言者たちが考案した上で、主から承認を受け、家具の配置などは手引きの範囲内で地元の指導者に任されてるみたいなもの。
将来、更なる「聖句ガイド」以上のものが与えられれば
それは祝福だと思います。
あげく行いに応じて救われるから公平だというお方もいらっしゃるのですが、それではあなたが学ばなかったという行いに対しては如何ほどの報いを期待されていらっしゃるのかなと。他のキリスト教会の神学は複雑怪奇でイエスの教えと違うなどという断言は如何なる裏づけに基づかれるのでしょうか?
何かこう勉強嫌いな中学生が「勉強なんかしないよ、社会に出ても必要ないんだろ、だいたい受験勉強のような詰め込みは本来の学問じゃないんだよ」と屁理屈言ってるようにしか思えないですねぇ。そういうお方が内村鑑三を引用されましても・・・。
ご自分なりの信仰に自身があるのでしょうが、他の教会を蔑んでみたり、よく考えもしないで安直な結論で満足しているのが末日聖徒の信仰なのでしょうか?
結局のところ教会員のそうした態度が、永遠に末日聖徒に神学が築かれることのない本当の理由かも知れませんね。