他人は救えない。
その人の心を救えるのはその人だけ。
言葉のあやですが
人は自分しか救えない。
と思って生きた方がいい人もいると思う。
言葉のあやというのは、心の苦しみを救うには、本人がそれに向き合って理解しようと勤める、という必要が絶対だからです。
物理的に救うことは、他人にもできます。
心の苦しみを救う方法を教えることも、導くことも、サポートすることもできます。
でも他人にできるのは、その人の手をとって導くこと、支えることまでで
歩くこと、進むこと、立つことは本人の意思にかかっているのです。
私は他人を救おうと思って生きてきました。
それがどんなに無謀なことだったか思い知りました。
無謀というのは語弊がありますね。
無謀というか、越権行為と言いましょうか。
すべてを救おうというのは、政治でいう内部干渉なのですよね。
今は韓国と中国と、台湾やパラオなどの他のアジアの国々の違いが明確になりました。
越権行為をしてでも助けようとした結果どうなるかが象徴的で分かりやすくなりましたね。
本人が救われようとしていないのにもかかわらず、無理に助けると韓国や中国のようになります。
本人が救われようと思っている、立ち上がろうとしている、そういう人はサポートの手をしっかりとって
ありがとう
と言ってくれますが、立ち上がったのはその人の頑張りであり、救われたのはその人が救われようとしたから。
サポートが下手だったことを怒らないでくれるのは、下手なことよりも助けてくれたことをありがたく思っているから。そう思うためには、助かりたい、という気持ちが必要。
韓国や中国は、心底からは助けられたいとは思っていなかったのでしょう。
大変だし苦しいしこのままでは死にそうでも、お金儲けなど他のことの方が大事だったのです。
大事だったと言っては語弊がありますね。過去の中国人は感謝していますから。
助けられる必要などなかった、と思いたい気持ちが今の中国という国にはあるのです。
助かる必要などない、なぜならそもそも問題などないのだから。という、助かることからの逃避の心が今はある。
そのため、助けの手があったことは認められないのでしょう。
日本を仮想敵国にするのはいろんな理由がありましょうが、そのすべての理由の原因は、本当の問題を解決しようとしていないこと。
痛みがあろうとも助かろう解決しよう、という気持ちを持たない限り、かの国々の問題は本当には解決しないし、日本への認識が好転することもないでしょう。
他人は救えません。
救えるのは自分だけ。
それは自分自身にも、他者にも言えること。
助けようとしないほうがいい場合は、よくある。
かの国の人たちだけが恩知らずではありません。
日本人だって、いつもは優しい人だって、愛し合っている人だって、
痛みがあろうとも助かろう
という気持ちがない時は、いつまでも救えません。助けられません。むしろキレられます。
さながら、リハビリをがんばる決意と同じように、ですな。
本人がくさくさしていれば、どんなリハビリ機関も最新の医療も意味をなしません。
そういうときは、本人が救われようとするまで見守るしかないのですよね。
見ててつらかったり、いつまでも甘えて決意する気配を見せなくて嫌になったときだとか、そもそも関係の薄い人のとき
そしてなにより、八つ当たりされてこっちがボロボロになってしまうような時は特に
見守るのもやめて、とっとと去ることも大事です。
救えるのは自分だけです。
できもしないのに助けようとして苦しまなくていい。
日本人は、というか私もなんだけど
犠牲になってでも助けてあげたいと思うバカが多すぎる。
助かろうとしていない人は、犠牲になっても助けられない。ムダ死にだ。
それを私は肝に命じたいし、同じような人に言いたい。
助けようとするな。
助かろうとしている人を見極められるようになるまで、よく観察するんだ。
救われようとしていない人には、見捨てたくらいの距離感がとても喜ばれる。不思議なことに。
見捨てたくらいの距離感というのも言葉のあやで、
助けてあげたい気持ちが強すぎる人にはそのくらいの思いきりが必要ということ。私がそうだから、自戒を込めてあえて強い言葉で表現している。
実際のそれは、見守る距離。
他人は救えない。
救えるのは自分だけ。
他人の話として書いてきたけれど、それは自分自身にも言えること。
サポートしてもらうことはできる。
助けてもらうことはできる。
でもサポートしてもらおうとしないと、サポートはしてもらえない。
現実的にいうなら、リハビリにお金をかけないと救われない。
自分を救うというお金すらけちる人は、自分よりもお金が大事ということ。
それもまた、救われたいとは思っていないということ。お金がある方が幸せだと、錯覚だとしても思っているから、文句言いつつもお金だけ守っているのです。
自分を救いましょう。
しかし救いには痛みが伴うことが多いです。
自分に厳しくなりましょう。けれど、やさしく甘くなりましょう。
中庸ってそういうことじゃないかな。
ていうか話変わるが、最後まで書いてみたけどスピリチュアル出てこなかったな(笑)
スピリチュアルがきっかけになることが多いと思いますが
そうでなくても自分が新しい考えを思い付いたとき、このブログにかいていこうと思っています。
スピリチュアルと現実を生きる、そんな人の脳内にでてきた発想のブログと思っていただければ。
しからば御免。
その人の心を救えるのはその人だけ。
言葉のあやですが
人は自分しか救えない。
と思って生きた方がいい人もいると思う。
言葉のあやというのは、心の苦しみを救うには、本人がそれに向き合って理解しようと勤める、という必要が絶対だからです。
物理的に救うことは、他人にもできます。
心の苦しみを救う方法を教えることも、導くことも、サポートすることもできます。
でも他人にできるのは、その人の手をとって導くこと、支えることまでで
歩くこと、進むこと、立つことは本人の意思にかかっているのです。
私は他人を救おうと思って生きてきました。
それがどんなに無謀なことだったか思い知りました。
無謀というのは語弊がありますね。
無謀というか、越権行為と言いましょうか。
すべてを救おうというのは、政治でいう内部干渉なのですよね。
今は韓国と中国と、台湾やパラオなどの他のアジアの国々の違いが明確になりました。
越権行為をしてでも助けようとした結果どうなるかが象徴的で分かりやすくなりましたね。
本人が救われようとしていないのにもかかわらず、無理に助けると韓国や中国のようになります。
本人が救われようと思っている、立ち上がろうとしている、そういう人はサポートの手をしっかりとって
ありがとう
と言ってくれますが、立ち上がったのはその人の頑張りであり、救われたのはその人が救われようとしたから。
サポートが下手だったことを怒らないでくれるのは、下手なことよりも助けてくれたことをありがたく思っているから。そう思うためには、助かりたい、という気持ちが必要。
韓国や中国は、心底からは助けられたいとは思っていなかったのでしょう。
大変だし苦しいしこのままでは死にそうでも、お金儲けなど他のことの方が大事だったのです。
大事だったと言っては語弊がありますね。過去の中国人は感謝していますから。
助けられる必要などなかった、と思いたい気持ちが今の中国という国にはあるのです。
助かる必要などない、なぜならそもそも問題などないのだから。という、助かることからの逃避の心が今はある。
そのため、助けの手があったことは認められないのでしょう。
日本を仮想敵国にするのはいろんな理由がありましょうが、そのすべての理由の原因は、本当の問題を解決しようとしていないこと。
痛みがあろうとも助かろう解決しよう、という気持ちを持たない限り、かの国々の問題は本当には解決しないし、日本への認識が好転することもないでしょう。
他人は救えません。
救えるのは自分だけ。
それは自分自身にも、他者にも言えること。
助けようとしないほうがいい場合は、よくある。
かの国の人たちだけが恩知らずではありません。
日本人だって、いつもは優しい人だって、愛し合っている人だって、
痛みがあろうとも助かろう
という気持ちがない時は、いつまでも救えません。助けられません。むしろキレられます。
さながら、リハビリをがんばる決意と同じように、ですな。
本人がくさくさしていれば、どんなリハビリ機関も最新の医療も意味をなしません。
そういうときは、本人が救われようとするまで見守るしかないのですよね。
見ててつらかったり、いつまでも甘えて決意する気配を見せなくて嫌になったときだとか、そもそも関係の薄い人のとき
そしてなにより、八つ当たりされてこっちがボロボロになってしまうような時は特に
見守るのもやめて、とっとと去ることも大事です。
救えるのは自分だけです。
できもしないのに助けようとして苦しまなくていい。
日本人は、というか私もなんだけど
犠牲になってでも助けてあげたいと思うバカが多すぎる。
助かろうとしていない人は、犠牲になっても助けられない。ムダ死にだ。
それを私は肝に命じたいし、同じような人に言いたい。
助けようとするな。
助かろうとしている人を見極められるようになるまで、よく観察するんだ。
救われようとしていない人には、見捨てたくらいの距離感がとても喜ばれる。不思議なことに。
見捨てたくらいの距離感というのも言葉のあやで、
助けてあげたい気持ちが強すぎる人にはそのくらいの思いきりが必要ということ。私がそうだから、自戒を込めてあえて強い言葉で表現している。
実際のそれは、見守る距離。
他人は救えない。
救えるのは自分だけ。
他人の話として書いてきたけれど、それは自分自身にも言えること。
サポートしてもらうことはできる。
助けてもらうことはできる。
でもサポートしてもらおうとしないと、サポートはしてもらえない。
現実的にいうなら、リハビリにお金をかけないと救われない。
自分を救うというお金すらけちる人は、自分よりもお金が大事ということ。
それもまた、救われたいとは思っていないということ。お金がある方が幸せだと、錯覚だとしても思っているから、文句言いつつもお金だけ守っているのです。
自分を救いましょう。
しかし救いには痛みが伴うことが多いです。
自分に厳しくなりましょう。けれど、やさしく甘くなりましょう。
中庸ってそういうことじゃないかな。
ていうか話変わるが、最後まで書いてみたけどスピリチュアル出てこなかったな(笑)
スピリチュアルがきっかけになることが多いと思いますが
そうでなくても自分が新しい考えを思い付いたとき、このブログにかいていこうと思っています。
スピリチュアルと現実を生きる、そんな人の脳内にでてきた発想のブログと思っていただければ。
しからば御免。
私。。。感動しすぎてます。
諸外国の例えから。。。
人の話に至るまで。。。
展開がその通りで。。。
私は「圧巻」の文章だと思いました。
素晴らしく脳と心の優れた方ですね。
私にはこんな文章は書けません。
そしてまたも救って頂きました。
私の愛した人は困ってるくせに救われたくない人で、
救いの手を振り払いキレるような人でした。
そのくせいつも困った困ったと私に愚痴やら八つ当たりをし、
いざ助けようとするとありがた迷惑よけいなお節介とばかりに、
私を冒涜し、罵倒し、蔑んできました。
そして私の心を殺し、体を蝕みました。
こちらのブログに来れて、本当に良かったです。
頭いいと言われるのが一番嬉しいです!
こういう思考は得意ですがのんびりしているのでバカ扱いされがちで不本意な扱いを受けることが多いのであります!まったく見る目ない奴らですこと(`Δ´)=3
スピリチュアルや科学主義に足をとられて自分では考えることもしない人の多さを知るにつけ、ルンルンさんのおっしゃるように私のような理解しつつ疑う人間は少ないのかもなぁと思う昨今でございます。
理解者も少ないのでルンルンさんもまた貴重な存在でございますm(_ _)m
ありがとうございます。
この記事は、他人には予想以上にひどい人がいるんだということを理解したことで生まれました。
ルンルンさんがこの記事に感銘を受けたということは、それだけ善人であるということでもあり振り回されてきたということでもあるのでしょう。
救いになったとのこと、ようございました。
どうか今後はだめなやつに振り回されず、幸せな道をお歩みくださいませ!
あまりにも記事の共感がすごすぎるものですから。
ちなみにお名前は何とお呼びすればよろしいのでしょうか?
norisiotokonsomeさんでしょうか?(ポテチみたいですね♫)
私もです、思考は得意で文に表すと結構切れ者的に思われることもあるのですが、普段はおっとり派とよく言われまして、実際敏速ではないですが普通レベルにあると思っているのですが、雰囲気で判断され不遇な経験も数多くあります。
スピリチュアルと科学って似てないけど、それを信ずる人達の思考は似ているかもしれませんね。
何ていうか、疑わずそれ一辺倒・・・みたいな?
私は何でも疑うタチでして、要は全てを肯定はしない、もちろん全てを否定もしない、そういう考えなんです。
だから親であれ親友であれ恋人であれお気に入りのタレントであれ、かなり冷静に判断します。
一般的には身内びいきであまり深く考えない人が多い印象があります。
ああでもないこうでもないという私は屁理屈野郎か変わり者のように思われていたような所があります。
なのでこちらのブログに来て、スッキリしました\(^o^)/
善人と言って頂いてありがとうございます。
私は普通ならとっくに見切る、見捨てるような人間をの可能性を信じてあげたかったんです。
しかし、想像以上に悪魔で、悪魔というか人間レベルに至ってない人相手に自分がやれることはもうほぼやり尽くした感が出てきたので、そろそろ自分の人生を生きる生活に戻らなければと思っていた矢先にこちらのブログに辿り着いた次第です。