ニッチなわーるど考察記

周囲から特殊と言われる自分が、自分の思考などについて、(できるかぎり)客観的に考察することを目的とする。つもり。

自分は何になったのか

2018-03-06 23:14:20 | 日記
今日、身内が危なくなったらしい。助かるかわからないらしい。
これを受けた。私の心境を書こう。残そう。
誰にも話せないから。

報を聞いても、特に驚かなかった。
身内は歳だし、確かについ最近までピンピンしていたが、明日何があってもおかしくないとは考えていた。
人間、いつ死ぬのかわからないものだ。
生きてるものは、突然死ぬのだ。
だから、私は別れるときに心の中で最後の挨拶と思いながらしてる。
だから、きっと、驚かなかった。
むしろ葬式やそういうスケジュールがこのあとある場合をいろいろ想定して、面倒とおもったほどに、人でなしな冷静だった。

と、言っても、別に死んでほしいわけではない。
長く生きてほしい。また会いたい。
でも、無事に生き残っても障害が残った場合、歳だからボケてしまった場合。
どうなのだろうか。本人にとっての幸いとは。
できれば私以外の身内のために助かってほしい。彼らは心の準備ができていないのだ。

私も昔からこんな考えではなかった……と、思う。
親の死を想像して泣いたこともある。
でも、そういえば曾祖母が死んだ小2のときは、めんどくさいと思って、それを口に出してしまって、母に大分しかられたのだ。
でも、それは私が幼く、かつ長くボケてまともに会話がなかった相手の死だったからだろう。
次の葬儀は中学生だったが、既に私の世界の形成が始まっていたので、今と同じ反応だった。

今危ない身内は今まで私が経験したものの中で、一番近い相手だ。
こんなに悶々と、これからどうしようとスケジュールに悩み、自分の心が他者にばれないようにどうすればいいかと考えてしまっているが、もし本当に彼が亡くなった場合、私は素直に悲しめるだろうか。

悲しみたい。人間らしく。
だが、その感情を私は受け止められない。その辛さに耐えられない。
弱く脆い、自分の器では。
だから私は死に対して、一切思うことを捨てたのだ。
すべての死が悲しかった私は、その辛さから逃げるために、死後を捨てた。
死後、人の意識があることを否定した。
もう悲しまない、辛くもない、その人について泣くことは、あくまで自分の感情であり、その感情は自分のことを思って泣くだけだ。
それを自己中心的なヒロイズム感情だと否定した。
だから私は悲しめない。素直に。
本当は抑圧しているだけだとしても、私にはもう分からない。
悟りでもなんでもない、逃避は自分の弱さの露呈で恥ずかしいなぁ。

ここまでつらつら語ったが、昨今の日本の医療は進んでいるから、どうかあの人には生き残ってほしい。
祈ることも捨てた私には空々しい希望しか語れないが、どうかどうか。
この私の気持ちは本当で、まだ捨ててないものだ。

世界は違うから、大変だよね。

私の世界は私の死で消滅するのにな。
世界がそんなに単純にできてなくて、辛い。

それでは皆さま、あなたが続くまで、世界を続けてください。
この願いはきっと本物。





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