結~つなぐ、ひらく、つむぐ~

身近な自然や社会との関わりを通して、マイペースで、新たな自分探しに挑戦しながら、セカンドライフ、スローライフを楽しむ。

安里会館、金満宮、坂を上る、花壇の花オランダ屋敷跡、安里二区自治会

2014-06-03 | 歴史

 那覇市安里、「安里会館」に隣接して、「金満宮」があります。安里会館には、「沖縄空手道小林流、小林館協会、安里道場」があり、駐車場の一角には、「安里二区自治会」の看板を掲げた部屋がありました。会館脇の階段を上り、「金満宮」をお参りしました。「金満宮」の由来などを記した説明板があるといいのですが……。

 この辺りは一方通行なので、車で自由に行き来することができず、歩いて、「オランダ屋敷跡」を探すことになりました。一旦、県道251線(県立博物館前から安里一丁目に接続している)に下り、目星をつけて、階段を上りました。そこは、「安里二区自治会」の男女数人が、花壇に花を植えているところでした。周辺をしばらく歩き回ったのですが、見つけることができず、休憩している男性に、「オランダ屋敷跡を探しているのですが……」と尋ねると、「すぐそこの坂を上りきった所にありますよ」と、教えてくれました。

 坂の途中の花壇や道端の花がきれいです。坂を上った所に、「オランダ屋敷跡」の説明板がありました。帰り際、先ほどの人にお礼を言うと、側にいた自治会長の玉井さんが、「かつて、この辺一帯は傾斜地で、あの場所は丘の上の高い場所でしたよ」と話してくれました。

01-0603 安里会館

02-0603 安里会館

03-0525 安里二区自治会

04-0525 金満宮

05-0525 金満宮

06-0525 金満宮

07-0525 金満宮

08-0525 金満宮

09-0525 金満宮

10-0525 奉納

11-0525 県道251線

12-0525 県道251線

13-0525 那覇公証センター

14-0525

15-0525

16-0603 段々畑

17-0603

18-0603

19-0603 安里二区自治会花壇

20-0603 坂を上る

21-0603 坂を上る

22-0603 坂を上る

23-0603 高層ビル

24-0531 オランダ屋敷跡

25-0531 オランダ屋敷跡

26-0531 オランダ屋敷跡

27-0531 オランダ屋敷跡

28-0531 オランダ屋敷跡

29-0531 オランダ屋敷跡

「オランダ屋敷跡(ウランダーヤシキアト)…日本メソジスト教会の外国人宣教師の屋敷跡。かつて沖縄では欧米人のことを「ウランダー」(オランダ人)と呼んだことから、その名が付いた。 沖縄におけるメソジスト教会の本格的な布教は、1892年(明治25)、久米(くめ)に礼拝堂が開かれたことに始まる。1906年(明治39)、アメリカ人ヘンリー・B・シュワルツ博士(1862~1945年)一家が派遣され、布教・伝道を行った。翌年シュワルツは安里(あさと)の高台に居を設け、那覇(なは)・首里(しゅり)の教会で活動するとともに、沖縄県立中学校(後の県立第一中学校、現首里高校)で英語を教えた。シュワルツの屋敷では英語聖書研究会も開かれ、師範学校や中学校の生徒が出入りしたという。 1911年(明治44)、シュワルツ一家の離沖に伴い、後任にアメリカ人アール・R・ブール宣教師(1876~1974年)夫妻が着任した。1913年(大正2)までのわずかな滞在であったが、離任後も沖縄との関係を持ち、泊外人墓地の修復や、護国寺(ごこくじ)にあるベッテルハイム記念碑建立に尽力した。また、シュワルツやブールは、伊波普猷(いはふゆう)ら沖縄の知識人とも交流があった。 オランダ屋敷は、その後メソジスト教会信者で小沢書店店主小沢朝蔵(おざわちょうぞう)、医師大久保孝三郎(おおくぼこうさぶろう)の管理に置かれたが、後に開南(かいなん)中学校の寄宿舎・農園として使用された。沖縄戦後、一帯は住宅地となった。 設置 2014年3月 那覇市歴史博物館」

30-0531 オランダ屋敷跡

31-0531 花壇の花

32-0531 花壇の花

33-0531 花壇の花

34-0531 花壇の花

35-0531 花壇の花

36-0531 路傍の花

37-0531 ホウオウボク(県道251線)

38-0531 ホウオウボク(県道251線)


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