どうやら我々の思考は、文化の上に成り立ち文化の上で様々な評価をしているようだ。教育論にしても、政治論にしてもそして、ローカルな小さな行動にしても・・・。その中の想定は文化の中での思考であり、意見による防衛反応の塊であるということだ。自己を変化の危険にさらされる事無く安定して平穏であることを願う単純でパターン化された衰弱した思考なのだ。つまり、「社会に自分が壊されるような気がする」と思うとき、または「これが現実だ」と思うとき、正しくないと思われる証明を知りながら無気力な自分への暴力で受け入れる姿勢を文化としていることである。
思いつく例としてあげると、「アベノミクス」である。経済政策3本の矢の裏側では、われわれの思考を変えるもっと大胆な政策があったように感じる。それは一度政権を変える(それまでも不安定な状態ではあったが政治の混乱にさらに拍車をかける)ことによる不安定な状態を創ったことだ。それは人の調整能力を利用したものだろう。こんな状況では無気力のままではいられない。人は安定した状態での思考を拠所にしている。が、その中での思考には、さほど重要性のあるものは見つからないものだ。ご存知の通り、何か新しいことをしようとするとき、気が滅入るほどの模索をしなくてはならない。身動きがとれない時期を切り抜け、ふとした時あるものが新しいものに見えるまで模索を続けなければいけないものなのである。
そしてこの政策を成功させるには、われわれのエネルギーが必要であった。何かに対して怒る「正義のエネルギー」と「憎悪なエネルギー」とそして「混乱状態のエネルギー」だ。しかし、これにはテロリストの誕生の手助けとなるかもしれない「賭け」のようなものだった。「正義」と「憎悪」に分かれていた自己防衛的態度と破壊的態度が調整を行い一つ(集団)になったとき、もはや怒りの要因は必要なものではなくなる。ここまでは、まだあらゆる可能性で満ち溢れている。が、しかしその可能性の中には、ただエネルギーの持続のためにわれわれを脅かす集団の誕生もありうるということだ。そのエネルギーは「正義」と「破壊」の継続的な情熱結合だ。
さらに、この大胆な政策にはもう一つの不安があった。「正義・憎悪・混乱状態」の三つエネルギーが一つ(集団)になることだ。このエネルギーの中には「自己防衛エネルギー」と「破壊エネルギー」と「直感的創造エネルギー」が含まれている。原点から考えることのできる新しいエネルギーと秩序の誕生だ。このエネルギーの前ではもはや自分たちを必要としないことを知っていた。しかし、新しいエネルギーと秩序の始まりには、模索と時間と忍耐力が必要なことも知っていた。だが、急速の広がりを見せるネットワーク環境に不安を感じていた。この新しいエネルギーが誕生する前に、ある光明をわれわれに見せなくてはいけな。気が滅入るほどの模索中であり、無気力な自分への暴力で受け入れる文化があるうちに、新しいものに見えるような感覚を与えなくてはいけなかったのである。その光明が「アベノミクス」である。光明の前ではエネルギーは低下し始め、模索に対しての意識は委託、外注という行動に陥りがちである(民主主義の弱点である)。これが無気力な自分への暴力で受け入れる姿勢であり文化になっている。この文化が続く限り、その光明も議論も結局は無意味なものになってしまうのである。今はまだわれわれは、信用している、信用していないなどと議論はしているが、無気力な自分への暴力により受け入れ始めるだろう。そして、無意味であることを痛感するだろう。
しかし、「アベノミクス」により一部では変わりつつある。が、ローカルな私たちは、いつかは立ち上がり「正義・憎悪・混乱状態」のエネルギーを結合し、新しいエネルギーと秩序を完成させるだろう。ローカルなものを侮ってはいけない。
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