原発被災地フクシマをボランティアガイドします。 (主に相馬から富岡間をご案内します)

原発の爆発のため周囲の環境はどう変わったか、是非、現地に来てご自分の目で確かめてください。そのお手伝いをします。

広大な仮置き場が次々に造成されている。  相馬市 NS

2016-04-24 | 日記

今、被災地で目につくのは、広大な仮置き場の造成です。一週間に一度程度、現地ガイドで強制避難区域に入りますが、行くたびに仮置き場が拡大しているのに驚かされます。仮置き場とは、「除染」で出た放射性廃棄物を一時的に保管するための施設です。遅くても2017年4月には帰還困難区域を除いて住民を帰させるための「除染」を急ピッチで進めているため、大量の放射性廃棄物がでます。そのため広大な保管場所が必要になります。
 でも、仮置き場に置いた後はどこに持っていくのでしょう。当初の計画では中間貯蔵施設を建設し、そこに搬入するはずでしたが、16平方キロの敷地の地権者2千数百人のうち、現在契約が成立したのは60人程度といいます。
 このままだと、解除後の帰還者は、仮置き場に五段重ねに野積みにされた廃棄物を入れたフレコンバック(黒い袋)が目の前にあるところに帰ることなります。フレコンバックからは放射線が出ています。ところによっては、「しゃへい」と書かれた、放射線の遮蔽を目的にしたフレコンバックを外側に置いた仮置き場もあります。
 政府は住民がそんなところに安心して帰還すると考えるのでしょうか。
今年9月に解除になった楢葉町は帰還した住民は数%だそうです。残りの90数%の住民は強制的に「自主避難民」になったということです。いずれ精神的賠償金も打ち切ります。
政府はそれでいいのかもしれません。原発事故は終わったとの印象がつくれますから。


国道六号線聖火リレー  福島市 シャオリン

2016-04-14 | 日記

 4月5日福島民友新聞は、双葉高校と双葉翔陽高校の3年生18人が、安倍首相に対して、2020年東京五輪・パラリンピックの聖火リレーを福島県内国道6号で実施してほしいと要望したことを伝えている。

国道6号は2014年9月に全線開通した。一部には年間50μ㏜を超える帰宅困難区域がある。通行は自動車のみで、車から降りることも、国道から他の道路に入ることも、窓を開けることもできない。

2015年夏、双葉町の看板「原子力明るい未来のエネルギー」を車から降りて眺めていたら、すぐさま警察が来て注意された。

安倍首相は、「世界に向かって復興を示すことができる。実現できるように頑張りたい」「頑張ってサテライト校で学んできた皆さんは胸を張って、締めくくりの卒業生になってほしい」と高校生に述べたという。

ずいぶんな歓待だ。ひょっとすると、本人たちが要望したように、高校生の聖火ランナーが実現するかもしれない。

6号線でボランティアの植樹や清掃には賛否両論あるが、私が言いたいのは、国道6号線の聖火ランナーの「是非」ではない。

もし高校生が、「サテライト校を継続して」「除染が進んでいない。もっと早く、広く実施して」と、政権に批判的な要望をしても、安倍首相は高校生に会っただろうか?

「政治的中立性」を強調する政権なら、どんな意見にも耳を傾けるべきだと思う。

 

ところで、サテライト校は2017年3月に「休校」になる。「閉校」ではない。

「締めくくりになる」という安倍首相を始め、サテライト校が「再開」されると思っている人はいるのだろうか?

*注 サテライト校とは従来の高校が原発災害のため使用できなくなっているときに、県教育委員会が一定数以上の生徒が避難している地域に、他の高校の校舎を借用したり、プレハブ校舎を建てたりして、生徒の教育権を保障するもの。しかし、県教育委員会は一部を除いてサテライト校の募集を停止し、現在在籍しているのは3年生のみ。ただし、県立富岡高校の国際スポーツ学科は全国の才能あるこどもを中学から集めており、サッカーは静岡県清水に、(最近、話題の)バドミントンは福島県猪苗代に開校し続けている。そして、新しくできた広野町にある双葉未来学園高校に引き継がれている。


臼と杵で餅つき  福島市 マタ キナコ

2016-03-31 | 日記

保育園で、臼と杵で餅つきをしました。ふかした餅米も味見しました。はじめは大人がついて、途中から子どもたちが千本杵でつきました。「よーいしょ よいしょ」のかけ声が響きました。つきたての餅はおいしくて、子どもたちはお腹いっぱい食べました。

5歳児が餅ちぎりをしました。これがなかなかむずかしい。つきたての餅はよくのびて、なかなかちぎれません。何回かやっているうちに要領を覚えた子どもたちでした。きな粉餅にして近所に配りに行きました。仕事で留守の家が多いのですが、折よく差し上げることのできた家の方には、とても喜んでいただきました。

震災後のお正月、子どもたちと餅配りに出かけたことを思い出しました。ちょっとした坂でも、フーフーしながら歩いていました。そのころは、まだ散歩にも行けず、体力の衰えがけっこうありました。今、ようやく道路の除染が終了しました。しかし、散歩先で遊べる環境は、いまだに限られています。

(この文章はデモクラTVに投稿したものです)              

 


人生の最後を避難先で終える 南相馬市 OA

2016-03-20 | 画像

原発20キロ圏内の視察案内をしていますが、2月に入って、多くのマスコミの取材が予定されています。朝日新聞など国内の新聞社・週刊誌、NHK、外国のマスコミ―フランス、香港、ブラジル、アメリカ・・・などなど。これは、事故後5年という区切りのいい年に当たっているからなのでしょうか。5年というのは、区切りがいい年であること、いろいろな支援が区切られる年でもあります。果たして、復興が進んでいるかは、目で見てもらえば一番わかるのですが・・・・。

ところで、私は事故後は地方紙をとっています。最近お悔やみの欄をよく見ます。ここ相双地方では、南相馬市・浪江町・大熊町・双葉町・富岡町と、未だに住民が帰れない所があります。かつてそこに住んでいた方が亡くなり、その葬儀が行われるのは、福島市、郡山市、いわき市・・・避難先の葬儀場です。故郷を追われ、人生の最後を避難先で終えるのです。それまで、のんびりした田舎で暮らしていたたくさんのお年寄りが、ふる里で最後を送れない、これが福島の復興の現実です。


被災地フクシマ短信 避難先の学校で頑張りすぎた子供たち  相馬市 KY

2016-03-10 | 日記

 子ども達が、たいへんなことになっているという話が、教育現場から最近では悲痛な叫びとして聞かれるようになっている。

 避難先でうまく適応できなくて、やむなく地元に戻ってきた子ども達の話は、よく耳にする。やっぱり地元や以前からの友達の中で生活するのは、少し気持ちが落ち着くのではないかという話である。

 もちろん、転々とした避難の中で、子ども心にがまんを強いられることが、多かったことなどから、子ども達自身の育ちの中にも、親子関係の中にもやり残しの宿題をいっぱいかかえているので、地元に戻ってきたといっても課題は山積みだ。

 さて、最近聞いた話では、避難先の学校ではうまく適応し何事にも熱心に取り組み、何の問題も見られなかったーいわゆる良い子と言われる子ども達の中に、地元に戻ってきてからいろいろな不適応症状を現わしているということである。

あんなに良い子だったのに、学校に行きたがらなくなったり、教室に入れなくなったり、友達関係でトラブルがひんぱんになったりなど……。

 このような症状が呈するのは、子ども達が避難先でがんばりすぎていたのだから、当たり前の姿なのだと考えたらどうだろうか。やっと自分自身が出せるようになってきたのだから、どんと受け止めてやりたい。

 子ども達の状況は、今後がもっと深刻になってくるだろう。学校では、そのような状況を受け止めてやれる環境や人員配置を求めている。今後、教員の人数を減らす動きもあるが、それはあり得ないことだ。

 

(被災地フクシマ短信はネットテレビ局、デモクラテレビのデモクラジオに投稿した原稿を転載しています。)