自由、不自由、平和、争い
そしてそれに対し付属する
「愛(切望・渇望)」により
「取(執着)」は現れる。
私たちは、安定を求めるがゆえに
どんな些細なことでも
不満や争い、失望や絶望を
どんな地位や状況においても
予測や過程、結果として
避けられないものだと
強制されている。
また、安定を確認できないことから
対象への非難、意地悪、いじめ、など
身体とバラバラになった「心」で
対象と付き合うことで
環境の安定から自己を得ようとする。
「取(執着)」に囚われたものは
「取」以外の無意識の体験の時間を継続するようになり
「取(執着)」=「専門(一部分の役割)」
と言う、偏った領域の中で自己世界を確認し
無意識の体験は必要のないものとし
領域内での貢献度だけを求める。
自己を環境での最適適合であることを求め
あるいは、自己は環境が創り上げた産物とし
自ら、自己を否定していることに
気付かないまま・・・・・
本当は自由で移ろいやすい「心」は
環境との出会いのたびに変わって行くものだ。
何が良くて、何が悪いと言うものも
環境と自身との「共決定」で
「取(執着)」が導かれる。
環境が、自身が、
という、言い訳には根拠はないのである。
それは、
「愛」の処理のために起きた「心」と
その時代が落とした言語への理解という
一見、基盤に見える根拠なき
世界を創るのである。
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