城あれこれ

お城を紹介します

江美城

2011-12-14 | 訪城
舌状台地先端に築かれた中世城、良好に遺構が残ります。



江尾駅の東100~200メートルあたりです。ちょうど駅に向かって舌状台地が伸びてくる地形で、その先端に江美城があります。天守閣風模擬櫓が目印になるのでしょうか。

江美神社の隣に上之段広場という公園があり、その隅に車を停めさせていただきました。

 

振り返ると坂の上に天守閣風模擬櫓が小さく見えます。さっそく攻城です。

 

登ったところは八幡丸曲輪にあたります。天守閣風とはいうものの、ひと時代前のコンクリート建造物です。歴史民俗資料館だそうですが、なんとなく無期限的な匂いがする休館中でした。

 

見上げた横が西の丸です。木が払われてきれいになっています。空堀伝いに上がります。

 

西の丸には大きな標柱がありますが、すっかり色落ちしています。手入れされてませんね。他の曲輪から見下ろす模擬天守というのもなぁ……。

しかし江美城のよさというのは、最近発掘調査などもされ、本格的な中世城としての雰囲気を充分感じさせる点です。すっかり雑木などが払われた西の丸から見た本丸へのラインはなかなかのものです。空堀もいいですね。

 

本丸はかなり広い削平地でした。一時は田んぼになっていたそうです。

横の一段下の犬走りを確認しながら櫓台に近づきます。それにしても切り立っていますね。

 

荒れ果ててはいますが、櫓台には石垣が残っています。野面で割と大きめな石が合ったりと大きさはバラバラです。ここに金箔装飾を施した鯱瓦を載せた立派な櫓があったのでしょうね。

 

背後には土橋と空堀です。舗装された道になっていたので、いじった部分もあるのかもしれませんが、立派な土橋です。そして空堀も深い。しっかり守られています。

そしてこの土橋から眺め通した景色が、舌状台地先端を上手く利用して城を築いているのがよくわかる、いい一枚になりました。

 

【概要】
別名 :江尾城、江尾要害
所在地:鳥取県日野郡江府町江尾
築城年:文明年間(1469-1487)
築城者:蜂塚安房守
形式 :平山城(標高180m比高40m)
現状 :史跡
遺構等:曲輪、石垣、空堀
建造物:模擬櫓2層3階(1979年)(歴史民俗資料館)
その他:江府町指定史跡

【歴史】

 江美城跡は、だいせん火砕流大地を造成して、築かれた中世の山城で文明年間(15世紀後半)に蜂塚安房守によって築城され、二代・三河守、三代・丹波守、四代・右衛門尉と四代にわたってこの地を治めました。
 永禄7年(1564)8月6日、尼子氏を攻略する為に山陰へ侵攻してきた毛利氏により江美城は攻略され、蜂塚氏は滅亡しました。
 その後、美後・備中・美作方面に対する戦略的見地から、毛利氏により、蜂塚時代の中世的城郭から近世城郭へと大幅な改造がなされています。1997年12月の発掘調査により、多数の瓦片に混じって金箔装飾のある鯱瓦が発見されました。このことから安土桃山時代の後期、江美城には金箔装飾を施した鯱瓦を載せた立派な櫓があったことが分かりました。
(江府町教育委員会・江美城説明板より)

【地図】

掛川城

2011-12-12 | 訪城
本格的に木造復元された天守と現存する二の丸御殿があるお城です。



掛川城。所在地は静岡県掛川市掛川。

駅から700m程北にあります。徒歩10分弱。ほぼ市の中心です。

お城の前の道路には余白地があります。町が目覚めないうちの速攻なら、そこへの停車もいいかと思いますが、今や観光地となった掛川城、日中は無理でしょう。復元された大手門近くに、立派な駐車場があります。

しかし私は、実は、掛川古城のある子角山の龍華院に駐車させていただきました(無料)。掛川古城の見学もあわせ、掛川城を楽しむのもよいかと思います。ただ龍華院への道は細く急な勾配の上にありますので、運転には気をつけてください。

     

まずは現存する重文でもある二の丸御殿を訪れます。ここで100スタンプをゲット。まずはひと安心です。

二の丸御殿は二条城など現存遺構として残っている例はわずかで貴重な建造物です。ただ江戸末期のもので、驚くほどの大きさもないので、少しもの足りない印象でした。

 

しかし二の丸御殿の良さは、ここから天守が見上げれることですね。現存と復元、どちらが主でどちらが従なのかはさて置き、時代劇さながらのシーンです。
いいですね。ゆっくり鑑賞です。

 

二の丸御殿を出て天守へと向かいます。本丸を囲む十露盤(そろばん)堀があります。水のたまった部分が十露盤の箱のように見えることから、そう呼ばれていたとか。

階段を登ると四足門です。小さな門ですが、正保城絵図を元に復元されました。ただ門の跡が調査では見つかっておらず弱いところですが、入口をイメージするには、いいのではないでしょうか。

 

門をくぐると左手に見えてくるのが太鼓櫓です。もとは見張りの櫓があったそうですが、今あるのは嘉永7(1854)年建造で三の丸から移築されたものです。移築現存櫓ですか。ちょっとインパクトが弱いですね。

 

というのも右手にはドドーンと木造復元天守です。掛川城人気を一手に引き受けている存在ではないでしょうか。高知城に似た(本来は高知城が掛川城を真似た)望楼型天守は美しいです。シャッターばかり切ってしまいます。

 

本丸です。復元天守が建つ前にも来たことがあるのですが、今はその面影が思い出せません。きれいに整備されています。

本丸には霧吹き井戸があります。井戸から立ち込めた霧が城をつつみ今川氏真の立て籠もる掛川城を徳川家康から守ったという伝説の井戸です。

さあ、天守閣です。

 

木のぬくもりがいいですね。青森産ひばが使われています。硬い材質で、防虫性・耐久性に優れた材質です。

小さな一豊像が飾られていました。また鯱のレプリカなどもあります。青銅で袋井市の油山寺山門の鯱を参考に作ったそうです。油山寺山門は掛川城二の大手門(玄関下御門)を移築したものだそうですから、いろいろな所から助けを受けているのですね。

 

眺望はいいです。市内を見渡せます。

二の丸御殿や太鼓櫓も見えます。掛川古城は小さな森になって見えます。

そして静岡の城ならではの富士山も見えます。まだ雪をかぶっていませんでした。なので小さなうっすらと黒い三角の姿でした。

 

【概要】
別名 :懸河城、雲霧城、松尾城
所在地:静岡県掛川市掛川
築城年:明応6(1497)~文亀元(1501)
築城者:朝比奈泰煕
形式 :平山城
現状 :史跡公園
遺構等:二の丸御殿・太鼓櫓・石垣・土塁・堀
天守閣:複合式望楼型3重4階(1996年木造復元)
移築物:油山寺山門(二の大手門移築現存、重要文化財)
入城料:大人400円(夏9:00-17:00、冬9:00-16:30、天守・御殿)
その他:国の重要文化財(二の丸御殿)、日本100名城(42番)

【歴史】

 現在の掛川城より東に約500メートルほどのところにあった掛川古城は、戦国時代の明応6年(1497)~文亀元年(1501)、駿河の守護大名今川義忠がと遠江支配の拠点として重臣朝比奈泰煕に築かせたといわれています。
 桶狭間の戦(1560)で今川義元が織田信長によって倒されると、永禄12年(1569)掛川城は、徳川家康に攻められ開城してしまいました。家康領有後、重臣石川家成が甲斐の武田氏侵攻を防ぎました。
 天正18年(1590)全国平定を達成した豊臣秀吉は、徳川家康を関東に移し、家康旧領地には秀吉配下の大名を配置し、掛川城には山内一豊が入りました。一豊は多くの戦乱により傷んだ城の改築や城下の整備を行うとともに、この時初めて天守閣をつくりました。
 江戸時代には、徳川親藩の松平氏や江戸城を築いた太田道灌の子孫太田氏など11の大名家の居城として栄え、明治維新まで続きました。
(掛川城天守閣・御殿入館券より)

【地図】

伊勢上野城

2011-12-10 | 訪城
お市と浅井三姉妹ゆかりの城。櫓台、井戸、土塁の遺構がわずかに残ります。



伊勢上野城。所在地は津市河芸町上野。
NHK大河ドラマ「江」の江ゆかりの地ということで案内がでています。本城山公園がその地で、小高い丘を目指します。公園駐車場があります。

 

小谷落城後、お市と三姉妹が伯父信長の計らいで移り住んだ城で、江は生まれたばかりの赤ん坊で、4つ上の茶々と、3つ上の初と、ほんの幼少の頃までを過ごした城です。織田陣営からすれば最前線の城ではなく、比較的平和な穏やかな日々を送ったのでしょうか。城跡からは、ただ空想するしかありません。

城跡は半ば公園化、半ば自然の中です。

 

駐車場からあがると本曲輪に着きます。割と広いスペースです。周囲には土塁が見られ、案内板に井戸跡。

 

隅櫓台と思われる土塊には展望台が立っていました。それなりの高さがあります。展望台からは伊勢湾が望めました。

 

広い曲輪に土塁、一段下がったところに二の丸。このあたりも、城の雰囲気としてはいいかな。

しかし、二の丸はアスレッチクの設備がある広場となっています。

城の規模としてはそれなりのものがあったのかもしれませんが、グランド・駐車場とあって、それを偲ぶ遺構は残っていません。少し残念な感じがしました。

 

【概要】
所在地:三重県津市河芸町上野
築城年:元亀元(1570)
築城者:織田信包(分部光嘉)
形式 :平山城
現状 :本城山青少年公園
遺構等:曲輪、土塁、櫓台、井戸、案内板

【歴史】

 上野城跡は、東西約250メートル、南北約550メートルの規模で、城の主郭の周囲には、かつて土塁や堀切りで区画された郭が取り巻き、主郭の東側には幅が20メートル近い空堀があったといわれています。
 主郭の広さは約30×45メートル、その四周には今もところどころに土塁が残ります。
 上野城の築城時期は明らかではないのですが、天文17(1548)年の記録に分部氏から三間氏にこの城が預けられたことが記されています。
 その後、永禄11(1568)年に織田信長軍による伊勢侵攻があり、信長の弟信包が一時この城に入り、分部氏は信包に仕えました。信包が天正8(1580)年に安濃津城(津城の前身)に移ると、分部氏が入ったと考えられます。その信包が治めた頃、お市とその娘の三姉妹(茶々、初、江)がいたといわれています。
 文禄3(1594)年に信包が近江に移った後は、分部氏は豊臣秀吉、徳川家康に仕えて加増を重ね大名となりましたが、元和5(1619)年に近江国大溝(現在の滋賀県高島市)へと転封となり、それとともに廃城になりました。
(駐車場にある案内板より)

【地図】

松阪城

2011-12-08 | 訪城
石垣の古城のたたずまいが素敵です。散歩するのがお奨めの城です。



松阪城。所在地は松阪市殿町。
松阪インターより約10分、市役所近くの、ほぼ市の中心地にあります。広い無料駐車場があるので心配なしといいたいところですが、グランドや市民病院があるせいか、駐車場は混んでいて、ちょっと停めるに苦労しました。

 

道路沿いを歩いて正面にまわります。公園入口あたりが表門跡です。ゆるやかな坂を行くと城跡碑、立派です。石垣のいい雰囲気に迎えられます。

左に上がって二の丸方面から攻めます。曲輪は広場風になっていて、片隅に売店・藤棚。こんな感じは昭和の城跡公園的でしょうかね。閑散としています。ちょうど売店横くらいに陣屋跡の碑がありました。江戸時代後期、紀州藩城代の陣屋跡です。

 

宣長旧宅のある隠居丸を左手に、石段を登ります。中御門跡です。石垣に囲まれたいい雰囲気です。そして本丸下。このあたりの石垣はもっとも古い部分の石垣らしく、石も小さめで野面積みになっていました。

 

この段の曲輪の先には月見櫓跡。梶井基次郎の文学碑があります。ここからの市内を見下ろす風景もいいですね。別段絶景というわけではありません。穏やかな日常の風景です。

 

建造物はなくとも、この穏やかなたたずまいが松阪城の魅力ですね。

石垣を眺め、ぐるりと回ってきたい丸から本丸へと進みました。きたい丸は梅林になっています。

 

ここで道に迷われている方に遭遇。城設計者から言えば、してやったりでしょう。同じような石垣ばかりで……とこぼされてました。やっぱり、城を味わうには縄張図を持ちながら(頭に入れて)回りたいものです。

本丸です。と言って特別なものはありません。



井戸のあたりに本丸碑。松阪開府之碑がある金の間櫓跡。その対角上にある天守台。敵見櫓台跡が隣接しています。

 

ほどよい広さかな。一番高いところというわけですが、特別なことはありません。天守再建の声も出たそうですが、松阪城は何もないところがいいですね。この石垣の雰囲気。ゆっくり散歩がお奨めです。

100名城である松阪城のスタンプは、埋門から出た宣長記念館にあります。ここで松阪城のパンフ(無料)をいただきました。あとスタンプは歴史民俗資料館でも押せるようです。(休みに気をつけてください。)

       

宣長記念館から降りたあたりの石垣が高くて立派でした。

 

太鼓櫓跡あたりから眺め下ろした御城番屋敷が気になったので寄ってきました。裏門跡からが最寄です。手前右側が見学用に開放されていましたが、他は今も普通に住まわれて生活していることに驚きました。文久3(1863)年のこの建造物は国の重要文化財に指定されています。

 

それにしても松阪城の石垣はいいですね。石垣の周りを歩きながら駐車場へと戻りました。

 

【概要】
別名 :四五百城(よいほじょう)
所在地:三重県松阪市殿町
築城年:天正16(1588)
築城者:蒲生氏郷
形式 :梯郭式平山城
現状 :史跡公園
遺構等:石垣、天守台、曲輪、井戸、碑、案内板
その他:国指定史跡、日本100名城(48番)

【歴史】

松ヶ島城に入城した蒲生氏郷が領国を治めるため新たに天正16(1588)年に築城。3重5層の天守を構え、敵見、金の間、月見の櫓を配し、東に大手、南に搦手、阪内川を天然の堀とし、城下町は近江日野の商人を呼び寄せたり松ヶ島住人を強制的に移住させる等をして建設、松坂と命名しました。

氏郷が会津に移封したあとは、服部氏、古田氏が治め、元和5(1619)年その後は紀州徳川氏領になり城代がおかれました。寛政6(1794)年に徳川陣屋が建てられ、明治維新を向かえ、廃藩置県により明治4(1871)年に廃城しました。

天守は台風のため正保元(1644)年に倒壊したそうです。

平成の石垣修復(16年間、総工費11億円に及ぶ)により美しくよみがえった松阪城は、平成23(2011)年、国史跡に指定されました。

【地図】

足助真弓山城

2011-12-06 | 訪城
戦国時代の山城を発掘調査し本格的に復元した城跡公園です。



足助真弓山城。所在地は豊田市足助町真弓。
足助支所前の国道153号線から西町交差点を国道420号側へ入り約500メートル行き足助城の案内に従い左折します。山を登ること約1キロで駐車場に着きます。お城の近くまで登れ助かります。

 

ひさしぶりの訪城です。中世山城を本格的に復元したということで賑わいをみせた足助城ですが、このところは観光的には苦戦しているのでしょうか。雨上がりのあいにくの天気でしたが、閑散としてました。

受付を通ってさっそくお城へ向かいます。

 

堀切を越え南の丸下あたりへ。やってきました復元された中世山城。物見台を見上げイメージを膨らまします。素朴な施設ながらも、高低差が守りの堅さを思わせますね。さて、左に回りこみながら見学を進めます。

説明が丁寧についています。南の丸腰曲輪には「小さな建物があったようですが、よくわかりません。」ちょっと弱気な解説にも思えますが、誠実な姿勢なんでしょうね。雨が上がったところで紅葉もきれいでした。

 

西の丸腰曲輪です。西の丸を見上げると高低差を感じます。

 

そして西の丸です。曲輪の柵は倒れ掛かって鎖で補強されていました。山の上でまともに風雨にさらされるわけで、年月に耐えるのは大変です。曲輪の奥には物見櫓が復元されています。

 

跳ね上げの門をくぐって南の丸です。

 

南の丸には建物が復元されています。台所機能があったところのようでカマド小屋なども見られます。建物は、けっこう曲輪いっぱいに建てられていたようです。狭い土地の有効利用なのでしょう。

 

しかしカマド小屋は少し傾いているように見えましたし、南物見台は補強された新しい木の部分も見えます。平成のはじめに復元され20年ほどが経ったわけですが、山城の辛さを考えました。当時にしても補修しながらの山城施設だったはずで、木の腐りの問題もありまし、山のてっぺんで風雨にさらされての年月は大変なことだったでしょう。

平成の足助城はどうでしょうか。予算切れ、お金の工面がつかなくて補修できず落城、そんなことがないようお願いしたいものです。

 

建物の上の石といい、同じ屋根ばかりにしてないのが、凝っています。

南物見台の先には鶏足城が見えます。もっとも、そう言われてもよくわかりませんし、物見台にも登れません。真面目に復元されてますが、ちょっとこういうところで遊び心が不足していると言うか、楽しみが少ないです。もっと楽しく、お客を呼ぶ工夫も、これからはしていかないといけないのかもしれないですね。

 

いよいよ本丸です。高櫓と長屋があります。

いいですね。高櫓は近世城郭の天守にあたる建物です。ここへは上がれます。以前はボランティアガイドの小父さんがいて説明していましたが、誰もいませんでした。

正面には本城がある飯盛山が見えます。飯盛山の標高は254メートルと真弓山より50メートル程低いので見下ろす格好になります。紅葉とうっすらと雲がでていていい雰囲気でした。足助の町並みも見下ろせます。

 

北腰曲輪を見ながら帰路に着きます。

紅葉がきれいでした。

城めぐりには紅葉渋滞は頭の痛いところですが、紅葉見物の方には是非足助城にも足を運んでいただいて、せっかく愛知ふるさとづくり事業やふるさと創生基金ではじめられた本格的復元である中世山城の足助城を尻すぼみに終わらせることなく応援して欲しいと思いました。

 

【概要】
所在地:愛知県豊田市足助町真弓
築城年:15世紀
築城者:鈴木氏
形式 :連郭式山城(標高301m比高170m)
現状 :史跡公園(1993年5月開城)、山林
遺構等:復元櫓、曲輪、土塁、堀切、井戸、案内板
入城料:大人300円(9:00-16:30)

【歴史】

 足助城は、標高301mの真弓山の山頂を本丸として、四方に張り出した尾根を利用した、連郭式の山城です。真弓山は、足助の町並みを眼下に見下ろす要害の地です。
 足助城は、「真弓山城」とも呼びますが、「松山城」「足助松山の城」とも呼んだようです。鎌倉時代に足助氏が居城したという、「足助七屋敷(足助七城)」の一つとも伝えられますが、今回の発掘調査では、この時代の遺物は発見されず、現在残された遺構は、15世紀以降に鈴木氏が築城した跡と考えられます。
 鈴木氏は、戦国時代に西三河山間部に勢力をもっていた一族です。そのうち、足助の鈴木氏は、忠親→重政→重直→信重→康重と5代続き、初代忠親は、15世紀後半の人といわれます。16世紀に入ると、岡崎の松平氏との間で従属離反を繰り返しますが、永禄7年(1564)以降は、松平氏のもとで、高天神城の戦いなどに武勲をあげています。
 そして、天正18年(1590)康重のとき、徳川家康の関東入国に従って、足助城を去りますが、間もなく家康から離れ、浪人したと伝えられます。
(パンフレットより)

【地図】