コロナの感染を防ぐために外出の自粛を求められているにも関わらず、普段より混雑している観光地もあるというから驚く。テレビの映像を見て非常事態宣言の出されている国とはとても思えなかった。どうしてわずかな期間であるのに我慢できないのだろう。結局はその行動がさらに厳しく大変な状況に追い込むことを想像できないようだ。娯楽や遊びは家の中にもたくさんある。
20-4-21
定年退職後は毎日が日曜日になる人もいるようだが、定年のない身なのに今はそれに似た雰囲気を味わっている。外の仕事がないと確かに曜日の感覚は薄れてしまう。頼りになるのは新聞のみ。その新聞さえも違いが明確に出るのは日曜だけ。だから、当たり前のようだが生活のリズムの基本は日曜にするのが自然。新聞をゆっくり読み、テレビの囲碁を見て、長めの散歩をしよう。
20-4-22
カラスの鳴き声はカァカァでなくアーアーに聞こえる。ただし、アに濁点が付く感じ。同じ鳴き声でも国によって聞こえ方が違うというから不思議。言語の違いでそうなるのだとしたら、国内でも九州と関西と東北では違ってたのだろうか、これはどうなんだろう。カラスの鳴き声はカァカァと言ったのはどこの誰なんだろう。そうなると「モーモー」も「ワンワン」も気になってきた。
20-4-23
新聞の見出しに驚く。『景気「悪化」11年ぶり』と書いてあったのだ。『え、今まで景気がよかったの?』と聞きたい。景気の良し悪しは一般人には関係ないわけか。これまで景気がいいと感じたことはなく、それどころか景気が次第に悪くなってきているのをいろんな場面で感じていた。政府のこの感覚のずれは驚きを超えている。多分、わかってて得意の嘘をついてたはず。
20-4-24
同じような感じ方や考え方の人がいると嬉しくなるもので、最近新聞の『おじさん図鑑』というコーナーで政治家や役人が災害時などに着る防災服について書いてあったが全くの同感だった。形や格好にばかり気を遣い、迅速性や必要性が二の次にされているようでテレビで見るたびに不快な思いをしていた。あれに着替えるにも無駄な時間は掛かるはずだし会議には一切必要ない。
20-4-25
どっちかと問われれば外(動)の方が好きだけど、内(静)も苦にならない。制作はまさにこちら側で、何日でもこもっていられる。制作だけでなく読書でも書き取りでも、やりたいことはいろいろある。文筆家が宿に缶詰にされる姿に憧れを持っている。でもやっぱり、勝手に動き回れる外の方がいいか。旅なら1年帰らなくても平気。どっちも楽しめるのは幸せなんだと思う。
20-4-26
曇りや雨のうえに風も強い日が続き、のんびり散歩ができないのが残念だ。気持ちのいい季節のはずなのに手袋と傘が欠かせない。昨日は日曜日なのでいつもより長い散歩にしようと家を出たのだが、雨と風と寒さに負けて普段よりずっと少ない距離で中断。1週間のリズムのひとつにしようと決めたのに早くも崩れるのは残念でも仕方がない。今は風邪も引きたくない気分。
20-4-27
またまたおかしな言葉が出てきた。『ステイホーム』とはなんぞや。政治家や役人が多用するカタカナ言葉に対して何度か(も)書いているけれど、しつこく出てくるのでこっちもしつこく言わせてもらう。どうして『在宅』ではいけないのだろう。非常時のはずなのに格好付けてる場合じゃない。正しく伝えられる日本語があるのになぜそれを使わない。そこを問題にしないのはどうして。
20-4-28
続き。昨日は『在宅』しか出てこなかったが、もっといいのが浮かんだ。それは『家にいよう』。これなら『外に出よう』の反対なのでわかりやすい。そして、3歳児から上は何歳でもすぐにわかる。「連休中はステイホームしようね」と「連休中は家にいようね」のどっちが自然かは明確。こんな時は変化球でなく直球にすべき。『ステイホーム』なんて恥ずかしくてとても言えない。
20-4-29
作品で『ここは違う』と感じるのは違和感というもので、周りや全体のなかに馴染めず異質な存在になっている1点でも気になる。かなり前に音楽好きの友達に「オーケストラの指揮者があるパートの1音の違いを聴き分けられるのはすごいと思う」と言ったら、「全体をひとつとして聴いているからわかるんだよ」と教えてもらい、美術作品に置き換えて納得したことがある。
20-4-30