ヤングライオン通信

ocnブログから引っ越してきました。

「ルノワールの時代」展

2016-03-31 23:54:01 | イベント
本日は休みの予定だったが仕事をすることに。

余裕をもって家を出たのは良かったが、先方の都合で1時間ほどの暇が出来てしまった。


で、思案していたところ目に入った看板。


「ルノワールの時代」展。




いいじゃない。

暇つぶしには最適だ。



私は決して芸術には明るくないが、いわゆる「印象派」から「ポスト印象派」と分類される画家たちの作品は気に入っているものも多い。

気に入っている作品と言っても、その多くが世の中でもよく知られている作品ばかりなので、上っ面な知識と興味で「好き」と言っているだけのことなのかも知れない。

まあ、他人がどう思うかはこの際どーでもいい。


この看板に名前の並んだ画家の作品にお目にかかれるならいい機会とばかりにいそいそと「名古屋ボストン美術館」へ向かった。


今回の目玉はこの看板にもあるルノワールの「ブージヴァルのダンス」。
美術館入り口では、この絵の衣装(かなり安っぽい)が飾られ、「コスプレをして写真が撮れます」みたいなサービスも実施されていたが、これはいかがなものかと首を傾げつつ中へ。

余裕はあったはずだが、鑑賞していくうちに時間が無くなり、作品のビデオ解析コーナーを割愛。後半は駆け足になってしまった。


実質館内に滞在したのは3~40分程度だったが、結論から言うとイマイチだった。


モネ・ゴッホ・ルノワールあたりには私の興味も湧いたが、それぞれ作品は1~2枚程度となるとどうにも消化不良。



もちろん今回の展覧会は、ルノワール達印象派の画家が生きたその時代を見せるのが趣旨だということは承知の上だ。

だが、どちらかというと印象派の時代より、それを終えた後の都市部で栄えた商業的な作品やモダンアートなどの分野の分量が多く、楽しめる作品は前半で終了してしまっていた。



好みの問題ではあるが、「ルノワールの時代」と銘打つには多少の「言い過ぎ感」は否めないなあ。








アーロと少年

2016-03-24 20:25:01 | 映画
先週は「スターウォーズ フォースの覚醒」の3回目を鑑賞。

長い間粘ってくれていた近所の映画館もさすがに3月末で終了とするらしく、スクリーンでの見納め。

まだまだ新たな発見がある。


今日は「アーロと少年」。





舞台は、滅亡の引き金となる隕石の落下を免れ、恐竜が地上の王者として更なる繁栄をしている地球。

主人公の恐竜アーロは、草食恐竜一家の末っ子として誕生したが、兄弟にはいつも弱虫だとバカにされていた。

一家の農場では、冬を越すために備蓄していたトウモロコシが何者かによって食い荒らされ、その犯人が人間の子供であることが判明する。

その子供を追うアーロと父親だったが、氾濫した川の濁流に飲み込まれ、父親はアーロを助けて自らは命を落としてしまう。

自分の気の弱さから父を亡くし、失意に沈むアーロ。

そんな中、再びその人間の子供がトウモロコシを食べに現れた。





だれがどう見ても、教科書に描かれた様な「恐竜と人間の子供の心の交流を描いたハートウォーミングムービー」である。

舞台設定上、普通の物語とは人間と恐竜の立場が入れ替わっている差こそあれ、そこはディズニーピクサー作品である。まあ安定の仕上がりのはず。


…が。


そうはなっていない。

「悪い意味」で期待を裏切られた感は否めない。


地球の王者が恐竜なので、恐竜だけが言葉を交わし、他の動物(人間を含む)は鳴き声を上げるだけ。
恐竜が他の生物すべてを見下ろした様な世界観。

この設定は普段人間でやっているものを恐竜に組み替えただけなので、違和感はあってもそれはそれでいい。


まず、アーロが言わば父親の仇である少年(後で「スポット」と名付けられる)と心を通わせていく過程がかなりメチャクチャ。

そして、2人の冒険が始まる。


その短い旅の中で、それまで気の弱かったアーロは「恐れを受け入れ、乗り越える」ことを覚えていく。
そこも文句を言いたいがひとまず置いておく。


最大の問題は物語のラスト。(ここからネタバレ)

アーロとスポットは旅の終盤に、偶然別の人間の家族と出会う。
実はスポットも両親を亡くした孤独な身であることを知っているアーロは、悲しみをこらえて人間の家族と一緒に行動する様に、スポットを突き放す。

スポットとの悲しい別れを乗り越えて、故郷へたどり着いたアーロは家族と再会を果たすのだった。


はぁ?



「恐竜」と「少年」という、生物学的にも文化も生活環境も何もかもが違う二者が「心」という共通項を通じて交流を深めていく姿を描いて来たクセに、最終的にアーロは少年を「人間という種」の枠の中こそがお前の居場所だと涙を呑んで突き放し、自らも「恐竜という種」の元へ還っていく。

少なくとも私には作り手のメッセージとして「そういう皮肉」には感じなかった。

「悲しいけど、それがお互いの幸せのためなんだよね。」ともっともらしく結論付けたとしか受け止められなかった。


それじゃダメだろって。

圧倒的な断絶があっても、それをお互いが乗り越えて心を開くからこそ、心の交流に価値があるのではないのか。その先にある(かも知れない)幸せを模索する価値があるのではないのか。

それを、最後の最後で「でも、やっぱり俺たち違う動物だもんね。一緒にはいられないよね。」って言っちゃったら、この90分描いてきた冒険に何の意味があったというのか。


結局、物語の起伏として「涙の別れ」が欲しかったとしか思えない。


そしてエンディングテーマとしてkiroroの「Best Friend」が(私にとっては)虚しく寒々しく流れ出す。


エンドロールの後にその後の彼らの姿が描かれているかと思えばそれもない。



途中、山ほどキャラクターが出て来る。
ワケありそうに見える彼らだが、結局ほとんど物語には関係しない。

映画の冒頭から、キャラクターの「名前」について結構細かい設定がされており、何か本筋に絡んでくるのかと思いきやまったくそんなこともない。



本当に最初からずっと肩透かしを食らい続けている感じだった。


褒められるとすれば、毎度のことだが自然の描き方。
特に水の描写は本当に素晴らしい。



それ以外は私にとって興味のない作品だった。


オススメ度:59点
















マネー・ショート 華麗なる大逆転

2016-03-07 21:07:49 | 映画
振替の休みをもらったので、昨日に続いて映画館へ来た。

今日はお目当ての映画がある。

「マネー・ショート」。

以前DVDで観た「マネー・ボール」が気に入って、同じ原作者が書いた書籍という事で興味があった。

正直に言うと、経済学について私は何も知識がない。
おそらくその辺の高校生にも負けるかも。

多少の覚悟が必要だ。


予想に反して、劇場は結構な入りだった。
席は半数くらい埋まっている。

その大半は中高年。
おそらくバブルを謳歌した世代であろうと思われた。





金融トレーダーのマイケルは、住宅ローンを含む金融商品が債務不履行に陥る危険性を銀行家や政府に訴えるが、全く相手にされない。
そこで「クレジット・デフォルト・スワップ」という金融取引でウォール街を出し抜く計画を立てる。
そして08年、住宅ローンの破綻に端を発する市場崩壊の兆候が表れる。



以上が簡単なあらすじ。

いつもあらすじは自分で書くのだが、今回は映画紹介サイト「映画.com」から拝借した。


というのも、私の理解の仕方で正しいのかが定かでない。
そのくらい内容としては専門用語が飛び交い、難解にも見えてしまう。

物語の要所要所で、比喩を交えて今の状況を簡単に説明してくれる割り込みキャラクターがいるので、要点を見失うことはないと思うが。


今回の題材となったサブプライムローンやリーマンショックについては池上彰氏の解説番組などで事前に予習して臨んだ私。
しかし当然そんな付け焼刃の知識ですべてが把握できるはずもない。


登場するのは4つのグループおよび個人。
どのグループも直接的な関係はないが、全員が当時の異常な景気動向が近い将来破たんすることを予想し、その破たんで大儲けできる様画策していた。

サブプライムバブルで大儲けができた2005年には誰もが鼻であしらったその目論見。
そしてその予想は現実のものとなる。


最終的に彼らの予想は的中し、それぞれに数億ドル以上のものすごい利益が飛び込んでくる。

しかし。

登場人物の誰一人、嬉しそうではない。
この日が来ることを予見し、財産をつぎ込んで首を長くして待っていたはずなのに。


私は「あれ?この人たちの予想した通りの事態なのにどうして?」と思ってしまった。


物語の途中でブラッド・ピットが彼らに言う。

「この先、この賭けに勝って君たちが大金を手に入れるという事は、アメリカでは失業者が大幅に増え、国民の年金は跡形もなく消えしまうということなんだぞ!」

この映画の視点はここにあるのだ。



ほらみろ!賢いヤツはいつでも勝者になれるんだ!

という類の映画ではない。



「華麗なる大逆転」

なぜ邦題にこんな下衆なサブタイトルを付けたのか。
担当者は作品を観ていないのではないかと疑いたくなる。



俳優は有名どころが揃い、クセのあるキャラクターを見事に演じているし、脚本もよく出来ている。

ただ、経済音痴な私にとって専門用語が次から次へと出て来る登場人物のやり取りは、聞いていて不安にさせられたのも事実。

そういう意味では多少減点せざるを得ない。


オススメ度:72点











ディバイナー 戦禍に光を求めて

2016-03-07 06:11:28 | 映画
苦難の日々は続いている。


自らの無知と無力を思い知らされ、周りに迷惑をかけてばかり。

なかなかにコタえている日々。



…という事で久しぶりに映画のお話。

いつもは観たい作品目当てに来る映画館だが、今回は特にお目当て無し。
日曜の早朝7時台。劇場は無数の子供たちが溢れ、すごく混んでいる。

「ドラえもん」の力はやっぱりすごいな。
3つのスクリーンで8時から上映していて、1つはこの時間でもう満席だ。

個人的にも「ポケモン」や「妖怪ウォッチ」で混んでいるのと、「ドラえもん」で混んでいるのとでは受ける印象も違う。


で、時間が合ったのが「ディバイナー 戦禍に光を求めて」


まったく予備知識なし。

映画ってこういう出会いも大切なのかも。


同席者はスクリーン後方の端に男性が1名。


上映スタート。






オーストラリアの農夫ジョシュア・コナー(ラッセル・クロウ)は、4年前に第一次世界大戦で出兵した3人の息子が行方不明になっていた。
その影響で心を病んでしまった妻は「息子たちを連れ戻して」と、戦場へ送り出した夫を責め、彼自身も心をすり減らす生活を送っていた。

ある日、その妻も入水自殺でこの世を去ってしまう。

たった一人残されたジョシュアは、自らの手で妻を墓に埋葬し、彼女の最後の願いをかなえるため息子たちが送られたかつての戦地トルコへと赴く。
しかし、戦時の行方不明者は数万人単位で存在し、いまだに国境の火種くすぶるトルコでの息子探しは困難を極めた。

偶然知り合った宿屋の未亡人親子や、激戦を繰り広げた当時の軍関係者などと知り合う中で、彼は「息子は捕虜として生きている」という情報を手に入れる。

戦地で兄弟に何が起きたのか。
そしてジョシュアは彼を連れ戻すことはできるのか。




たまたま観ることになった作品の為、帰宅後ネットでレビューを確認すると結構な高評価の様子。

…困ったな。


私自身の心の疲労も手伝って、予備知識なし・睡眠時間少な目で早朝から観賞するには「つまらない」映画だった。

…といって、内容について云々するのは多少気が引ける。
途中20分程寝ていたから。

後方に座っていた男性客も安らかな寝息を立てていたし、結局途中で出て行ってしまったから私と感想は同じなのだろう。



1919年当時、折しも政府の大々的な不明者捜索隊が入っている見知らぬ外国に、ただの農夫である主人公がしゃしゃり出ることの無謀。
結果として、彼が来たことで多大なトラブルに大勢の人々が見舞われたと言っても過言ではない。

そもそも息子を送り出す前の彼も、それほど酷い父親である様には描かれていない分、終始、自分で自分を追い込んだまじめな父親がただ暴走を始めた様に見えてしまう。

物語の中でも彼は、危機を自ら「乗り越える」というよりは周りの人々のおかげで「逃れていく」「免れていく」という様に描かれている。
最後まで主人公自身の成長が私にはほとんど伝わってこなかった。

何か所か感動的なシーンも用意はされているが、私には製作者側のいかにも「感動して欲し気」がビンビン伝わって来て冷めてしまった。
「戦禍に光を求めて」ってサブタイトルからして、嫌な感じがするのは私がひねくれているからだろうけど。



ここからはネタバレになってしまうが、結果、ジョシュアは長男を救出し、戦地からオーストラリアへ戻る前にイスタンブールに立ち寄る形で戻ってくる。
ここで彼は旅の最初に出会った未亡人の宿を訪れ、再会した彼女と新たな恋の始まりを確認するというのが作品のラストシーンになる。

…これはどうだろうか。

新たな幸せを掴もうとする主人公を決して否定はしない。
ただ、この旅のきっかけを考えれば、それはせめて息子をオーストラリアへ連れ帰り、墓前の妻へ報告を済ませてからの方がいいのではないか?


実話ベースの話なのであまり物語に文句を言うのも野暮な気もする。
しかし作品が結局のところ「愛する妻の願いを叶えたい」・「愛する息子を探したい」を盾に、無理を押し通す主人公の姿のみを印象付けるなら、この話は美談でもなんでもない。


眠っていたから肝心な描写を見損ねていたのなら大変申し訳ないのだが、それにしても中盤が退屈過ぎる。


ラッセル・クロウの初監督作。
私には「真面目で愚鈍な男の旅物語」くらいにしか見えなかった。



オススメ度:62点