タイ語板 肆の型ぁ~  4

あれってそれって何時だったっけ ~ 香港、マカオ、台湾の返還日

あれってそれって何時だったっけ ~ 香港、マカオ、台湾の返還日

 『香港 👉1997年  7月   1日 イギリスから                            マカオ  👉1999年12月20日 ポルトガルから                    台湾   👉1945年  8月15日  日本から 』

  因みに、香港は1841年1月26日「アヘン戦争中」チャールズエリオット大佐による香港島占領で翌年の「南京条約」から。 マカオは1887年にポルトガルに割譲、、台湾は日清戦争の下関条約で1985年11月8日から統治。

--                                             อาณานิคม /aanaaníkhomアーナーニコム 植民地
เมืองขึ้น /mʉ̂aŋ khʉ̂nムアン クン    植民地  ※ごったい先生作       返還する <クーン・パイ>                       คืน /จ่ายคืน /ให้คืน 返還する  ※Glosbe先生作              金を返す <クーン・ングン>

  

ーーーーーー                                         M:【植民地(殖民地;colony) とは  】

 本国からの移住者によって経済的に開発され(植民・移民)、本国に従属する地域。統治領(とうちりょう)とも呼ばれる。                  古代ギリシアやローマ時代には、新しい地域に移住して形成する社会を意味した。

 半植民地(はんしょくみんち)とは                        名目上は独立国ではあるが、実質的に植民地と同様の状態にある地域を指す。衛星国とも言われる。宗主国とは、植民地を従属させ所有している本国を指す。本項では16世紀に始まるいわゆる「大航海時代」以降ヨーロッパ各国が侵略によって獲得した国外領土、戦後に本土と同等となった「海外領土(Overseas Territories、海外県)」、戦後も本土と差のある「自治領(dominion)」も扱う。

  ※1800年の世界の植民地の地図(各本国を含む)
  ※日清戦争が始まる以前、1885年時点の植民地
  ※第一次世界大戦勃発時の世界の植民地の地図(各本国を含む)
  ※1945年第二次世界大戦終結後の世界の植民地の地図(各本国を含む)
 大航海時代の後、西ヨーロッパによる地球の他地域の植民地化が進展した(植民地主義も参照)。

 語源
英語の「colony」の語幹「col-」はラテン語「colere」に由来し「耕す」意。cult-も同意でculturで「耕作」「教養」。

 古代にも植民地はあるが、一般に帝国主義的先進国が植民地を原料工場・市場として経営するとともに、住民を政治・文化・言語的に抑圧支配する。  植民地を獲得する過程では、ほとんどのケースで在来住民との軍事的な衝突が起こり、その全殺戮にいたることもある。スペインによるアメリカ大陸の植民地化やイギリスによるアメリカ大陸の植民地化の過程ではしばしば現地住民が激減し、フランスもカリブ海西インド諸島のマルティニーク島の原住民を1658年に殲滅し、純粋な島民は絶滅した。

南太平洋の島嶼部(トウショブ)では労働者として現地住民を雇用しても失敗するのが定説であった。白人と接触以降に現地人人口が激減することも多く(ハワイやフィジー、サモアなど)、他の領土から労働者を移住させざるをえない状況が頻発した。

植民地を獲得したあとは、その植民地を統治・経営(植民地経営)することになる。その過程を植民地化という。1804年、フランス革命に触発されたハイチが非白人国家としては近代史上はじめて独立して以来、旧植民地諸国は現在にいたるまで数多く独立していった。ただし先進国が独立を認めた背景には、世界経済システムの変容があるといわれる[注 3]。こうした一連の過程を脱植民地化という。

日本での植民・移民の研究は明治中後期の頃であり1898年(明治31年)には木村亮吉により『於東洋英国植民政策』(ヂヨゼフ・ジヱレイベール Joseph Chailley-Bert著)が翻訳出版されている。 但し「西欧列強による有色人種の奴隷化」については近代以前から認知されており、豊臣秀吉の時代にすでにポルトガル人による奴隷売買が知られており、バテレン追放令の原因のひとつに挙げられることがある。幕末においてもアヘン戦争敗北による中国人の奴隷化が知られていた。明治政府は開国以来、外国人の関係する「人権問題」に否応なく巻き込まれるようになった。

 統治形態
植民地の統治形態には、以下のものがある。
➊ 領事裁判権や租借地・租界設定条約による治外法権の確立。
➋ 外交権や駐軍権のみを獲得し内政は先住民による統治に任せて原則として干渉しない保護領。
➌ 現地の王侯や部族長を通じて支配する間接統治。
➍ 本国から総督や民政長官、軍政長官などを派遣して支配する直接統治。
➎ 本国が外交と防衛のみを担当し内政は現地住民によって民選された政府・議会に委ねる自治植民地。ただし「自治」とはいっても、参政権は本国出身者に限定されたり、先住民の参加を認めても公用語(本国の言語)習得や一定額以上の納税などの条件を付けて、事実上の参政権が著しく制限されることが多い。
➏自国領への併合(この場合も従来の現地住民について、市民権や国籍上の地位に区別が設定されたり、併合領土での立法・行政権など統治形態が異なることがある)

一般的に植民地統治が継続する中で➊あるいは➋から➍までの変遷をたどるケースが多いが、植民地が本国に隣接している場合、最終的に本国領土の一部として編入され、その過程で先住民も同化が進み、固有の言語や文化、民族意識を喪失していく傾向にある。

植民地における主権は領有国が有するが、領有国の主権がより限定された租借地や租界のまま統治が継続されるケースもある。また、特殊な形態として保護国、複数国による共同統治領、国連の委任統治領や信託統治領などがある。


 土地政策
主権のある未文明国に関しては共有、行政占領、租借、割譲という概念で領土獲得を行い、そうでない場合はもっとも露骨な領土獲得の根拠として「無主物先占」の法理が利用された。

 法的地位
帝国主義の時代、植民地では本国とは異なった法律が施行、あるいは便宜の規定のみが施行され、住民には国籍や市民権が与えられなかったり、国籍を与えても「属領籍」「外地籍」「海外籍」のように本国人とは異なる法的身分に編入され、権利義務について不平等な取扱がなされた(イギリス国民や本項の日本の植民地を参照)。

 非本国出身者の処遇
ただし、植民地人が本国人と同様の公職に就くことが必ずしも不可能であったわけではなく、官公庁や軍隊において高官に登用され、あるいは本国議会に選出される例もあった。このような傾向は、同化主義を建前とする日本やフランスの植民地に特に強かった。 イギリスの海外領土とアメリカ合衆国の海外領土の住民には現在も本国の公職(大統領、国会議員)選挙への投票が認められていない。海外領土出身であっても本国に移住すれば可能である。これに対しフランスの海外県の住民はフランス内地の県の住民と同様に公職選挙への参加が可能である。これは、自治主義、分離主義と同化主義、内地延長主義という植民地統治思想の違いのなごりと見ることができる。

フランスでは1789年に、サント・ドミンゴ(現ハイチ)の代表が初めて国民議会に参加し、1791年の法律ですべての植民地に本国府県と同等の権利を認め、国民議会に代表を送り、最高法院の法官を選任する権利を与えた[11]。
フェリックス・エブエはフランス領ギアナで黒人奴隷の子として生まれたが、いくつかの植民地の長官を経て1941年にフランス領赤道アフリカの総督に任命された。
後にコートジボワールの初代大統領となるフェリックス・ウフェ=ボワニは、シャルル・ド・ゴール政権下でフランス公共保健・人口相(厚生大臣に相当)に任命された。

ダーダーバーイー・ナオロージーを始めとする数名の英領インド出身者がイギリス下院議員に選出されている。
後に第二次世界大戦期の日本軍占領下で建国されたビルマ国の国家元首となるバー・モウは、1937年にイギリス領ビルマ植民地政府の初代首相に選出された。
イギリス帝国領インド植民地政府の高級幹部職員であるインド高等文官(ICS)の採用試験は、19世紀後半にインド人にも開放された。結果、インド独立時にはインド人ICSが全体の31%を占めるにいたった。
ムハンマド・アクバル・ハーンはイギリス領南アジア出身のムスリム(イスラム教徒)として、はじめてイギリス領インド軍の将官に進級した。
アブドゥル・ラヒームは1908年にマドラス高等裁判所の裁判官に任命され後に同裁判所長官となった。

フィリピンは1937年にアメリカ合衆国に直接統治される植民地から、独立を視野に入れた自治植民地(コモンウェルス)に移行し、独立準備政府の初代大統領としてマニュエル・ケソンが国民投票によって選出された。
日本統治下の朝鮮における道知事の概ね半数程度は朝鮮人であった。
衆議院議員として朝鮮人の朴春琴が選出されたほか13名の植民地出身者が貴族院議員に任命された。
洪思翊をはじめとする朝鮮人の陸軍士官らが将官に進級した。

 立法
立法権は本国政府が任命した総督等の行政長官が掌握することが多かった。多くの場合、植民地の議会は設置されても諮問機関にとどまり、立法権が与えられたとしても、総督等の拒否権が伴うのが通例であった。また、本国の法令の効果は原則的には植民地には及ばないこととされていることが多く、植民地に本国法を適用するためには、植民地政府が別途その旨の法令を制定する必要があった。

 行政
行政職員にどの程度現地人を採用するかは植民地によって異なるが、官庁窓口の係員、下級警察官、教員など現地人と直に接する業務従事者には現地人が配置されることが多かった。これは現地語の理解や人員の確保などさまざまな要因があったと考えられるが、結果として現地人の敵意が直接宗主国に向かれるのを回避する効果が期待された。また、植民地人同士の対立を煽ることによって統治を円滑にすすめるため、宗主国に融和的な民族や部族の出身者を優先的に公務員に採用することも行われた。

 植民地主義
「植民地主義」および「脱植民地化」を参照

 現存する植民地
現代においても事実上の植民地を保有する国は多いが、第二次世界大戦以降は各地の植民地で独立運動が盛んになったり、1960年の国際連合総会における植民地独立付与宣言の決議で、植民地という存在そのものが国際的に否定されたことから、客観的に見て植民地と言いうる実態を有している地域であっても、先住民に本国民と対等の権利を与えて★海外領土や自治領などという言い換えをすることが多い。

逆に、客観的に見て植民地と言い難い地域であっても、住民が領有国の統治に不満を持っている場合、領有国を攻撃するための政治的スローガンとして使われることもある。例えばコルシカ民族解放戦線などに代表されるフランス領コルシカ島の分離主義者は同島がフランスの植民地であると主張している。旧東ドイツ住民の中には、「西ドイツの植民地支配を受けている」と主張する人もいる。

 類推
少数民族の居住地域で、独立運動や市民的自由の抑圧、資源の収奪等の過酷な統治が行われているが、従来の植民地の定義は満たさない地域を、過去の歴史上の植民地との類推から「植民地」と呼ぶこともある。

旧ソ連・ロシアのアジア地域や衛星国、中華人民共和国のチベット自治区・新疆ウイグル自治区などはこのような文脈で植民地と言われることがある。このような地域を講学上内国植民地と呼ぶことがある。
「従属国」、「同君連合」、および「衛星国」も参照

形式的には独立国として取り扱われていても、内政・軍事両面で外国の圧倒的な影響下に置かれている国家は植民地あるいは植民地同然と形容されることが多い。日本にとっての旧満洲国(現在の中国東北部)や旧ソ連の衛星国(現在のモンゴル国、東欧諸国)などがこの典型である。

 植民地支配に対する評価
かつては法的にも道義的にも問題ないとするのが常識であった。1960年に国際連合総会で決議された植民地独立付与宣言以降は、宣言などに見られるように、植民地支配は被害、搾取の時代として否定されるのが世界的傾向である。

旧宗主国側では、近代化という恩恵を後進地域にもたらした善行であるという評価がなされる場合もある。一方で、「部外者による発展」より「民族の独立」そのものに重きを置く価値観から、こうした「恩恵説」に対する反発も存在する。また、植民地支配の便宜を図るための共同体の解体や文化の破壊、言語の空白化を重視する思潮もある(ポストコロニアリズム参照)。

 各論
1 ヨーロッパ諸国
 マルコ・ポーロの『東方見聞録』、羅針盤の伝播、香辛料への渇望によりヨーロッパ諸国の東洋に対する関心が高まった。1477年には、クリストファー・コロンブスが大西洋の先の知識を求め、アイスランドへ赴いた。

1-1 ポルトガルとスペイン
  ※ポルトガルが領有したことのある地域 - 1410-1999
  ※スペインが領有したことのある地域
「ポルトガル海上帝国」、「ポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化」、「スペイン帝国」、および「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」も参照
 ポルトガルとスペインはイベリア半島におけるイスラーム勢力に対する国土回復運動であるレコンキスタを達成した後、大航海時代の先頭を切って海外に進出した。スペインはコロンブスの新大陸発見後、中米のメキシコ、南米のペルーを中心とする大領土を獲得し、さらに太平洋を横断してフィリピン諸島の領有にも成功した。

ポルトガル海上帝国とスペイン帝国の領域を分別したのは、1494年にローマ教皇アレクサンドル6世が定めたトルデシリャス条約である。大西洋上に西経46度の子午線を引き、東をポルトガル、西をスペインの領土とした。このため南米大陸では、ブラジルのみがポルトガル領となった。1529年のサラゴサ条約では現在のインドネシアにあたるモルッカ諸島の東297.5リーグ(ニューギニア島中央部に相当する東経144度30分)を境に、東がスペイン、西がポルトガルの領土とされた。この2つの条約の結果、世界はポルトガルとスペインによって分割された。

ポルトガルは1418年からエンリケ航海王子の下でアフリカ西海岸の探検を続けていたが、1488年に喜望峰を発見すると、東洋における香料貿易の独占をめざしてインド洋に進出した。1500年にはカブラルがブラジルを発見。1511年のマラッカの領有後はマカオ、長崎にまで貿易圏を広げ、一時は日本のキリスト教布教にも成功した。しかしながら、1580年にアヴィス家が断絶するとスペイン王フェリペ2世がポルトガル王となり、事実上スペインの支配下に置かれた。17世紀に入り、1640年には独立を回復するも(ポルトガル王政復古戦争)、アジアで新しく参入したオランダやイギリスとの競合に破れると、南米ブラジルの植民に注力する。その後、ナポレオン戦争に際してブラジル植民地(英語版)はブラジル帝国として植民地から離脱、さらに、第二次世界大戦後、ポルトガルはインドのゴアにあった植民地からインドの独立後に撤退し、アフリカのアンゴラやモザンビークなどの植民地も1970年代に独立した。1999年にはマカオを中華人民共和国に返還している。

スペインは1521年のコルテスによるアステカ帝国征服、1533年のピサロによるインカ帝国征服により、16世紀から19世紀初頭に至るまで北米南西部からブラジルを除く南米全体に及ぶ大植民地を維持したが(上記のとおり、1580年から1640年にかけては、ポルトガル及びその植民地すらスペイン王の支配下にあった)、イギリス帝国の勃興や王朝交代によりその支配力は弱体化した。1810年に至り現地生まれのクリオーリョは、ナポレオンのスペイン侵攻に乗じて、植民地当局に対して独立を試み、その後15年にわたる攻防により独立を勝ち取る。この結果、スペインが南北アメリカ大陸に維持できた植民地はカリブ海のキューバとプエルトリコだけとなった。さらに、スペインは1898年の米西戦争でキューバとフィリピンを失う。1975年にはアフリカに残っていた西サハラからも撤退した。現在、アフリカ大陸にセウタ及びメリリャを有しているが、自治権や国政参加権は本土と対等であり、スペイン政府は、植民地ではなく飛地領と位置づけている。

2 イギリス
「イギリス帝国」および「イギリスの海外領土」も参照
  ※1921年時点のイギリスの植民地
 イギリスの最初の植民地は、イングランドが中世以来入植を繰り返してきたアイルランドといえるだろう。その後は大航海時代の波に乗って北アメリカ大陸へ進出し、17世紀から18世紀にかけてニューイングランド植民地(13植民地)を形成、さらに当初は交易を目的として東洋に渡った東インド会社がインドの諸勢力を巧みに操ってインドを征服。七年戦争ではフランスと争い、その結果イギリスはカナダを獲得、インドからはフランス勢力をほとんど駆逐した。

やがて19世紀始めのナポレオン戦争に勝利したイギリスは、世界の海の覇権を握り大英帝国を建設することとなり、東南アジアのビルマと海峡植民地(後のマレーシア)、香港、流刑植民地として出発したオーストラリアとニュージーランド、アフリカではナイジェリア、南アフリカ(現在の南アフリカ共和国)、南アメリカ大陸のフォークランド諸島などを植民地とした。イギリスはまたスペイン・ポルトガルから独立後の南米諸国やオスマン帝国から独立した中近東諸国にも大きな影響力を持っていたが、これらの植民地は第二次世界大戦後、民族自決の波に乗って次々に独立していった。また、1997年には香港島と九龍半島を中華人民共和国に返還した(一国二制度参照)。

1949年にロンドン宣言(英語版)に調印したインド共和国をはじめとして、大英帝国の旧自治領・植民地・地域のうちいくつかはコモンウェルス(旧・イギリス連邦)としての緩やかな関係を維持または再定義した。

現在でもケイマン諸島、ヴァージン諸島、バミューダ諸島などのカリブ海や大西洋の島々、フォークランド諸島、ジブラルタルなどを海外領土として保有している。
フランス
フランスの植民地帝国。第1次(緑)と第2次(紺)
「フランス植民地帝国」および「フランスの地方行政区画」も参照

フランスは当初、カナダのケベックとカリブ海のマルティニーク島、グアドループ島に入植したが、七年戦争でイギリスに敗れ、カナダを放棄した。西アフリカのセネガルも古くからのフランス植民地であった。19世紀になってイスラム圏であるアルジェリアと東洋の仏領インドシナ、南太平洋の仏領ポリネシアのタヒチやニューカレドニアなどの植民地化に成功した。

これらの植民地も第二次世界大戦後民族独立の波に乗って次々に独立していった。なおタヒチでは、1990年代フランス政府の核実験に反発した地元住民を中心とした解放機構が、植民地支配からの独立を訴えたが、大統領のジャック・シラクは「タヒチはフランスの一部である」と言明し核実験を実行、現在も独立闘争が続いている。
オランダ
「オランダ海上帝国」も参照
オランダの植民地(17世紀から20世紀までを重ね合わせたもの)

オランダも17世紀から18世紀にかけて帝国主義的な植民地大国としてオランダ海上帝国と呼ばれる。特に17世紀前半はオランダの黄金時代であった。20世紀に入っても東インド植民地(蘭印、インドネシア)や南アメリカの植民地(スリナム)を支配していた。しかし度重なる英蘭戦争で北米の植民地を奪われ、更に南アフリカの植民地も超大国に成長したイギリス帝国に敗れ失うなど、列強としてのオランダの国際的地位は凋落して行った。

20世紀にはインドネシア、スリナムが独立し、ほとんどの領土が失われたが、カリブ海にキュラソー、アルバの二つの海外領土を持っている。
ロシア
ロシアの植民地及び影響下にあった地域

ロシア帝国は16世紀、モスクワ大公国がキプチャク汗国から自立し、周囲のスラヴ人の国々を飲み込んでその領土を広げた。16世紀にロシア平原を統一してロシア帝国を成立させると、東へと征服をすすめ、18世紀頃までにはシベリアをほぼ征服した。シベリアの遊牧民を支配下に組み込み勢力を広げた。シベリア制圧を終えると進路は南へ変わり、中央アジアの多くの汗国を侵略、植民地化した。さらにシベリアの南に広がる清とぶつかり、ネルチンスク条約やキャフタ条約によって国境を定めたが、19世紀に清が弱体化すると、アヘン戦争やアロー号事件に乗じ、満洲のアムール川以北と沿海州(外満洲)を次々に併合、植民地化した。

東方の併合が一段落すると、続いて中央アジアを武力併合、バルカン半島へ進出し、オスマン帝国と幾度も衝突した(南下政策、汎スラヴ主義)。領土拡張主義は日露戦争や第一次世界大戦によって日本、ドイツなどと衝突し合ったが、第一次大戦中に共産主義信奉者によるロシア革命が起こってロシア帝国は滅亡した。拡大した領土はそのままソビエト社会主義共和国連邦に引き継がれ、中央アジア、南コーカサス、非ロシア・スラヴ地域は構成共和国として連邦に加盟し、それ以外はロシア共和国領となった。1941年にはバルト三国を、併合した。

また、第二次世界大戦後に、東欧諸国を中心としてソ連の影響下に置かれた社会主義国も、名目上独立国であるが、衛星国と呼ばれ、植民地的な側面も見られる。冷戦終結とその後の混乱でソ連が崩壊すると、バルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)を除く旧ソ連構成国は独立国家共同体(CIS)を結成して独立し、ロシア連邦内にとどまったシベリア、極東ロシアでも、多くの地域が共和国を構成して自治が行われている。また、東欧諸国でも、ソ連の指導下にあった一党独裁体制が崩壊し、その勢力圏から離脱することになった。
ドイツ
詳細は「ドイツ植民地帝国」を参照
青:ドイツの海外領土
赤:プロイセン時代の海外領土

ドイツ帝国はタンガニーカ(現タンザニア)やトーゴ、南西アフリカ(現ナミビア)等のアフリカ植民地や南洋諸島を所有していたが第一次世界大戦敗北により喪失した。
イタリア
イタリアの植民地

イタリア王国はイタリア領ソマリランド・リビア、さらに短期間のみエチオピア(ソマリアとエリトリアを含むイタリア領東アフリカ)を保持したが、第二次世界大戦の最中にエチオピアを失った。

リビアは1951年にリビア王国として独立、ソマリランドはイタリアによる信託統治を経て、ソマリアとして独立した。
ベルギー
ベルギーの植民地

ベルギー国王レオポルド2世は、 ベルリン会議の決議としてコンゴの一部(現在のコンゴ民主共和国の領域)を私領であるコンゴ自由国として保持していた。しかしこの体制による圧政が国際社会から強い非難を受け、1908年にベルギー政府の植民地(ベルギー領コンゴ)に移行した。

1960年にコンゴ共和国として独立。コンゴの東に隣接するルアンダ=ウルンディ(ルワンダとブルンジとして独立)はヴェルサイユ条約によってドイツから委任統治領として獲得した植民地である。
その他のヨーロッパ諸国
デンマーク
詳細は「デンマークの植民地」を参照

デンマークは北極周辺に植民地を保有し、グリーンランド、フェロー諸島を領有していたが、現在は両国とも自治領となっている。アイスランドもかつてはデンマーク領であった。

デンマーク植民地帝国として、デンマーク領西インド諸島、アフリカの黄金海岸の一部、インドのベンガル湾岸の諸都市、ニコバル諸島に植民地を保有していた。後に西インド諸島は第一次世界大戦中にアメリカ合衆国へ、黄金海岸、ベンガル湾岸の諸都市及びニコバル諸島は19世紀半ばにイギリスへ売却された。植民としてよりも海運業が盛んだった。

スウェーデン
スウェーデンは1638年に新大陸にニュースウェーデン(現在のデラウェア州)に植民。後、オランダに奪われる。1650年には黄金海岸にも進出したが、デンマーク、イングランドに奪われて海上帝国を形成出来なかった。植民よりも貿易に力を入れていた。ただしスウェーデンの植民地の先駆けは、中世以来のフィンランドだとも言える(バルト帝国)。

近代はロシア帝国に支配されたが、現在でもフィンランド社会にスウェーデンの影響力は深く浸透している。1784年には、フランスから西インド諸島のサン・バルテルミー島を買取り、スウェーデン西インド会社を設立したが、すぐに閉鎖している。若干の殖民も行われたものの、1878年に返還された。島には、今もスウェーデン系を含めたノルマン人の住民が多い。

 ノルウェー
ノルウェーは現在、北極海、大西洋上に植民地を領有している。ヴァイキング時代には、グリーンランド、アイスランドも領有していた。現在の植民地は、ノルウェー独立(1905年)以後のものである。

北極海にスヴァールバル諸島、ヤンマイエン島、大西洋上にブーベ島、ピョートル1世島を領有している。また南極の一部も領有権を主張している。ヴァイキング時代の植民地を巡ってデンマークと領有権問題を起こしたが、現在は解決している。

 ブランデンブルク=プロイセン
ブランデンブルク=プロイセン(ドイツ帝国の前身)は1682年に西アフリカに遠征し、ギニア湾岸の黄金海岸にグロス・フリードリヒスブルク要塞を建設して奴隷貿易にも携わった。しかし1721年にオランダに売却している。

  アジア諸国
 日本
大日本帝国時代の統治地域
1932年当時の大日本帝国の領土、及び影響地域
「大日本帝国」も参照
大日本帝国の国土(昭和期) 1. 内地、2. 台湾、2’. 新南群島、3. 樺太、4. 朝鮮、5. 関東州、6. 満鉄附属地、7. 南洋群島

日本の植民地としては、「外地」と称された諸地域がこれに該当する。

台湾(日清戦争後の1895年、★下関条約による割譲)
南樺太(日露戦争後の1905年、ポーツマス条約による割譲、後に内地編入)
関東州(ポーツマス条約による租借地承継。満鉄付属地を含む)
朝鮮(1910年の日韓併合条約による大韓帝国の併合)
南洋群島(第一次世界大戦後の1922年、国際連盟規約による委任統治)

これらの地域のうち、台湾、南樺太、朝鮮は日本の領土であったのに対して関東州と南洋群島は領土ではなかった。しかし、いずれも日本の統治権が及ぶ地域であり外地と総称された。さらに、日本の影響下にあった満洲国(1932年建国)も、事実上の植民地に相当する。

ただし、南樺太に関しては統治の初期より準内地的に扱われた。各地域の法令の適用範囲の確定等が目的の共通法(1918年制定)では内地の一部として扱われた。1943年4月には完全に内地に編入。

なお、内地の沖縄(大東諸島、尖閣諸島を含む)、奄美群島、北海道、千島列島、東北地方、小笠原諸島も植民地として捉えるべきであるとか、日本の近代化について日本国家が日本社会を植民地化した過程である(自己植民地化論)と捉える観点も存在する。

 「外地」と植民地
美濃部達吉は1923年(大正12年)の『憲法撮要』にて、「法律上の意義に於ての殖民地」を「国家の統治区域の一部にして内地と原則として国法を異にし」たものと定義し、「朝鮮、台湾、樺太、関東州及南洋群島が此の意義において植民地なることは疑いを容れず」と述べる。

水野直樹は、日本の法令で植民地という用語を使用したものはないが、公文書ではこれらの地域について植民地(殖民地)の語を使用しているものが存在していたことを指摘する。

法令による規定では
内地では帝国議会が法律を制定した(事実上)のに対し、外地では形式的には行政庁である総督が制令(朝鮮)や律令(台湾)などを制定していたこと[注 5]
外地には衆議院の選挙区が設置されなかったこと
樺太・関東州・南洋諸島の在来住民に日本国籍が与えられなかったこと

など、内地と外地の間に法律上の区別が存在したことから、アカデミズムの世界ではこれらの地域について「植民地」と呼ぶことを自明の前提として研究や議論が展開されることが多い。

また、日本の統治が及んでいた地域ではないが、1932年(昭和7年)に建国された満洲国(満洲国については、準外地と呼ぶことがある)や、大東亜共栄圏構想の下に起こした太平洋戦争の間に日本軍占領下で樹立された国々(フィリピン第二共和国、ベトナム帝国、ラオス王国、ビルマ国、カンボジア王国)や、日本軍占領下で成立した政権の支配地域(蒙古自治邦、汪兆銘政権など)を名目上は独立国であるとはいえ、その実質的な傀儡性から、第二次世界大戦中においては日本の植民地同然だったとする見解もある。

比較法学の観点では、当時の国法学の観点では「国土」という確定された領域は国土学によって理論的に整除され、その結果を憲法に記述することが慣行となっていた。1831年のベルギー憲法、1848年のプロイセン憲法、1871年のドイツ帝国憲法のように第一条に国土条項を記述するのが通例で、領土条項を欠いた憲法はなんらかの事情があり、その点で大日本帝国憲法は異例であった。石村修はこの点について江戸時代における長期の鎖国体制や地政学的特性に着目する。西欧型の植民地経営の特徴は、自国の法がおよぶ範囲を限定し殖民会社に軍備・司法・行政・外交の特権を付与することで、国家も直接植民地支配の煩わしさから解放されることになり、そこでは軍事警察力による暴力的な支配権力が不可欠であり、法的には内地と区分された(外地)という枠組みが形成されるにいたった。19世紀のヨーロッパは国家主権が欠落した空間に宗主国の主権が及ぶことを想定しながら、直接的な責任逃れの法理が適用されることを期待して「外地」(overseas territories)という領土を作り出したとする。

明治憲法(大日本帝国憲法)の形質の観点では、明治憲法に領土規定がなく、ヘルマン・ロエスレルの案においては領土は自明のものであり、また「国体」に関わり議院に属さないものだとして領土規定は立ち消えたのであるが、実際にはロエスレルの認識とは異なり日本の領土は北(樺太・北海道)も南(琉球)も対外政策は不安定な中にあった。明治政府にとって好都合であったことは確かで露骨なものとしては「我カ憲法ハ領土ニ就イテ規定スル所ナシ、諸国憲法ノ或ハ領土ヲ列挙スルト甚タ異レリ、サレハ我ニ在リテハ、領土ノ獲得ハ憲法改正ノ手続ヲ要セス」(上杉慎吉「新稿・憲法述義」1924年P.143)と解されていた。

いくつかの勅令等に「殖民地」「植民地」の用語を使用するものが存在したことが指摘される。

1898年、時の明治天皇による明治31年勅令第37号では、「北海道殖民地」の用語が使用されている。
1932年9月3日昭和天皇が公布の「昭和七年・予算外国庫ノ負担トナルヘキ契約九月三日・予算外国庫ノ負担トナルヘキ契約ヲ為スヲ要スル件」において、「電話ノ料金中本邦收得分(植民地收得分ヲ除ク)」と「植民地」の用語が使用されている。
1930年、昭和5年条約第4号・万国郵便条約では、「第8条 殖民地保護領等」の項目に、朝鮮を含めている。

また、公文書にも「植民地」の用語例は見られ、例えば大正12年刊行の拓殖事務局『植民地要覧』では朝鮮・台湾・樺太・関東州・南洋群島を「我が植民地と解せらるる」とした(同書では南満洲鉄道付属地も扱った)。
日本の内地以外の支配地域を植民地とすることへの異論、反発

植民地という用語は元々は「開拓地」や「入植地」などと同様に正否の価値判断を含まない一般術語であり、近代植民地法制学等の社会科学におけるに講学上のテクニカルタームにすぎない[注 6]。外地を「植民地」「殖民地」と呼ぶことへの反発は明治期からすでに存在し、いわゆる忌避語・侮蔑語のようなニュアンスがあり、外地を植民地と呼称することは回避され「我国にては斯(植民)の如き公の称呼を法律上一切に加えず単に台湾朝鮮樺太等地名を呼ぶ」[20]ことが事実上の慣例となっていた。

我国にては斯の如き公の称呼を法律上一切に加えず単に台湾朝鮮樺太等地名を呼ぶ。但し学術的又は通俗的に之等を植民地と称するを妨げない。我国の学者政治家等が朝鮮を指して植民地と称することに対し、「千万年歴史の権威」と「二千万民衆の誠忠」を有する朝鮮民族は大なる侮辱を感じ、大正八年三月一日の独立宣言書にもその憤慨が披瀝せられた。併乍ら研究者は事実関係を以てその研究対象とするより外はない。
— 矢内原忠雄、

(1905年(明治38年)の帝国議会において下記のようなことがあった。)衆議院の委員会において、当時の首相で第二代台湾総督でもあった桂太郎が、台湾は「日本」なのか「殖民地」なのかいう問に、うっかり「無論殖民地であります内地同様には行かぬと考へます」と答えてしまったのである。..中略..この首相発言は、議員達に大きな感情的反発をよんだ。議員側からは、「台湾を殖民地にするとは云ふことは、何れの内閣からも承ったことはない」とか「吾々議員として実にぞっとするではございませぬか」といった非難が出た。
— 小熊英二、

朝鮮半島
「東北工程」および「中国朝鮮関係史」も参照

朝鮮半島や朝鮮史を中国や中国史の一部、あるいは従属地域・従属国と見なす研究や記述が存在している。

たとえば米国コロンビア大学オンライン百科事典によれば、韓国古代史について韓国では檀君神話から紀元するものの、中国文献によれば商王朝難民により箕子朝鮮がB.C.1122年に平壌で建国されたのが始まりであるとし、あるいは衛氏朝鮮が朝鮮最初の国家であると解説する。

韓国側文献として例えば『韓国史大事典』では、朝鮮王朝(李朝)と中国(明)の関係については「朝鮮」という国号を明に選んでもらったことを指摘した後、「従属の象徴として明の年号を使った」と説明する。また後の清についても「宗主国」とし、日清戦争で清が日本に敗北した結果として「朝鮮が完全な独立国であることを確認するにいたり、政治的な従属関係はなくなった」と解説する。また日清戦争後、国号を朝鮮から「大韓帝国」に変えた経緯について「清の属国から脱して独立し帝国として発展するという意味」があったと説明する。李朝の前の高麗時代に中国を支配した元との関係では「属国」との表現はないが、高麗王が六代にわたって必ずモンゴルの王妃を迎えるという従属的な「ふま国」となり「自主性を失った」としている。

学生向け教科書にも同様の記述がみられる。 特に高句麗史の帰属をめぐり韓国朝鮮と中国の間には論争が生じている。
オマーン

オマーンは17世紀から19世紀半ばにかけて西インド洋において海洋帝国を構築し、同沿岸のザンジバル(現タンザニア領)、モンバサ(現ケニア領)、モガディシュ(現ソマリア領)、パキスタン沿岸のグワーダルなどを保有した。
イスラエル

イスラエルは宗主国無き植民地とも言える国家である(エドワード・サイードなど。反論もある)。第一次世界大戦にオスマン帝国が敗北すると、中東・アラブ地域は新たにイギリス・フランスの植民地となり、ユダヤ人が約束の地と崇めるパレスチナは委任統治領としてイギリスの管理下におかれ、ヨーロッパやアメリカ合衆国からユダヤ人が入植した。ポグロムから逃れてきた人も多かった。しかし、時の弁務官の方針により、ユダヤ人移民の数はおおむね制限されており、ユダヤ人人口が減少に転じた時期もあった。入植者が増大したのは、第二次世界大戦前後の混乱期である。

アメリカのユダヤ人はすでに都市部で富裕層となっており、入植を斡旋したり、入植者に資金面での援助を行ってきた。ナチス・ドイツ時代や、第二次世界大戦後にはさらに入植者が増えた。そのため、ユダヤ人とアラブ人との間で軋轢が多くなり、国家像としては連合国家案より分割案が有効とみなされるようになり、国際連合の決議に基づき、パレスチナをユダヤ国家とアラブ国家に分割することとなった。しかし、決着は得られず、中東戦争の勃発、イスラエルの独立に至った。4度の中東戦争を経ても双方の言い分は平行線をたどる。

特にこれらのユダヤ人は、第三次中東戦争でイスラエルが獲得したヨルダン川西岸地区などに国軍のアラブ人強制排除とともにユダヤ人入植地を建設し、パレスチナ問題を深刻化させている。また、冷戦終結とソビエト連邦の崩壊によって再びユダヤ人の入植が増えている。
アメリカ合衆国

イギリスから独立した元13植民地の連合体として出発したアメリカ合衆国は、その後もイギリス、フランス、スペイン、メキシコから植民地や領土を武力併合または買収して、自国の領土を西へと拡大した。拡大する過程で新たに州を新設していったので、植民地と州の境はあいまいになった。短期間で西海岸へ到達すると、太平洋の先に目を向け、北部のアラスカをロシアから買収(アラスカ州)、ハワイを併合し(ハワイ州)、その後それぞれ州に昇格させ自国領土内に完全に併合する。さらに米西戦争でスペインに勝利すると、スペインの統治下にあったカリブ海のキューバやプエルトリコ、東南アジアのフィリピン、グアムを植民地化した。もっとも、キューバは早期に独立させたが、その後もキューバ革命までの長期に渡り影響下に置いた。

アメリカは建国の成り立ちからして、個人の財産的自由権を重視したが白人植民者の子孫からなるアメリカ合衆国議会はインディアンや黒人奴隷に対してその主権を認めることはなかった[注 8][注 9]。フロンティアへの進出に際して先住民と条約を結び、先住民の一定の主権を認めていたが、合衆国や州政府、入植者たちはたびたび条約を無視したり、先住民に権利の放棄を強要した。北西部領土や西南部領土あるいは西海岸に移動した白人開拓者は1763年宣言などインディアン達との取り決めに違反していたにも拘らず、開拓者や商人らへの攻撃に対して合衆国陸軍は出動し、インディアン強制移住法はミシシッピ以東から先住民を駆逐するだけでなく、以西のフロンティアにおいても駆逐を続け、先住民は占有する土地を極めて小額の補償金と引き換えに合衆国政府に対して強制的に譲渡させられた。オレゴン・カントリーをめぐる交渉や米墨戦争による武力併合により合衆国政府は広大な土地を獲得し、これらの土地は入植者に対して無償ないしは非常に安い価格で売却された。1890年代のフロンティア消滅と時期を同じくして発生した米西戦争により領土はフィリピン、グァム、キューバへ拡大し、またハワイ入植者が起こしたクーデターに米国海兵隊が介入しハワイ王国を併合した。

「アメリカ人の生命、自由及び財産の安全確保のため」議会に対して合衆国軍隊の介入を要請するという図式はアメリカ帝国主義拡大の基本的な構造であり、皇帝や国王の名を必要としない19世紀型の帝国主義の典型となった。米西戦争の勝利によって、スペインの影響下にあった中米の国々を独立させ、政治や経済的に影響下に置いたのちも、中米諸国はバナナ共和国と呼称され、アメリカ資本のユナイテッド・フルーツやドール・フード・カンパニーなどの民間企業が資本主義の尖兵として掠奪経営や政治介入をおこなった。キューバなどカリブ諸島の親米政権に支援を行い、ドミニカ、グレナダ、パナマには公然と軍事介入した。中米のプエルトリコは、現在も自治領として存続している。また北マリアナ諸島もアメリカの執政下にとどまっている。
新植民地主義
詳細は「新植民地主義」を参照

開発援助において、古くは1960年代に英仏がアフリカの旧植民地に財政支援をおこない、「新植民地主義」と批判され取りやめたことがある[25]。共産主義陣営(社会主義国、旧東側諸国)においては1960年代に世界で新植民主義が進展しているとの認識があり、中華人民共和国では、中国共産党が1963年9月に3回にわたりソ連共産党中央委員会を痛罵し10月22日付の批判ではソビエトを「新植民主義の弁護人」であると批判した。中国の理論家たちの見解によれば、「ソビエトによる社会主義世界体制は、世界の発展過程全体にますます決定的な影響を及ぼしていないばかりか、帝国主義に対する大衆の革命的闘争で独自の役割すら果たしていない」と非難した。

こういった大戦後に登場した旧宗主国や大国における新たな植民的支配(新植民主義)論とは別に、21世紀になり中国など新興国の台頭を背景とした国外への積極的な投資や開発援助が「新植民主義」との指摘もある。

例えば中国の対アフリカ援助が「新植民主義」だとの批判が一部の先進国から浮上し、一部のアフリカの国からも新植民地主義であると発言している。また、援助の実施を担当する中国企業が地元の環境を破壊したり汚染を及ぼすこともあった。

マダガスカルでは2008年11月に、韓国の大宇グループがマダガスカル共和国の耕作可能地の約半分を99年間無償貸与される契約を結んだことから民衆騒動が発生し、当時のマーク・ラヴァルマナナマダガスカル大統領が退陣させられ契約が撤回される事態となった(マダガスカル・クーデター)。

韓国の李明博大統領は2008年4月15日にも、「ロシア沿海州のような地域の土地を30~50年間にわたり長期賃貸できるだろう」「北朝鮮の労働力も利用でき、また北朝鮮までの輸送距離が短いため北朝鮮への直接支援も可能だ」という発言を行っている。
(出展; /Wiki)

 

 

ーーーーーーーー                           M2:【「25年前の約束」はどこに?習近平主席「香港統治の成功」を宣言へ 】2022/06/30 09:31ラジオ

目次                                    1.「一国二制度」は約束の50年間の半分の25年間で反故に
2.強引とも思える習主席の感染防止対策
3.返還20周年演説の“二つの狙い”が現実に
4.今年の式典で習主席が語るのは?
    5.国際都市・観光都市としての香港はどうなる?

「学校を卒業してからちょうど10年」「結婚記念日」…なにかの節目を迎えると、人はその節目となる日がスタートした時の自分を思い出すことがある。東アジア情勢に詳しい、飯田和郎・元RKB解説委員長は「25年前(=四半世紀前)の6月30日、自分が走り回っていた取材の記憶がよみがえる」という。6月30日放送のRKBラジオ『田畑竜介 Grooooow Up』で振り返った。


1 「一国二制度」は約束の50年間の半分の25年間で反故に
1997年6月30日は、イギリスが香港を植民地支配した最後の1日だ。 ★翌日7月1日午前0時をもって、香港の主権が中国へ返還された。この返還の日をはさんで1週間ぐらい、私は香港で取材していた。

 歴史のおさらいをしよう。                        アヘン戦争の後に、香港島は当時の清朝から割譲され、イギリスの植民地となった。 ★1898年には、その香港島のほかに九龍半島なども含め、★99年間の期限付きでイギリスの租借地となった。 1898年からかぞえて、丸99年になるのが1997年だった。

 日付をまたいで開かれた式典には、当時の中国のトップ、江沢民国家主席。イギリスからは王室のチャールズ皇太子、ブレア首相らがそれぞれ出席した。 式典の行われた6月30日の夜、香港は大雨だった。私は外の様子を眺めながら、同僚と「この雨は香港のこれからを暗示しているのではないだろうか」と話していた。

 返還に際して、中国とイギリスが結んだ合意は★「資本主義体制や生活様式を返還後も50年間、維持する」と保障する内容、すなわち「一国二制度」だ。  中華人民共和国という一つの国家に、中国本土でのシステムと香港でのシステムの二つを設けるという、高度な自治を保障するものだった。 それによって世界から情報や人材、資本が香港に集まり、中国本土の安定的な経済成長にも寄与する、という考え方だ。                          

両国の約束には、香港の憲法にあたる香港基本法に盛り込まれた。「言論や報道の自由」「デモやストライキの権利」など、中国本土では制限された各種の権利を認めていた。

その約束に基づいて、香港は中国へ返還されたはずだ。それが、約束の50年間の半分の25年間で反故にされてしまった。だから四半世紀が過ぎたいま、大雨の返還当日を思い出す。

2  強引とも思える習主席の感染防止対策
 そういう中で、あす7月1日に開かれる返還25周年式典に習近平国家主席が出席する。2020年の新型コロナウイルスの感染拡大以降、習主席は外遊を控えてきた。中国本土以外を訪問すれば、これが初めてになる。

 香港のコロナ禍は収まっていない。そのため、習主席はじめ、中国の指導者たちに感染させないように、出迎える側の香港の高官や警備担当者、また中国国旗を振って迎える児童たちが1週間、隔離させられている。この間、児童たちの授業はオンラインだ。

 香港の「一国二制度」とはそもそも、中国本土と異なる、香港の自由な雰囲気を象徴するもの。強引とも思える、こういうやり方においても、「一国二制度」が崩壊したようだ。いずれにせよ、そのような態勢を敷いてでも、習近平主席がやってくるなら、香港の統治について、並々ならぬ意欲を感じる。

3  返還20周年演説の“二つの狙い”が現実に
 習近平主席は、5年前の返還20周年にも香港を訪れた。 この時は式典での演説で「中央の権力に対するいかなる挑戦も絶対に許さない」と強い調子で述べ、香港独立論をけん制した。当時、この演説の狙いは二つあるとみられた。一つは★国家の分裂を図る政治活動を禁止する条例・法律の早期制定。もう一つは、★共産党の考え方を柱にした愛国教育の導入だ。

ただ、5年前の香港では、習近平主席の訪問に反発する市民ら★6万人以上が参加するデモが実施されたし、その中には愛国教育反対のスローガンも目立った。それが、今回はデモすらできなくなった。

 そして、演説の狙いとみられた二つが、わずか5年間のうちに現実のものになった。 すなわち、★国家の分裂を図る政治活動を禁止する「香港国家安全維持法」ができた。 香港で大規模な民主化デモが連日行われていた2019年の翌年だ。香港政府や、共産党への批判とみなされれば、「違法」とされ、処罰される。また、緊急時などには捜査令状なしで強制捜査ができるなど、公安当局に数々の強い権限が与えられている。

 7月1日に就任する香港の行政部門のトップの行政長官、それにナンバー2の政務官ともに、治安や公安のプロフェッショナル。行政畑出身ではなく、異例のことだ。北京の中央の意向が色濃い人選で、中国が香港の不安定要因を封じ込めようとする意志の表れだ。

  もう一つの愛国主義教育について、イギリスのBBCや、フィナンシャル・タイムズによる報道で明らかになったことがある。 香港の中学校や高校で、この秋から使用される新しい歴史教科書の内容だ。 それによると「香港はかつて★イギリスの植民地ではなく、占領地だった」と位置づけている。すなわち「ある国が国外の領土を植民地と呼ぶには、その領土の主権と統治権を持つこと」「中国は不平等条約を認めず、香港は『国家の主権』を喪失していなかった。だから植民地ではない」と主張しているのだ。自らの尊厳を優先した、歴史事実の塗り替えと言っていい。

4  今年の式典で習主席が語るのは?
 習近平主席が返還25周年式典で何を訴えるか。私は、この5年間における彼らのいう「成果」を強調するのではないかと予想している。民主派を封じ込め、共産党政権のいう「安定」を実現した成果を高々とうたい上げるのではないだろうか。この秋に開く共産党大会を前に、香港統治を「成功」させた実績を誇示し、3期目入りを確実にする狙いがある。

 今年5月、習近平主席のある発言が波紋を広げた。新疆ウイグル自治区の人権問題に関し、現地視察した国連の人権担当官との会談で発した「教師面(づら)して偉そうに説教する必要はない」という一言だ。 明日の香港の式典での演説も、国外向け、国内向けに強硬なメッセージを発信するかもしれない。香港で発する強権を、習近平氏自身の権力に結び付けている。

5  国際都市・観光都市としての香港はどうなる?
 日米の首脳は5月の共同声明で、わざわざ香港についても言及していた。「両首脳は、香港における動向について、深刻かつ継続する懸念を共有した」とあった。香港の国際都市としての役割も損なわれるようで、無関心でいられない。

 香港は、自由でエネルギッシュだった。香港に進出する日本の企業、また、観光都市・香港ならではの魅力にひかれ、訪れてきた日本人に、今も香港はどのように映るのか?そう心配する人は少なくないと思う。

飯田和郎(いいだ・かずお) 1960年生まれ。毎日新聞社で記者生活をスタートし佐賀、福岡両県での勤務を経て外信部へ。北京に計2回7年間、台北に3年間、特派員として駐在した。RKB毎日放送移籍後は報道局長、解説委員長などを歴任した。
 (出展; /RKBオンライン)

 


ーーーーーーーーーー                         M3:【一国二制度 】とは 2019.12.1(日) 掲載

 中国の一部である香港に、中国本土とは異なる制度を適用することを指す。1997年7月に英国から返還された香港に対し、★中国は外交・防衛を除く分野で高度の自治を50年間維持すると約束した。 香港は「特別行政区」として独自の行政、立法、司法権を有し、中国本土では認められない言論・集会の自由や、通貨やパスポートの発行権を持つ。

 一方、中国は憲法にあたる「香港基本法」の解釈・改正権や政府高官の任命権を握るなど、香港をコントロールする仕組みも持っている。 香港では、旧来の民主派議員が一国二制度を前提としているのに対し、中国からの自立を訴える一部の若者らは期限を迎える2047年以降は独立も含め住民投票で決めるべきだと主張している。

 一国二制度はもともと、中国が台湾を統一するための仕組みとして考えた。だが中国が香港への締め付けを年々強めるのを見て、台湾でも警戒感が強まっている。 台湾の蔡英文(ツァイ・インウェン)総統は「香港は一国二制度が失敗し、秩序を失っている」として、同制度の受け入れは拒否すると主張している。                                     (出展; /一国二制度 - 経済ナレッジバンク日経 4946👉https://www.nikkei4946.com › selection › detail)

 


《参考動画のURL; 香港返還時の式典でジャッキーチェン氏  /Youtube👉🔴見当たらず、、う~ん 中華系のニュースって消えるの早いかと。。 》

《参考動画のURL; /【ザ・解説】香港デモ、市民の怒りの理由 「自由も失われる」危機感Youtube👉https://youtu.be/hgVzuAWaA00》

《参考動画のURL; 習近平氏 香港入りでスピーチ /香港返還25年「一国二制度は成功を収めた」(2022年7月1日) テレ東Biz Youtube👉https://youtu.be/AQqcEhlY-us》

 

 ーーー                                           初版20240629 昨日の東京都心大手町最低気温21.2℃ 最高気温23.8℃、、 全国では 沖縄八重山波照間の34.1℃が最高気温、以下上位10傑は全て沖縄・鹿児島方面  一日中朝からまとまった雨でヒンヤリの一日。     うわ、もう週明けから7月だ、、汗

ー時節項追記前日深夜未明迄 ※28金の内容が中心                    ①   ▷29土 明け方にかけ 大雨警戒 22;07    ▷箱根で1h 50ミリ以上の滝のような雨 豪雨エリアは関東へ来た気時間を直撃 13:29    ▷梅雨前線活発化の豪雨 静岡で一時新幹線 見合わせ 金    ▷日本気象協会 24年度梅雨明け予想 7月中旬以降👇各地で平年並み 15:10木    ▷関東甲信今日28金 次第に本降り、上げしい雨も 道路の冠水に注意 6:53  > 気温は大幅低下、とも   【震災関連】   ▷輪島港 浚渫で夏にも漁再開 自身で海底隆起も推進確保 18:00木  ※浚渫;シュンセツ 土砂を攫う事。        ➊   ▶チリ-14.7℃ 記録的寒波で断水も 恵みの大雨にカラカラに干上がった湖が復活 18:55        ②   ▷▷▷▷▷▷▷▷▷▷▷小池氏ステルス自分隠し「だんまり」戦法 蓮舫氏スマイル戦法 リュック戦法、SNSフル活用で次世代型選挙の石丸氏~都知事選 金  > 小池氏は自民伝統の地回りを敢行で17年「排除」発言を懸念、、石丸氏は若者向け街頭演説とクラファンで資金を調達とも、、蓮舫氏の都政意思決定の透明化「行政事業レビュー」は国政でも是非やって欲しい事かと    ▷小沢一郎氏 蓮舫氏に「川上戦術」を指南 「それをこなすしかない」 18:42木  > 選挙になるとこの御方はやたら元気に出てきて上から良く語るのは何故?    ▷都知事選 小池氏横文字答弁に石丸氏 何言ってんの 金  > (笑) コンドラチェフの波の解釈混同指摘にも笑った、、   ▷鈍感力を発揮? 岸田首相、総裁選へギア 党内批判にへこたれず 木  > ある意味この御方の長所かも。…でも経済政策は鈍感では困るのですが、、   ▷自民・石破氏 都議補選「衆院選の先行指標に」23:00木         ➋   ▶CNN 大統領版記者の討論会立ち入り禁止 記者協会強い懸念 7:16        ③   ▷用水を活用しなるべく稲を冷やす 青森県産コメの生産指導者 今夏も気温が高い傾向 18:01    ▷水不足で田植えができない 少雪が新潟米作りに深刻な影響 一部田んぼで作付け断念 20:02        ➌   ▶忍び寄る中国人実効支配 サムイ島 Airbnbが抜け穴に 27木  > タイ企業から土地を借り外国人向けにヴィラ経営をしているとか、、   ▶OPEC 世界の原油価格の支配権 失う可能性IEA報告書 19:15    ▶BKK セントラルワールドとスワンナプーム空港 結ぶシャトルバス運行 水       ④   ▷マイナ保険証普及へ 薬剤師1万人らを「推進委員」に任命 河野大臣 12:25木  > 尻拭い役に薬剤師、、迷惑では?    ▷冬と夏の感染症 同時流行 見解 8:57        ➍▶       ⑤    ▷◮松山英樹 パリ五輪出場表明を引き延ばした理由 JGAのサポート体制に疑問と不安 16:00        ➎   ▶236㎝18歳 220㎝17歳 男女バスケ規格外新星現る 15:27  > 米フロリダ大のオリバー・リウ(カナダ)、小6で214㎝あったとも。女子は昨日ご紹介、、    ▶パリ五輪使用予定も セーヌ川基準値超える大腸菌 パリ市長は安全性証明へ「私が泳ぐ」 18:03  > そういう問題ではないかと、、    ▶不祥事に揺れる 韓国 フィギュア界 23:08        ⑥   ▷JA施設のタンクに 工作や破壊の跡 水田5.5haに重油流出~山梨北杜市 16:58    ▷KADOKAWA 情報漏洩 確認 19:52       ➏   ◭▶沖縄米兵 性的暴力 相次ぎ発覚 23:58        ⑦▷        ➐   ◭▶バス 法人親子かばい死亡 中国人悼む声 21:25         ⑧   ▷ついに近大マグロ※1より味もコスパも良いマグロ 登場か⁉ 養殖魚の大学間開発競争と「愛媛大スマ」の実力👇 25火  > 選抜育種※4が効き、マグロは3年掛かるのに対し、スマガツオ※3👇は出荷まで8カ月で済むが、筋肉係数※2がマグロ同様課題なのだとか、、  ※1;2004年から出荷。23年は752tで全体4%も年々増加傾向。  ※2;魚体重1㎏を増やすのに必要な餌の重量。ノルウェーサーモンは1.2、ブリは2.8、マグロは14-17と高い。水分の少ない加工飼料を与えるサーモン・ブリに対してアジ・サバ等生餌を与えるため。  ※3;別名カワカワ。高脂質な刺身が取れる。大きな群れを作らず相模湾以南しか生息していないため市場にはあまり流通していないブリより小さなマグロの一種。  ※4;魚体が小さい為、味が良い・餌を良く食べる・給餌効率が良い個体等を何世代かクロマグロより半分の期間で選別し続ける事が出来る。    ▷阪大など 血を作る遺伝子発見 白血病治療に期待 13:44水        ➑   ▶ボルネオゾウ 絶滅危惧種に指定 IUCN 18:58    ▶2つの巨大小惑星 地球に接近 1つは28金早朝に最接近13:30木  > リアルアルマゲドン?        ⑨   ▷巨・バルナードがまさか!? 9回二死からバッテリーエラーで追いつかれる 金    ◮▷ヤ・村上のメジャー挑戦 黄色信号 「筒香と重なる」と厳しい評価 17:32  > 最初から分かっている事だと思うが、、   ▷阪神22歳冨田連 勝ちパでもおかしくない 走者許さぬ無双0.75がエグイ 12:59    ▷降雨コールド オリ中島監督ら 激怒 22:21    ▷元三冠王・松中氏 首位独走SB山川・近藤に警鐘 今日の打撃を見ていると心配 6:30    ▷飛ばないボール、外に広過ぎるストライクゾーン 3割打者が両Lで3人、防御率1点台が7人の「超投高打低」 異常事態 6:00  > いくら球団がボール選べるからと云って、やり過ぎかと。。   ▷神元育1・野口恭佑 初昇格へ ノイジー2度目の抹消 7:30  > OP戦では外スラ&落ち球両方手が出なかったが、、   ▷神・岡田監 近本外しの理由 「次戦は外したら島田怒りよるやろ。みんなプロ」 22:35木    ▷27歳内野手 NPBと契約か 米報道 6:44  > ココ・モンテス(米)。3AでLトップ.355、2年連続20発、昨年ロッキーズでメジャーデビュー。 神か西武、中日辺りか(まさかまた巨人…。)   ▷王、長嶋、原よりも若く 岡本和真 200号メモリアル弾 木  > 4番打者として左記選手に継ぐ球団4人目で27歳11か月での達成は長嶋の32歳5か月を抜く最年少    ▷阪神快勝 村上 3勝目 木    ⑨【ペナント結果】《セ》▷広2-3巨 ▷神[中止]ヤ ▷De5-1中    《パ》▷ソ5-1ハ ▷オ3-4ロ ▷西4-0楽     ⑨【順位表👇;出展:スポナビ】        ➒   ▶前回炎上の今永 6回3失点も渡米後最速 152K 19:30  > このくらい出し続けなければ通用しない、とも。確かに、、    ▶バットボーイ 大谷の危機救う 強烈なファウルを目前で素手キャッチ 4:56  > ド軍は特別ボーナスあげて良いかも、、     ➒【MLB試合結果】   《A》▶TxR2-11Ori ▶NY2-9BJ ▶Ga1-2Roy ▶T0-5A    《N》▶Cub5-3G▷今永6回93球5安打3失点 3K2四 付かず 通算7勝2敗 防3.07 ▷鈴木4LF 5-2 1点 .266  ▶マーリ7-4F ▶Red11-4Kaj    《I》▶Tw13-6DB ▶ブレー0-1WS        ⑩▷➓▶      ⑪【旧J関連・性被害/・芸能関連N】▷

⑨👉NPB順位《セ》6/28金21:47    第14週後半1戦終了時                                                                                                                                       1 広 36勝28敗4分④  ー     次戦 巨 東京D➌                                                                                                                           2 神 34勝32敗5分①  3       次戦 ヤ    神宮➌                                     3 De35勝33敗1分③     0    次戦 中 バンテリンD➌              4 巨 34勝33敗5分      0.5                            5 中 30勝36敗6分      3.5                                    6 ヤ 29勝37敗4分②     1               
                                                                                                                                                                                                                            
👉NPB順位《パ》 25カード目※👆のセも。 同日21:39更新                      1 ソ46勝20敗3分②   ー     次戦 ハ エスコンF➌                                                                                                         2 ロ34勝29敗6分②  10.5   次戦 オ ZOZO➌                 3 ハ33勝31敗5分②    1.5                                  4 楽32勝35敗2分②       2.5     次戦 西  山県市①楽天M➌                              5 オ32勝37敗2分        1                                6    西22勝46敗1分②        9.5                                        ※ 勝敗分け後ろの丸数字①~は、雨天中止・移動日などで 未消化数。  付いてない球団が最も消化数が多い。丸数字はそことの消化試合数の差。                  ※ 次戦は翌日日程。そうでない場合は日付表記。※👇                ※ 👉次戦後ろの➋➌は初日からこのカードの連戦数。 ①②は中数日や移動日含みの2戦等変則日程や地方球場遠征や、消化試合など。         ※ 揺れご容赦 <()>  
ー              

                                              (画像・ 1) /香港 「高度な自治」危機 英が返還「1国2制度」 毎日

 

(画像・ 2) /一国二制度とは 中国、2047年まで… 日経

 

                                       (画像・)/ (画像・)/

ー ※以下は時節項画像👇

①👉(画像・ 3) 2024 梅雨明け予想  /日本気象協会発表 2024年梅雨明け予想 天気予報



⑧👉(画像・ 4) /ついに「近大マグロ」より味もコス プレジデント


⑧👉(画像・ 5) スマ。小型のサバサイズのはタイでも見掛けますね。 これらは大型の部類かと、、  /同上

  

ー 

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「歴史 文学」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事