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日々感ずることを、徒然に書いています。ご笑覧あれかし。

言葉というもの、非常に興味があります。

帝国銀行毒殺事件

2021-11-09 08:46:43 | 日記

終戦後の日本は、まさに混沌。何しろ天地がひっくり返ってしまったのだから、人は、どうしていいのかわからない。

6年間、米軍の進駐軍というのがいて、日本の「無条件降伏」をいいことに、いろんなことを押し付けてきた。その余波は、戦後75年経った今も、感じられる。

また、この混乱期には、様々な大事件が立て続きに起った。

下山事件(昭和24年)、三鷹事件(24年)、松川事件(24年)。これらはその頃の国鉄の仕打ちに対して、共産党系労組がひきおこしたものと思われる。真相は、今も尚分っていない。

三鷹、松川両事件は、人為的な脱線事故であるが、始めの下山事件は、国鉄初代総裁下山定則が、6月1日に国鉄下り常磐線の線路上で、轢死体となって発見された事件。自殺か他殺かの論争も、結論が出ないまま、迷宮入り。
国鉄は、その直前に、大量の人員整理を行なっている。

のちに下って、八海事件(26年)。これは、山口県熊毛郡八海で起った強盗殺人事件であるが、犯行が、一人の手になるものか、または共犯者がいたのかを巡って、論争が続き、事件の全容は、今もって不明である。

また、菅生事件(27年)。これは大分県菅生の交番が、何者かによって爆破されたもの。しかし、アメリカからの圧力もあり、当時は「Red Purge(赤狩り)」が盛ん。保安警察が、共産党員の仕業と見せかけ、自ら仕掛けたものというのが通説である。

このように、戦後まもなくの日本というのは混乱期。戦争に敗れたことのやるせなさ、また人間が皆貧しかったこともあり、わけのわからないことが次々に起った。

しかし、そういう戦後の事件の中で、私の興味を最も惹くのは、「帝国銀行毒殺事件」である。

昭和23年1月のある日、午後3時過ぎ、閉店直後の帝国銀行椎名町支店に東京都防疫班の白腕章を着用した中年男性が、厚生省技官の名刺を差し出して、「近くの家で集団赤痢が発生した。GHQが行内を消毒する前に予防薬を飲んでもらいたい」、「感染者の1人がこの銀行に来ている」と偽り、行員と用務員一家の合計16人(8歳から49歳)に青酸化合物を飲ませた。
その結果11人が直後に死亡、さらに搬送先の病院で1人が死亡し、計12人が殺害された。犯人は現金16万円(現行1600万円)と、安田銀行板橋支店の小切手を奪って逃走したが、現場の状況が集団中毒の様相を呈していたため混乱が生じて初動捜査が遅れた。なお小切手は事件発生の翌日に現金化されていたが、関係者がその小切手の盗難を確認したのは事件から2日経った28日の午前中であった。

犯人が犯行時に差し出した名刺を巡って、捜査が進み、結局最後に浮び上がってきたのは、平澤貞通という日本画家であった。

その後、逮捕、有罪、判決(死刑)、そして、控訴というパターンが繰り返され、それは、平澤が、獄中で亡くなる平成元年(1989年)まで続いた。平澤、95歳。

私、この事件は「冤罪」だと思う。無実の人が、罪を着せられた。

大体、平澤のような「毒物に対する知識のないもの」にできる芸当ではないし、また、この事件後、生き残った行員たちに首実検をさせた所、誰一人として、「この人に間違いありません」と言ったものはなかったという(私、人の顔はよく覚えるほうで、私なら、「ゼッタイ違う!!」というんですが)。

全てのことは、状況判断から。また拷問に近い詰問で、自白を強要され、平澤が根尽き、「やりました」と言ったのだということ。

そして、肝心な『確証」というものがない。

だから、裁判で「死刑」と言われても、司法は「極刑」を執行できなかったのだと思う。

こういう時、英国では、「証拠不十分」で無罪になる場合が多い。

しかし、そういうこと、日本ではできない。無罪放免ということになると、多額の賠償金を払わなければならない。まだ、それはいいとしても、いちばんの問題は、そんなことにでもなると、司法も検察も、「面目まるつぶれ」。この「面目」というのが、日本では、非常に大事なのである。

私、意地悪にも思う。

この事件が時効になった時点で、真犯人が名乗り出て、「私がやりました」と言うこと。ただ、時効後といえど、死刑は覚悟しておくこと。

このシナリオは実に、ゾクゾクするほど面白い。

しかし、現実はそんなに甘くない。そんなことが起こると、司法も検察も、人に会わせる顔がない。今まで、何をしていたの、あなた方??

だから、そんな人が現れたとして、それが本当だと言うことになっても、日本の警察が、揉み消してしまうと思う。

ああ、可哀想な平澤さん、そしてご家族。

ちなみに、刑事事件での検挙率は、日本が異常に高いという。99%とか。


プロ野球、ドラフト会議

2021-11-02 08:46:03 | 野球

私、この時期になりますと、心待ちにしていることがあります。大抵、プロ野球の日本シリーズ直前です。

今年は、例年より早く、数週間前でした。英国時間で、朝8時から。ちょっと早めに起きて、ソワソワ、。

プロ野球、「ドラフト会議」です。ネットで観られます。始めから最後まで、きちっとすべて観ました。

それにしましても、プロのスカウトって、よく調べておられるなあと、感心。

それに、この頃は、指名される選手の所属校の幅が実に広く、全く聞いたこともないような学校の名前が読み上げられます。ことに、大学がそうです。昔みたいに東京六大学が大きな顔をしているなどということはないんですね。

例年なら、この会議、大ホールで、参加者が一同に会して行われるのですが、今年はコロナ菌蔓延という特殊事情のため、各球団ごとに一部屋あてがわれ、ズームか何かを使ってのことでした。

各球団の首脳みたいな人が、列席されていますので、ああ、これはあの人、とすぐにわかるんです。しかし、今年は、皆さんマスクをしておられ、すぐにはわかりません。王さん、原さんはわかりましたけれど。

なぜ、こんなものに興味があるのかと言いますと、すべてのことが、礼儀に始まり、礼儀に終わるという、非常に日本的な行儀の良さが、そこにあるからです。皆さん、スーツにネクタイ姿ですしね。

一度、本場アメリカのドラフト会議を(ネットで)観てみたいものです。こんなに、礼儀正しくはないと想像しますが。

そして、私が知りたいのは、アメリカでも、高校生に、何千万という契約金を出すのかということです。

まだ、日本のプロ野球に、ドラフト制度が導入される前の話。王貞治選手がプロに入ってきた頃のことです。春のオープン戦で、「読売ジャイアンツ:近鉄パールズ」という試合がありましたので、興味深く観ましたが、10:1で、近鉄惨敗。

その頃は、日本のプロ野球でも、チームによっては、これほど、力の差があったのですよ。今は、(ドラフト制度のおかげで)各チームの実力差が、昔ほどは大きくありません。実に隔世の感がありますね。

また、これも、ドラフトのなかった頃の話(いつも古い話でごめんなさい)。

私は、根っからの、パリーグファン。それも、西鉄ライオンズの熱狂的なファンでした。これらのこと、元はと言えば、10歳年上だった姉の影響です。彼女は、男前の大下弘に入れあげていたんですね。

その頃、地味なパリーグでも、とりわけ地味だった阪急ブレーブスに、私の好きなピッチャーがいました。その頃は、私子供でしたので、今にして思えば、ということです。

梶本隆夫さん。

彼、高校時代、岐阜の多治見工業ですでに勇名を馳せていたんです。当然ですが、それが3球団の目に留まり、「うちに来てくれ」。契約金の札束を振りかざしてね、、。1954年の話。

巨人200万、阪神100万、そして、阪急50万円です。普通なら、金額の最も多いところに行くんでしょうが、苦労人のお母さんの助言で、最も額の少ない阪急に決定。「もし、お金を沢山もらって、その年活躍できなかったら、会わす顔がない」。

お父さんは早くになくなったのですが、多治見で「梶本ミシン商会」とかいう会社をやっておられたので、梶本家は、そんなに貧しくはなかったと思いますよ。隆夫さんの育ちの良さを感じます。

結局、梶本投手、初年度、20勝をあげたのですが、残念なことに、新人王は、南海ホークスの宅和本司に持って行かれました。

宅和は、翌年も大活躍、2年で50勝という成績を残しましたが、その翌年から、全く勝てなくなり、数年後引退。

一方、梶本隆夫さんは、その後20年間、ずーっと阪急にとどまり、「阪急黄金期」を築く礎になられました。通算、254勝。立派なものです。ただし、負け数が255。「引退後、スナックバーでもやろうかと思っているんやけど、店の名前は”ワンオーバー”で決まりや」とは彼の言。

彼、最後の年、総負け数が総勝ち数より一つ多いのを見て取ったその時の監督、こう言われたそうです。「前半は負けているけど、後半にひっくり返せそうなゲームに、リリーフで出したるわ。負け数の方が勝ち数より多いというのは、ちょっと格好悪いで!」

それを聞いた梶本投手、「そんなことのために、他の人の勝ち星を奪うようなことはしたくありません」と言って、きっぱり断ったとか。

非常に温厚な、人格者だったそうです。残念ながら、物故者。

私の姉は、面食いで、能天気。

彼女さえいなければ、阪急ブレーブスこそ、私が応援するに相応しい球団だったと言えるでしょうね。

 

 


日本のプロ野球、公式戦終了

2021-11-01 04:22:21 | 日記
日本では、秋たけなわの好季節。今年も早や11月に入りましたね。
 
私の好きな野球は、やっと公式戦を終えました。日本プロ野球の話ですけれど。
 
今期は、両リーグとも最後まで接戦が続き、セではヤクルトスワローズ、そしてパではオリックスバッファローズが、いずれも僅差で優勝をものにしました。
 
オリックスは、かつての近鉄バッファローズと阪急ブレーブスの流れを汲み、私の最も好きな球団です。昔、阪急のファンでしたのでね。投打のバランスが取れたいいチームです。
 
そして、このまま、この両チームが日本シリーズに突入すると思いきや、その前に、両リーグとも、上位3チームによる「クライマックスシリーズ」ですって。
 
私、このわけの分からない「シリーズ」に反対。だって、そこに何ら「必然性」がないんですもの。
 
米大リーグでは、「プレイオフ」というものがあって、公式戦終了後、アメリカン、ナショナルリーグとも、上位5球団による、3段階の勝ち抜き戦を行います。
 
その様にして勝ち残ったリーグ優勝チームが、ワールドシリーズで、一騎打ちというわけです。
 
まあ、日本のプロ野球は、そういうのを真似たのでしょうが、そんなの全く意味がありません。
 
アメリカでは、国土が余りにも大きいですから、1リーグ15チームを、3ゾーンに分ける必要がありました。東部、中部、そして西部。
 
また、公式戦終了時、リーグ1位を決めるのはこんな具合です。
 
各ゾーン1位の3チーム、その他の12チームのうち最高勝率の1位と2位(ワイルドカード)、合計5チームで、3段階に亘る勝ち抜き戦を行います(ワイルドカード同士の対決は1試合。その勝者と他の3チームを合わせた4チームで第2段階が最高5試合。それで2チームが残りますが、その2チームが戦う第3段階は、最高7試合です)。
 
こんな風にして、リーグの優勝チームが決るわけです。そして、その後にワールドシリーズの7回戦が待っているのですから、米大リーグで優勝するって、大変なことだということがわかりります。それにしても、アメリカのプロスポーツ選手、本当にタフですね。びっくりします。
 
大リーグでは、年間の試合数が162。そこには「引き分け」はありません。白黒はっきりするまでとことんやる。そして、プレイオフに残ったチームがリーグ優勝するためには、最低7試合、最高13試合戦わなくてはなりません。そこへ行くと、日本のプロ野球では、年間の試合数143。それには、引き分けも含まれます。また、クライマックスで勝ち抜くためには、最低3試合、最高11試合。
 
まあ、こんな数字ばかり並べても、皆様にはご興味がおありではないと思いますが、要するに、アメリカ大リーグの選手は、非常に非常にタフだということです。あの大きな国土でね。
 
私が、「”クライマックスシリーズ”なんていうのがあるのはおかしい」と、ある人に言いましたところ、こんな答えが返ってきました。巨人とNYヤンキースのファンで、野球通。
 
「シーズン後半になって、だいたいリーグ順位の趨勢が決まってきたとしようか。そんな時、リーグ下位のチームでも、頑張って、なんとか3位になることができれば、日本シリーズに出られるかもしれないんだよ。そういう’活性化’といういいところがある」。
 
実際2010年に、パリーグのロッテが、リーグ3位というハンディキャップを背負いながら、中日ドラゴンズ相手に日本シリーズ優勝という快挙を遂げたことがありましたね。西村監督の時です。こういうのでも、日本一っていうんですか。
 
私は、ちょっと意地悪。そこで、こんなシナリオを考えてみました。
 
日本シリーズが、セパ両リーグとも3位同士の対戦。
 
これでは、ちょっと白けてしまうのではないでしょうか。アホらしい。
 
私の住む英国では野球というものがありません。しかし、フットボールならあります。それも、熱狂的な。
 
そして、そこでは、シーズンを通して、「ダレた試合」というもの無し。最後の最後まで、どのチームもまさに必死。
 
プロのチームだけで92チーム。それが4リーグに分れて、試合をするんですが、シーズン後には、隣接する2リーグ間で、3チームずつの入れ替えがあるからです、選手たちは、下へ落ちないように、もう死に者狂い。それとリーグ内の順位も大切です。大きなお金が絡んでいますのでね。
 
日本のプロ野球に、入れ替え制を導入するのは、ちょっと無理でしょうね。アメリカでも、難しいと思います。
 
私は、やはり、野球ですね、フットボールより。