福石みんのニュース備忘録

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真珠湾攻撃のパイロット、前田武さん(大野市出身) 終戦直後「仲間は何のために死んだのか」

2011年12月11日 10時00分00秒 | 社会・文化
中日新聞:70年前、真珠湾攻撃参加の前田さん(大野市出身) 魚雷放った瞬間 「大きな戦争に」:福井発:日刊県民福井から(CHUNICHI Web)
2011年12月8日

終戦直後戦いの末路に涙
 日本のハワイ・真珠湾攻撃で太平洋戦争が開戦してから、八日で七十年。艦上攻撃機に乗り攻撃に参加した大野市出身の前田武さん(90)=東京都世田谷区=は、米戦艦に魚雷を撃ち込んだ瞬間をいまだ生々しく記憶する。米国相手に「とんでもなく大きな戦争が始まってしまう」と心中で悟りながら、命令を遂行した。生き残る一人が運命の日を振り返った。 (栗田晃)

 朝日を背景に、真珠湾にひしめく米海軍の船影が見えた。飛行場から上がった黒煙が、攻撃開始を告げた。先陣を切る雷撃隊が船の手前で魚雷を落とし、湾内にいくつも水柱が上がった。

 前田さんが乗る空母「加賀」の97式艦上攻撃機(三人乗り)も、海面すれすれを飛んだ。目標は全長百九十メートルの戦艦「ウエストバージニア」。水深が平均一二メートルと浅い真珠湾。深く潜らぬよう改良された八百キロの魚雷を訓練通り、低空から落とす。命中を確認した瞬間、攻撃が集中した巨艦が傾いて沈みゆく。緊迫していた機内に叫び声が上がった。

 前田さんは十七歳で海軍の飛行予科練習生となった。一年半後、鈴鹿航空隊(三重県鈴鹿市)で航路分析を担当する偵察員の養成を受けた。初めて練習機に乗り「あこがれだったので、わくわくした」。教官のしごきが減り、一人前に近づいていると感じた。

 真珠湾攻撃の三カ月前、加賀に転勤となった。訓練の舞台は鹿児島・錦江湾。真珠湾に地形が似ているために選ばれたが、当時は知るよしもない。命令に従い、昼夜を問わず、水面から十メートルの低空から魚雷を落とす演習を繰り返した。

 決死の任務を強いられる搭乗員さえ欺くよう、作戦は進行した。機体は耐寒仕様になった。開戦間近の空気を感じつつ「寒い北方へ行くもんだと思った」と前田さんは振り返る。

 十一月二十四日、択捉島の単冠(ひとかっぷ)湾に集まった空母六隻。旗艦「赤城」の作戦室に集められ、初めて真珠湾の模型が示された。

 十二月八日未明。新しい下着に取り換えた。朝食には赤飯と尾頭つきの魚が出た。「戻ることはない」と覚悟して、一次攻撃隊として飛び立った。

 魚雷の命中後、無事に母艦に戻ることはできた。だが高揚感は長くは続かなかった。「資源も、人口も違う。アメリカと戦争しても二年ともたないのではないか」。仲間同士でも口には出せないが、漠然とした不安があった。

 一九四二年六月のミッドウェー海戦で日本は空母四隻を失う大敗を喫する。前田さんは沈没する加賀から海中に逃れ、助け出された。左ももを爆弾の破片が貫通し、麻酔なしで二十八針縫った。

 終戦直後。最後の任務となる爆撃機の輸送で、上空から東京や横浜の焼け野原を見た。開戦の場に居合わせた戦いの末路に「日本を守ろうとした仲間は、何のために死んだのか」と涙が出た。いまも傷痕が痛むたび、平和の尊さをかみしめる。

  真珠湾攻撃  1941(昭和16)年夏、日本の中国、南部仏印進駐をめぐり、米英との間で緊張が高まる中、海軍連合艦隊の山本五十六司令長官は、米艦隊の拠点である真珠湾の空襲計画を進めた。11月26日、機動部隊(空母6隻など計20隻)が択捉島・単冠湾から出撃。日米交渉が物別れになり、12月2日、大本営から開戦日を伝える「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の暗号電文が送られた。8日午前1時半(現地時間7日午前6時)、ハワイ北沖の空母6隻から1次攻撃隊183機が出撃。2次攻撃隊と合わせ、計350機に襲われた米側は戦艦8隻が沈没または大破、航空機188機が全壊し、2403人が死亡。日本側は航空機29機、特殊潜航艇5隻を失い、64人が戦死した。日本から米国への交渉打ち切りの最後通告が遅れ、攻撃開始後になったことから「だまし討ち」と米国内の反日感情が高まり、3年8カ月に及ぶ太平洋戦争に突入した。