悲しみを伝えるとき、「私は悲しい」と書くのではなく、状況をただ淡々と描写する
私たちは何か感情を揺さぶられる出来事に遭遇したとき、「悲しい」「かわいそう」「気の毒だ」といった感覚的な言葉で表現します。
例えば、今日のような寒い日、都心の地下通路に何人もの人が大きな荷物を抱えて座り込んでいるのを見ると、心を揺さぶられます。
足を投げ出して座っているのを警備員らしき人に注意され、立ち上がる人もいます。座り込んではいけない決まりになっているからです。
でも、立ち上がっても立ち去るわけではなく、ただその場に立ちつくすだけです。行くところがないからそこにいるので。
外は氷雨ですから、濡れてしまうと、夜の寒さは格段でしょう。警備員に注意されても、外に行くわけにはいきません。命に関わるからです。
尋ねなくても、彼らがホームレスであることは推察できます。
東京新聞の「本音のコラム」という記事に、そんなホームレスのことが書かれていました。
書き手は看護師の宮子(みやこ)あずささん、導入は衝撃的事実です。
先日、訪問看護で関わっていた三十代の男性が亡くなった。
路上で倒れていたところを、一度は近くの病院に運ばれ、診察を受け帰宅。
その後、再度路上で倒れ、そのまま亡くなったと聞く。
生活保護受給者ばかりが暮らす安いアパートでの一人暮らし。
常に妄想があり、訪問の度に怖いことが起こらないようおまじないをかけて帰るのがお約束だった。
幼いころに母親が自殺し、父親も育てる力かなかったようだ。
(2012年2月6日付東京新聞)
三十代という若さで路上で亡くなった男性……、
幼い頃に母親が自殺……、
三十代で生活保護を受給……、
気の毒であり、かわいそうであり、悲しい人生です。私たちの心には自然にそんな感情が湧きあがってきます。
ところが、記事の中には、そうした感情表現はまったく使用されていません。
ただ、事実が淡々と書かれているだけです。
男性の死を知ったときの描写にも、感情表現はありません。
こう書かれています。
彼の死を聞いたとき、私は彼が一度目に運ばれた時の状況が気になった。
彼が体調を適切に伝えられたとは思えない。
さらに彼は見上げるほどの巨漢。
常に独語がひどく、たいていの人は近寄るのに躊躇しただろう。
(同)
クールとも言える書き方ですが、この巨漢で独語がひどい男性を訪問看護で支えていたわけですから、その死が悲しくないはずはない。
外見や行動ゆえに命を落としてしまった男性への深い思いが、この抑えた書き方ににじみ出ています。
最後は、こう締められています。
しみじみ病むことは理不尽である。
病気になったことに彼は全く責任がない。なのに結果だけはついて回る。
せめて彼が、苦労のない世界に行ったと信じることにした。(同)
「信じることにした」とあります。
そうしないと耐えられないということでしょう。
「私は悲しい」と書かなくても、書き手の悲しみが読み手に伝わります。
書かないことによって、より深く胸に響いてきます。
レポートでも感情表現はできるだけ抑えるようにと、常々言っているのは、書かないことによって伝わることがあるからです。
特に感情表現は、書くことによって読み手に伝わるのは、書き手はどうも悲しんでいるらしいということだけです。
自分の悲しみを読み手に伝えたいなら、自分の心に悲しみを起こさせた状況を描写することです。
この記事には感情表現は全然使用されていません。
でも、私たちはこの記事を読むことで、都会の地下通路で束の間の暖を取っている人々のことにまで思いを馳せることになるのです。
本当に人生は理不尽です。
――2012年2月6日
©NISHIDA Midori
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知玄舎ホームページ
私たちは何か感情を揺さぶられる出来事に遭遇したとき、「悲しい」「かわいそう」「気の毒だ」といった感覚的な言葉で表現します。
例えば、今日のような寒い日、都心の地下通路に何人もの人が大きな荷物を抱えて座り込んでいるのを見ると、心を揺さぶられます。
足を投げ出して座っているのを警備員らしき人に注意され、立ち上がる人もいます。座り込んではいけない決まりになっているからです。
でも、立ち上がっても立ち去るわけではなく、ただその場に立ちつくすだけです。行くところがないからそこにいるので。
外は氷雨ですから、濡れてしまうと、夜の寒さは格段でしょう。警備員に注意されても、外に行くわけにはいきません。命に関わるからです。
尋ねなくても、彼らがホームレスであることは推察できます。
東京新聞の「本音のコラム」という記事に、そんなホームレスのことが書かれていました。
書き手は看護師の宮子(みやこ)あずささん、導入は衝撃的事実です。
先日、訪問看護で関わっていた三十代の男性が亡くなった。
路上で倒れていたところを、一度は近くの病院に運ばれ、診察を受け帰宅。
その後、再度路上で倒れ、そのまま亡くなったと聞く。
生活保護受給者ばかりが暮らす安いアパートでの一人暮らし。
常に妄想があり、訪問の度に怖いことが起こらないようおまじないをかけて帰るのがお約束だった。
幼いころに母親が自殺し、父親も育てる力かなかったようだ。
(2012年2月6日付東京新聞)
三十代という若さで路上で亡くなった男性……、
幼い頃に母親が自殺……、
三十代で生活保護を受給……、
気の毒であり、かわいそうであり、悲しい人生です。私たちの心には自然にそんな感情が湧きあがってきます。
ところが、記事の中には、そうした感情表現はまったく使用されていません。
ただ、事実が淡々と書かれているだけです。
男性の死を知ったときの描写にも、感情表現はありません。
こう書かれています。
彼の死を聞いたとき、私は彼が一度目に運ばれた時の状況が気になった。
彼が体調を適切に伝えられたとは思えない。
さらに彼は見上げるほどの巨漢。
常に独語がひどく、たいていの人は近寄るのに躊躇しただろう。
(同)
クールとも言える書き方ですが、この巨漢で独語がひどい男性を訪問看護で支えていたわけですから、その死が悲しくないはずはない。
外見や行動ゆえに命を落としてしまった男性への深い思いが、この抑えた書き方ににじみ出ています。
最後は、こう締められています。
しみじみ病むことは理不尽である。
病気になったことに彼は全く責任がない。なのに結果だけはついて回る。
せめて彼が、苦労のない世界に行ったと信じることにした。(同)
「信じることにした」とあります。
そうしないと耐えられないということでしょう。
「私は悲しい」と書かなくても、書き手の悲しみが読み手に伝わります。
書かないことによって、より深く胸に響いてきます。
レポートでも感情表現はできるだけ抑えるようにと、常々言っているのは、書かないことによって伝わることがあるからです。
特に感情表現は、書くことによって読み手に伝わるのは、書き手はどうも悲しんでいるらしいということだけです。
自分の悲しみを読み手に伝えたいなら、自分の心に悲しみを起こさせた状況を描写することです。
この記事には感情表現は全然使用されていません。
でも、私たちはこの記事を読むことで、都会の地下通路で束の間の暖を取っている人々のことにまで思いを馳せることになるのです。
本当に人生は理不尽です。
――2012年2月6日
©NISHIDA Midori
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