《補われた知と対をなすもの-14》 「カモメのジョナサン」より
あくる日の暮れ方のことだった。夜間飛行をしないカモメたちは、砂地にかたまって思索にふけていた。ジョナサンは、ありったけの勇気をふるいおこして長老のカモメに近づいて行った。それは噂によると、もうすぐここを離れて、もうひとつ上の世界へ移ってゆくことになっているらしいチャンという名のカモメである。
「チャン・・・・・」と彼はおどおどした口調で呼びかけた。
老いたカモメは、優しく彼を眺めた。「なにかな?」
この長老は歳を重ねるにつれて老いぼれるどころか、かえって高い能力を授けられていた。彼は群れのどのカモメよりも速く飛べたし、他の連中がやっと覚え始めたばかりの技術を、すでに自分のものにしてしまっていたのだ。
「チャン、ここは天国なんかじゃありませんね。そうでしょう?」
長老は月光の中で微笑した。
「かなりわかってきたようだな、ジョナサン」
「うかがいたいんですが、今の生活のあとにはいったい何が起こるのでしょうか?そして、わたしたちはどこへ行くのでしょう?そもそも天国などというものは、本当はどこにもないんじゃありませんか?」
「その通りだ、ジョナサン、そんなところなどありはせぬ。天国とは、場所ではない。時間でもない。天国とはすなわち、完全なる境地のことなのだから」
彼は一瞬だまりこんでから、たずねた。
「お前はえらく速く飛べるらしいな、え?」
「わたしは・・・・・わたしはただスピードが好きなんです」ジョナサンは答えた。長老がそのことに気づいてくれていたことにびっくりもしたが、また誇らしい気持でもあった。
「よいか、ジョナサン、お前が真に完全なるスピードに達した時には、お前は天国にとどこうとしておるのだ。そして完全なるスピードというものは、時速数千キロで飛ぶことでも、百万キロで飛ぶことでも、また光の速さで飛ぶことでもない。なぜかといえば、どんなに数字が大きくなってもそこには限りがあるからだ。だが、完全なるものは、限界をもたぬ。完全なるスピードとは、よいか、それはすなわち、即そこに在る、ということなのだ」
不意にチャンの姿が消えたかと思うと、突然、15mほど離れた水際にあらわれた。閃光のような一瞬の出来事だった。そして再び彼の姿は消え、前と同じ千分の一秒のうちにジョナサンと肩を並べて立っていた。
「どうだ面白からろうが」と彼は言った。
ジョナサンは目まいをおぼえた。天国のことを聞くつもりが、すっかり忘れてしまっていた。
「一体どうやればあんなことができるんですか?どんな気持ちがするんでしょうか?あのやり方で、どれくらい遠くまで行けるのでしょう?」
「どこへでも、いつでも望むままにだ」長老は言った。
「わしは自分で思いつく限り、すべての場所へ、あらゆる時に行ってみたものだよ」
彼は海の向こうを眺めやった。
「妙なものだな。移動することしか念頭になく、完全なるもののことなど軽蔑しておるカモメどもは、のろまで、どこへも行けぬ。完全なるものを求めるがゆえに移動することなど気にかけぬ者たちが、あっという間にどこへでも行く。おぼえておくがよい、ジョナサン、天国とは、場所でもない、時間でもない。というのは、場所や時間自体は、そもそも何の意味ももたぬものだからだ。天国とはだ、それは・・・・・」
「さっきみたいに飛ぶやり方を教えていただけませんか?」ジョナサンは、もう一つの未知の世界を征服することを考えて身を震わせた。
「よいとも。お前が教わりたいというのなら」
「おねがいです。いつからはじめてくださいますか?」
「そちらさえその気なら、今からでも」
「あんなふうに飛べるようになりたいのです」ジョナサンは言った。異様な光が彼の目の中に燃え上がった。
「言ってください、どうすればいいのかを」
チャンはゆっくりと話、自分より若いカモメをじっと注意ぶかく見つめた。
「思った瞬間にそこへ飛んでゆくためには、ということはつまり、いかなるところへでも飛ぶということになるのだが、それには・・・・・」と彼は言った。
「まず、自分はすでにもうそこに到達しているのだ、ということを知ることから始めなくてはならぬ・・・・・」
チャンの語ることによれば、瞬間移動の秘訣は、まずジョナサン自身が自分のことを、限られた能力しかもたぬ肉体の中に閉じ込められている哀れな存在と考えるのをやめることにあった。たかが1mあまりの翼長と、せいぜい飛行地図に書き込める程度の飛翔力しかもたぬカモメの肉体に心をとらわれるな、というのである。そしてさらに本来の自己は、まだ書かれていない数字が限界をもたぬごとくに、限りなく完全なるものであり、時間と空間を越えて、いかなる場所にも直ちに到達しうるのだと知れ、とチャンは説くのだった。
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