少子高齢化というものは現実の今!という時代の流れでそれは事実で真実の出来事なのだ。
それはさまざまな要因が考えられるが個人的に感じているものは結婚や恋愛などにいやそもそも
長生きに魅力を感じていないからだ。↓
これは実に不思議で奇妙な現象だと思うのだが人間の本来持っている”生きる”という本能
がかなりダメージであったり平和ボケなのか有難いことであるにも関わらず生きたい!
生き抜きたい!!という本能さえもうせるような社会のシステムや雰囲気などのムードという
空気が拡がっているのではなかろうか?などと思うのである。
衣食住というもの食欲・睡眠欲・性欲という3大欲求さえも衰えてきつつある個人的の感覚の
中で皆さんは何を希望に現代社会を生きているのだろうか?
などという気持ちを抱いたりするのだが幸せいっぱい元気満々という人は現代社会では珍しい
人だと考えるのだが個人的の感覚がおかしいのだろうか?
価値観やさまざまな環境に置かれている人々がいるが皆が皆笑顔で元気であるのはテレビやネットで
顔を出している人々がそう見えて顔の見えない人々はそんなに笑顔で元気満々というような
人は少ないのではなかろうか?
現代社会だけでは無いのだが接客業や営業など接客をする人達は頑張ってつくり笑顔をなんとかキープ
しながら笑顔が普通というようなそんなある意味異常的な感覚で時分自身を装いながら生活、働いているの
だ。
そういう性格だから、私たちは根が初めからいやずっと明るいからという人は少ないが確かに存在すると
思う。ただ人である限り喜怒哀楽という感情は消しようがなくDNAにきっちり組み込まれており、どんなに
訓練や特訓などメンタルトレーニングをしようがスポーツなどで根性を鍛えたりしようが人は所詮人なのだ。
人という生き物である限りそのような感情を耐えることは出来たと表面上では繕うことが出来ても精神的な
神的領域はズタズタだったりするものなのだ。
突き抜けた人々が素晴らしいというのはおかしく人それぞれ良い面、悪い面さまざまな顔を持ちながらある意
味ちょっとした多重人格のようなものを上手く使い分けながら生きているわけだ。
これが難しいもので10代はこれぐらいが普通20代ではこれぐらいは出来て当たり前30代というのはこう
いうもので40代はこういうレベルで50代はこういうものはクリアして行かなければ生きれないというよう
そういう単純な指標はあるようで現実世界では無いのだ。
60代はこういう風で70代はこういうものであらねばならず80代はこういう持場であれ。
90代はこのような境地に達しているものだ。
など100歳代は儲けものである意味付録のようなものなのか?
そんなわけがない。
人は健康で長生きする人が現代社会では存在するのは確かに存在しているようだがそれが素晴らしいかどうか
という話は違うのではないのでは?と思うのだが人は長生きという本能的もので生きたい!
と自然に感じるのが健全的な思考なのではなかろうかとそう思うのだ。
ただ現代社会ではゆとり世代であったり、さとり世代であったり、勝手に命名されそんな枠組みにされてくぐ
られて見てしまうのが現実なのだ。
あ~~ねああいう世代だから仕方ないよ・・・・などというもので片付けられたり、気を遣ったり遣われたり
するのだ。人を単純に枠で簡単にくぐれるものではないのは生きていればお分かりだと思う。
人はそういう洗脳というかテレビであったりネットの情報や信用に値する人のいうことを信じたりしてしまう
ものなのだ。とそう思うのだ。
当たり前だが全てを信用しているわけではないということははっきりしておかなければならない。
が何かを信じて何かを信用せず人は判断し続けながら生きていかねばならないのだ。
当たり前という常識が通用しなくなりつつある世界の中で残るのはまごころのような人間本来の
感情などではないだろうかそういうものが通用し続けていくものでごまかしようのないAIなどとは
異なる真似ができないものであるとそう思いたい。
子供の言う事や考えていることは結構正確であるというのはそういう邪魔な情報ある意味情報というものに
汚染されていないから当たり前といえば当たり前の理論であってなにも優れた才能をもっているわけでも
なんでもないのだ。
人はいや現代社会ではその少なからず多くの情報にさらされ生きていかねばならない。
その情報量というと20年前の世の中と考えてみればそれは比較に値できないほどの情報量であって
何かしろの情報に左右されながら生きているわけだ。
ただ単純に多くの情報を持てばいいのではなく、どれをどう生かすかという素材がたくさんあるだけの話
であって選択肢が多いというもので選択肢が多いから幸せで便利というわけではないのだ。
いまやあまりに選択肢が多すぎて選ぶだけで出会うだけで何千、何万という無数の数の中から選択の連続
を繰り返しながら限られた時間の中で出来る限り自分らしく幸せでありたいとそう思いながら生きている
のではないかとそう思う。
これが幸せの正解です!
というそういうものが世界には山ほどあると思うがこれが幸せです!!
とはっきりと断言出来る人が果たしてどれだけ存在しているかそれは知りようもないがこういう幸せはありま
すがどうですかというものは無数と存在していて選択や縁などでそれを使う機会もあればそういう機会は
一生ないかもしれないのだ。
ただマジョリティに乗っかっていれば安心していられないのだ。
それは単に前にならえ!!の号令にただ純粋に単純に何も考えずにそうしているだけの話であって
流行りなどというものに乗っかって安心している世界ではないのだ。
教はこれくらいにしておこう。
それはさまざまな要因が考えられるが個人的に感じているものは結婚や恋愛などにいやそもそも
長生きに魅力を感じていないからだ。↓
これは実に不思議で奇妙な現象だと思うのだが人間の本来持っている”生きる”という本能
がかなりダメージであったり平和ボケなのか有難いことであるにも関わらず生きたい!
生き抜きたい!!という本能さえもうせるような社会のシステムや雰囲気などのムードという
空気が拡がっているのではなかろうか?などと思うのである。
衣食住というもの食欲・睡眠欲・性欲という3大欲求さえも衰えてきつつある個人的の感覚の
中で皆さんは何を希望に現代社会を生きているのだろうか?
などという気持ちを抱いたりするのだが幸せいっぱい元気満々という人は現代社会では珍しい
人だと考えるのだが個人的の感覚がおかしいのだろうか?
価値観やさまざまな環境に置かれている人々がいるが皆が皆笑顔で元気であるのはテレビやネットで
顔を出している人々がそう見えて顔の見えない人々はそんなに笑顔で元気満々というような
人は少ないのではなかろうか?
現代社会だけでは無いのだが接客業や営業など接客をする人達は頑張ってつくり笑顔をなんとかキープ
しながら笑顔が普通というようなそんなある意味異常的な感覚で時分自身を装いながら生活、働いているの
だ。
そういう性格だから、私たちは根が初めからいやずっと明るいからという人は少ないが確かに存在すると
思う。ただ人である限り喜怒哀楽という感情は消しようがなくDNAにきっちり組み込まれており、どんなに
訓練や特訓などメンタルトレーニングをしようがスポーツなどで根性を鍛えたりしようが人は所詮人なのだ。
人という生き物である限りそのような感情を耐えることは出来たと表面上では繕うことが出来ても精神的な
神的領域はズタズタだったりするものなのだ。
突き抜けた人々が素晴らしいというのはおかしく人それぞれ良い面、悪い面さまざまな顔を持ちながらある意
味ちょっとした多重人格のようなものを上手く使い分けながら生きているわけだ。
これが難しいもので10代はこれぐらいが普通20代ではこれぐらいは出来て当たり前30代というのはこう
いうもので40代はこういうレベルで50代はこういうものはクリアして行かなければ生きれないというよう
そういう単純な指標はあるようで現実世界では無いのだ。
60代はこういう風で70代はこういうものであらねばならず80代はこういう持場であれ。
90代はこのような境地に達しているものだ。
など100歳代は儲けものである意味付録のようなものなのか?
そんなわけがない。
人は健康で長生きする人が現代社会では存在するのは確かに存在しているようだがそれが素晴らしいかどうか
という話は違うのではないのでは?と思うのだが人は長生きという本能的もので生きたい!
と自然に感じるのが健全的な思考なのではなかろうかとそう思うのだ。
ただ現代社会ではゆとり世代であったり、さとり世代であったり、勝手に命名されそんな枠組みにされてくぐ
られて見てしまうのが現実なのだ。
あ~~ねああいう世代だから仕方ないよ・・・・などというもので片付けられたり、気を遣ったり遣われたり
するのだ。人を単純に枠で簡単にくぐれるものではないのは生きていればお分かりだと思う。
人はそういう洗脳というかテレビであったりネットの情報や信用に値する人のいうことを信じたりしてしまう
ものなのだ。とそう思うのだ。
当たり前だが全てを信用しているわけではないということははっきりしておかなければならない。
が何かを信じて何かを信用せず人は判断し続けながら生きていかねばならないのだ。
当たり前という常識が通用しなくなりつつある世界の中で残るのはまごころのような人間本来の
感情などではないだろうかそういうものが通用し続けていくものでごまかしようのないAIなどとは
異なる真似ができないものであるとそう思いたい。
子供の言う事や考えていることは結構正確であるというのはそういう邪魔な情報ある意味情報というものに
汚染されていないから当たり前といえば当たり前の理論であってなにも優れた才能をもっているわけでも
なんでもないのだ。
人はいや現代社会ではその少なからず多くの情報にさらされ生きていかねばならない。
その情報量というと20年前の世の中と考えてみればそれは比較に値できないほどの情報量であって
何かしろの情報に左右されながら生きているわけだ。
ただ単純に多くの情報を持てばいいのではなく、どれをどう生かすかという素材がたくさんあるだけの話
であって選択肢が多いというもので選択肢が多いから幸せで便利というわけではないのだ。
いまやあまりに選択肢が多すぎて選ぶだけで出会うだけで何千、何万という無数の数の中から選択の連続
を繰り返しながら限られた時間の中で出来る限り自分らしく幸せでありたいとそう思いながら生きている
のではないかとそう思う。
これが幸せの正解です!
というそういうものが世界には山ほどあると思うがこれが幸せです!!
とはっきりと断言出来る人が果たしてどれだけ存在しているかそれは知りようもないがこういう幸せはありま
すがどうですかというものは無数と存在していて選択や縁などでそれを使う機会もあればそういう機会は
一生ないかもしれないのだ。
ただマジョリティに乗っかっていれば安心していられないのだ。
それは単に前にならえ!!の号令にただ純粋に単純に何も考えずにそうしているだけの話であって
流行りなどというものに乗っかって安心している世界ではないのだ。
教はこれくらいにしておこう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます