時間と空間を超えて旅をしよう――今はアジアが中心――

参考となる旅の技術も提供できればと思います。お気軽に感想を残してくださればうれしいです。

初めての嘉義で思ったこと(1)

2016年08月25日 | 台湾

8月3日、夕方に台北から新幹線に乗って嘉義についた。初めての嘉義。

高鉄嘉義駅は街の中心から離れている。そこでバスに乗らなくてはいけない。駅の外に出るとすぐにこのBRTと書かれたバス停を発見。ここに来るバスに乗れば、無料で街の中心まで連れて行ってくれる。

 

バスは、恐らく新幹線開通に合わせて作ったであろう新しく一直線の道を快適に走った。周りには濃い緑色をした田んぼが広く続いている。

街に入り、ふと窓の外を見ると、ひとりの若い女性が道端にある小さな祠にお参りしていた。ここで、司馬遼太郎と「万善堂」の話を思い出した。万善堂とは、無縁仏を慰霊した祠のことで台湾中にある。司馬は、同行の蔡焜燦に頼んで、万善堂をお参りした。「万善堂を拝したかったのは台湾の心に接したかったからです」との気持ちからだった。(『台湾人と日本精神ー日本人よ胸を張りなさい』小学館、2001年)

ちなみに私も、お墓参りの時は墓地内にある無縁仏にお参りする。無縁といえども、私の故郷は農村なので、数代遡れば何らしかの血縁関係があると思うからだ。血縁関係がなくても、なんとなく「故郷の先輩方」の気がする。私が嘉義で見た若い女性は、どんな気持ちで無縁仏にお参りしていたのか、聞きたかった。街の鎮守様のイメージなんだろうか。どんな観光地よりも、生活の中のこうしたシーンに、その土地の素顔が見られる気がする。そして、その姿を見ると、無条件にこの街を懐かしく思った。

バスは台鉄嘉義駅の裏側に到着。渡り廊下を歩き正面に廻ると、日本時代に作られた嘉義駅駅舎がそこにあった。

駅を出て左手に伸びている中山路を少し入ると、「新高大飯店」という宿舎を発見。値段を聞くと600元だったので即決定。部屋にはwifiもあった。フロントの女将さんも、従業員の若い男性もやたら愛想がよかった。建物は古く、お世辞にも清潔とは言えないが、彼らの愛想の良さと値段の安さで我慢できた。

少し休んで中山路を歩く。台北にいる義理の母に無事の電話を伝えると「嘉義に行ったなら鶏肉飯だよ、噴水火鶏肉飯が中山路にあるよ」と教えてくれたので行ってみたが、すでに閉店。

さてどうしようかと文化路にある嘉義文化路夜市に行く。

随分とにぎやかだ。

しかし、なかなか鶏肉飯の店がないので、ここに来る途中に見つけて気になっていたルーローハンの店に行く。中山路と民生北路の交差点からすぐ。

めちゃぐちゃ美味しかった。そもそも、我が家の台湾人と結婚するとき、「魯肉飯作れるよ」の一言が私の決心の決め手となったぐらい魯肉飯は好きだ。

この近くの街の中心にあるロータリーには、映画「KANO」で出てくるピッチャー、呉明捷投手の銅像があった。

映画「KANO」は何度も見た。日本人の近藤兵太郎が嘉義農林学校(嘉農)の野球部監督に就任する。映画では、永瀬正敏が演じた、そして、1931年夏の甲子園で見事準優勝を遂げる。古川勝三著『台湾を愛した日本人II』(アトラス出版、2015年)によると、映画以上に近藤監督はスパルタだったそうだ。

近藤監督の言葉をいくつか挙げてみる。

「努力したからといって、報われるとは限らない。しかし、努力しないものが報われることはない」。

「球場は神聖な場所だ。入るまえに必ず一礼し、感謝することを忘れるな」。

これは野球を超えた普遍的な教訓だと思う。

昭和6年1月3日、京都の平安中学が台湾に遠征に来た際、嘉農と練習試合を行った。平安中学のメンバーには3人の台湾原住民(アミ族)がレギュラーとして参加していた。それを見た近藤監督は「あれを見ろ、野球こそ万民のスポーツだ。我々には大きな可能性がある」と語ったらしい。

映画で近藤監督は「漢人は打撃に長けている。蕃人(原住民)は足が速い。日本人は守備に長けている。こんな理想的なチームはない」と語っている。裏を返せば「日本人以外に野球などできない」という偏見を持った日本人に対する批判だ。

今、経営の分野でダイバーシティ(多様性)が叫ばれ、やれグローバル人材だ、異文化との相互理解だ、という言葉が躍っている。しかし、近藤監督は80年以上前の台湾で実践しているのだ。

どうも、少し上の日本人の中には、日本人以外のアジア人を見ると問答無用に蔑視し、彼らが能力を発揮すると妬む向きがあるようだ。しかし、文化もルーツも違うからこそ、そうした人達とチームを組み、彼らの能力を発揮させてチームを勝ちに導く。こうした志向が今の日本に求められていると思うのだが。

ちなみに呉明捷投手は甲子園決勝で負け投手となった2年後の昭和8年、早稲田大学に進学した。その後日本で働き、戦後も台湾には戻らず、72歳で生涯を終えるまで日本で暮らしている。なぜ台湾に帰らなかったのだろうか。帰っていたら真っ先に国民党に狙われると思ったからか。

次の日、改めて呉明捷投手の銅像を見る。野球の故郷、嘉義とある。

嘉義の人たちの野球に対する想いは、中山路を嘉義公園方向へ歩くだけですぐにわかる。

かつて嘉農があった地には、国立嘉義高等商業職業学校が建つが、その正門には堂々と「かつての嘉農の跡」と大きな横断幕が貼ってあった。

KANO歩道なるものもできていた。

このKANO歩道を通り、嘉義公園へと向かった。

それにしてもすごい。(続く)


最新の画像もっと見る

post a comment

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。