どうも、「風の谷のナウシカ」を録画し逃した筑前です。
なんだよなんだよ、ぽめーらナウシカやるんだったらもっと前から言えっつうの。
聖人社会人の僕にとっては、テレビの情報なんて宮根のクソが垂れ流すどーでもいい与太話くらいに知る由もないわけよ。
なのでおまえらは全力で面白そうな情報をブログでもツイッターでもいいから随時ぶちまけるべき。
僕がその情報を拾えるかどうかは別にして、拡散希望(キリッ)なんつって自己満足の馴れ合いかましてるくらいならちったあ社会の為に何らかの情報流して肥やしになるべきなのは確定的に明らか。
まあ、そんなこんなで腹いせにこの前録画した「紅の豚」観ておるんですが、何だかんだで色々想像の余地っつうか何か自分の中で考えるものが詰め込まれてるんだよな。
もちろんジーナとポルコっていうのが趣旨なんだろうけど、一歩後ろ見てみると、そこだけじゃないんだよな。
「どうでしょう、愛国債権などをお求めになって民族に貢献なされては?」とかのくだりひとつでグッときちゃう。
「国家とか民族とか、下らないスポンサーを背負って飛ぶしかないんだよ」ってフェラーリンの言葉や「ボッてるんじゃねえ、持ちつ持たれつなんだよ」なんてポルコの台詞を聞くと、それこそ色々な大人の事情が見えてきそうだ。
ポルコは分かった上でのあの立ち位置なんだよな。
ただ男女のかかわりだけの話じゃないわけよ。
国家やそれを背負って共に戦った戦友たちってのを身を以て体験してしまった男。あのフィオに話したマルコだったころの話。
それを踏まえて、あの経験を乗り越えた上の立ち位置だからこそ「カッコイイ!」という形容が成り立つわけなんだよ。
フィオが寝る前に見たあの人間のポルコの様相、ああいう表情を出せる男だからこそ、「カッコイイとはこういうこと」ってのが成り立つんだよ。
かといって親方(ドゥーチェ)ムッソリーニ時代のマフィア押さえつけの歴史とか、ナポリのごみ問題とかみても、なんか複雑な思いが去来したりする。
何かこの辺を想像しだすと、「機動警察パトレイバー 2 the Movie」の下記みたいな台詞を思い出すんだよな。
荒川「なあ後藤さん、警察官として自衛官として、俺たちが守ろうとしているものってのは一体何なんだろうな。前の戦争から半世紀、俺もあんたも生まれてこのかた戦争なんてものは経験せずに生きてきた。平和、俺たちが守るべき平和。だがこの国の、この街の平和とはいったい何だ?かつての総力戦とその敗北、米軍の占領政策、ついこの間まで続いていた核抑止による冷戦とその代理戦争。そして今も世界の大半で繰り返されている内戦、民族衝突、武力紛争。そういった無数の戦争によって合成され支えられてきた血まみれの経済的繁栄。それが俺たちの平和の中身だ。戦争への恐怖に基づくなりふりかまわぬ平和。その対価をよその国の戦争で支払い、そのことから目をそらし続ける不正義の平和」
後藤「そんなキナ臭い平和でも、それを守るのが俺たちの仕事さ。不正義の平和だろうと、正義の戦争よりはよほどマシだ」
荒川「あんたが正義の戦争を嫌うのは良く判るよ。かつてそれを口にした連中にロクな奴はいなかったし、その口車に乗って酷い目にあった人間のリストで歴史の図書館は一杯だからな。あんたは知っている筈だ。正義の戦争と不正義の平和の差は、そう明瞭なものじゃない。平和という言葉が嘘つきたちの正義になってから、俺たちは俺たちの平和を信じられずにいるんだ。戦争が平和を生むように、平和もまた戦争を生む。単に戦争でないというだけの消極的な平和は、いずれ実体の戦争によって埋め合わされる。そう思ったことはないか?その成果だけはしっかり受け取っていながらモニターの向こうに戦争を押し込め、ここが戦線の後方であることを忘れる、いや忘れた振りをし続ける。そんな欺瞞を続けていれば、いずれは大きな罰が下される、と」
後藤「罰? 誰が下すんだ、神様か」
荒川「この街では誰もが神様みたいなもんさ。いながらにして、その目で見その手で触れることのできぬあらゆる現実を知る。なにひとつしない神様だ。神がやらなきゃ人がやる」
後藤「だが柘植ひとりで、いや彼が一定の部隊を組織していたにせよ、それでいったい何を始めるつもりなんだ?戦争でも始めようってのか?」
荒川「戦争だって?そんなものはとっくに始まっているさ。問題なのはそれにいかにケリをつけるか、それだけだ」
豚では、戦争や平和の維持のための大人の事情ってのを、矜持や女性を想う男性の見栄みたいなものにして、カルチョ風味にカラッと流してた印象を受けた。
だけど、それでも後ろに潜む大きな権力的な闇や、ほくそ笑む愛国心を利用した経済的な心情、そういうものが見え隠れしてくる。
「風の谷のナウシカ」「もののけ姫」にもそういう側面があったりするんだよな。
ナウシカの原作とか、もののけの天長さまのくだりとかさ。
守るってなんだ?国家のために戦うってなんだ?公共心とはなんだ?集団のために貢献するってなんなんだ?
その為に散って行った人、もしくはそんな想い。
一方で、そんなん関係なく、自分のやりたいことが沢山残ってたであろうに、半ばで散ってしまったかもしれない故人の気持ち。
そんな想いが集団の目的意識っつうか心理と重なっては霧散していくわけだよ。
そういう意味ではパトレイバーや豚ってのは良作だと思うわけです。
傍から見たら痛いし「何言ってんの掴み所ねえ話だなオイ」って感じなのかもしんないけどさ。
確かに昔は豚に関しては「何言ってんだこいつw」って思った時もあった。
でもな、今こうして酒片手にしみじみ見てると、そういうやりきれない思いだったり、俺はこの先どう生きるべきかってのをモヤモヤ考えさせられる作品だったりするんである。
まあいいやそんな感じだ。
なんだよなんだよ、ぽめーらナウシカやるんだったらもっと前から言えっつうの。
聖人社会人の僕にとっては、テレビの情報なんて宮根のクソが垂れ流すどーでもいい与太話くらいに知る由もないわけよ。
なのでおまえらは全力で面白そうな情報をブログでもツイッターでもいいから随時ぶちまけるべき。
僕がその情報を拾えるかどうかは別にして、拡散希望(キリッ)なんつって自己満足の馴れ合いかましてるくらいならちったあ社会の為に何らかの情報流して肥やしになるべきなのは確定的に明らか。
まあ、そんなこんなで腹いせにこの前録画した「紅の豚」観ておるんですが、何だかんだで色々想像の余地っつうか何か自分の中で考えるものが詰め込まれてるんだよな。
もちろんジーナとポルコっていうのが趣旨なんだろうけど、一歩後ろ見てみると、そこだけじゃないんだよな。
「どうでしょう、愛国債権などをお求めになって民族に貢献なされては?」とかのくだりひとつでグッときちゃう。
「国家とか民族とか、下らないスポンサーを背負って飛ぶしかないんだよ」ってフェラーリンの言葉や「ボッてるんじゃねえ、持ちつ持たれつなんだよ」なんてポルコの台詞を聞くと、それこそ色々な大人の事情が見えてきそうだ。
ポルコは分かった上でのあの立ち位置なんだよな。
ただ男女のかかわりだけの話じゃないわけよ。
国家やそれを背負って共に戦った戦友たちってのを身を以て体験してしまった男。あのフィオに話したマルコだったころの話。
それを踏まえて、あの経験を乗り越えた上の立ち位置だからこそ「カッコイイ!」という形容が成り立つわけなんだよ。
フィオが寝る前に見たあの人間のポルコの様相、ああいう表情を出せる男だからこそ、「カッコイイとはこういうこと」ってのが成り立つんだよ。
かといって親方(ドゥーチェ)ムッソリーニ時代のマフィア押さえつけの歴史とか、ナポリのごみ問題とかみても、なんか複雑な思いが去来したりする。
何かこの辺を想像しだすと、「機動警察パトレイバー 2 the Movie」の下記みたいな台詞を思い出すんだよな。
荒川「なあ後藤さん、警察官として自衛官として、俺たちが守ろうとしているものってのは一体何なんだろうな。前の戦争から半世紀、俺もあんたも生まれてこのかた戦争なんてものは経験せずに生きてきた。平和、俺たちが守るべき平和。だがこの国の、この街の平和とはいったい何だ?かつての総力戦とその敗北、米軍の占領政策、ついこの間まで続いていた核抑止による冷戦とその代理戦争。そして今も世界の大半で繰り返されている内戦、民族衝突、武力紛争。そういった無数の戦争によって合成され支えられてきた血まみれの経済的繁栄。それが俺たちの平和の中身だ。戦争への恐怖に基づくなりふりかまわぬ平和。その対価をよその国の戦争で支払い、そのことから目をそらし続ける不正義の平和」
後藤「そんなキナ臭い平和でも、それを守るのが俺たちの仕事さ。不正義の平和だろうと、正義の戦争よりはよほどマシだ」
荒川「あんたが正義の戦争を嫌うのは良く判るよ。かつてそれを口にした連中にロクな奴はいなかったし、その口車に乗って酷い目にあった人間のリストで歴史の図書館は一杯だからな。あんたは知っている筈だ。正義の戦争と不正義の平和の差は、そう明瞭なものじゃない。平和という言葉が嘘つきたちの正義になってから、俺たちは俺たちの平和を信じられずにいるんだ。戦争が平和を生むように、平和もまた戦争を生む。単に戦争でないというだけの消極的な平和は、いずれ実体の戦争によって埋め合わされる。そう思ったことはないか?その成果だけはしっかり受け取っていながらモニターの向こうに戦争を押し込め、ここが戦線の後方であることを忘れる、いや忘れた振りをし続ける。そんな欺瞞を続けていれば、いずれは大きな罰が下される、と」
後藤「罰? 誰が下すんだ、神様か」
荒川「この街では誰もが神様みたいなもんさ。いながらにして、その目で見その手で触れることのできぬあらゆる現実を知る。なにひとつしない神様だ。神がやらなきゃ人がやる」
後藤「だが柘植ひとりで、いや彼が一定の部隊を組織していたにせよ、それでいったい何を始めるつもりなんだ?戦争でも始めようってのか?」
荒川「戦争だって?そんなものはとっくに始まっているさ。問題なのはそれにいかにケリをつけるか、それだけだ」
豚では、戦争や平和の維持のための大人の事情ってのを、矜持や女性を想う男性の見栄みたいなものにして、カルチョ風味にカラッと流してた印象を受けた。
だけど、それでも後ろに潜む大きな権力的な闇や、ほくそ笑む愛国心を利用した経済的な心情、そういうものが見え隠れしてくる。
「風の谷のナウシカ」「もののけ姫」にもそういう側面があったりするんだよな。
ナウシカの原作とか、もののけの天長さまのくだりとかさ。
守るってなんだ?国家のために戦うってなんだ?公共心とはなんだ?集団のために貢献するってなんなんだ?
その為に散って行った人、もしくはそんな想い。
一方で、そんなん関係なく、自分のやりたいことが沢山残ってたであろうに、半ばで散ってしまったかもしれない故人の気持ち。
そんな想いが集団の目的意識っつうか心理と重なっては霧散していくわけだよ。
そういう意味ではパトレイバーや豚ってのは良作だと思うわけです。
傍から見たら痛いし「何言ってんの掴み所ねえ話だなオイ」って感じなのかもしんないけどさ。
確かに昔は豚に関しては「何言ってんだこいつw」って思った時もあった。
でもな、今こうして酒片手にしみじみ見てると、そういうやりきれない思いだったり、俺はこの先どう生きるべきかってのをモヤモヤ考えさせられる作品だったりするんである。
まあいいやそんな感じだ。