富田林を豊かにする会 代表 武藤宏 ~我が街、豊かに 

地方の繁栄、豊かさの実感
「住みやすい街」から「豊かな楽しい街」を目指して
生活を楽しみながら、心構えと精進の日々

「来夏全小学校全教室にエアコン設置要望」署名活動ニュース

2018-10-11 10:54:59 | 日記
活動経過をまとめました。

8月28日 9月議会開会前に「要望書」と「署名(593名)」を市長に提出
9月18日 議会会期中に、補助金をあてにしない予算化への決意を問う「質問状」を提出
9月28日 市長からの回答
10月5日 回答に不明な点が多く、改めて「質問状その2」を提出


<市長からの「質問状の回答」>

「小学校普通教室へのエアコン設置につきましては、中学校よりも普通教室数が2倍以上あることや受変電設備の大規模な改修等により、多額の財源が必要となりますので、今夏の状況を受けて、国の補助制度の動向等も注視しながら、できるだけ早期に設置できるよう、取り組んでいきたいと考えております」


<質問状その2>

質問1 小学校のエアコン設置は、学校設備の充実などではなく、防災の観点から捉えるべきであり、市の将来、国の将来を担う子どもたちの命に係わる問題と認識すべきです。
「多額の財源」とは、概算いくらですか?「多額の財源」と「子どもたちの命」とどちらが大切とお考えでしょうか?

質問2 国の補助金制度の動向を注視して取り組むのではなく、あれば良し、なくても実施する、この姿勢を求めております。1回目の質問状でも明らかにした通り「住みよい街づくり」から取り残され、生命の危険に及ぶ夏の暑さが取り沙汰されている学校の環境を即刻改善すべきとの認識はお持ちではないでしょうか?

質問3 できるだけ早期に設置するためには、いつまでに実施を決定する必要があるのでしょうか?来夏実施完了までのロードマップをご提示ください。


※10月19日までに文書で回答をお願いしております。


市長からの回答を受け、
10月28日(日)
 10時~ リベラス21集会所
11月3日(土)
 10時~ 梅の里集会所 
 14時~ ウイングヒルズ集会所
署名活動経過報告を行います。

「来夏までに、小学校全校全教室ににエアコンを設置する」ために

2018-09-04 14:20:00 | 日記
7月末から始めた署名活動で、限られた地域(美山台、梅の里、向陽台)ではありますが、
600名ほど集まりました。

9月に始まる市議会に向けて、市長と市議会議長あてに集まった署名を提出しました。

国は教育機関向けにエアコン設置のための予算処置を特別国会に法案を提出する、としています。

しかしこれで目標達成に向けて動き出すとは思っていません。
市長にも議員の方々にも、行政の方々にも、目標必達に意識を向けていただかなければなりません。
市民にとっても逐一進捗を注意してみていく必要があります。

「金剛コミュニティー誌」にも取り上げていただきました。
署名活動は、地域を広げて継続していきます。



記事の内容は、ここをクリックしてご覧ください。

全国および大阪府のエアコン設置状況は以下の通りです。
全国的に見ると設置率はまだまだ低いのです。



本気で「来夏までに小中学校にエアコンを設置する」ことを決めた生駒市のケースを紹介します。
議会も市役所も一体となり、市民にも協力を呼び掛けています。




詳細は「報道資料」として公表しています。

ここまで覚悟を示して取り組まなければなりません。


2019年夏までに「富田林市の小学校全校全教室にエアコン設置」を要望する

2018-08-31 11:19:00 | 日記
富田林市小学校へのエアコン導入は、遅れています。

小学校は、職員室、保健室、パソコン室などに限られています。
中学校は今年までに3年生~1年生の教室までは進んだようです。

年々進む暑さは、異常気象で済ませることはできません。
災害になることを懸念します。
災害は、大雨洪水、地震、津波だけではありません。
今まで比較的災害の心配が少なかった地域にも、熱波災害は襲ってきます。
こどもたちの命が掛かっていますので、もはや一刻の猶予もできません。

高齢化や人口減少に悩む市町村は厳しい財政状態にあります。
しかし、こどもたちを守るために、最優先で設置を決定し、資金を捻出する必要があります。

下の要望書の主旨をご理解いただき、署名をお願いします。

9月中に取りまとめて市長あてに提出いたしますので、8月末までにご投函ください。



署名用紙のダウンロードはこちらから

原爆の日、終戦の日を迎えて思うこと

2018-08-16 15:58:07 | 日記
原爆の被害、悲惨な敗戦の痛手は、日本人の心に深く刻まれました。
二度とこのような被害は繰り返したくない、平和への悲願はほとんどの日本人が共有していることでしょう。
だから、戦争があったことのために自己そのものに対して否定的(自虐的)に受け止めているように思われます。

中国や韓国など隣国から「日本は侵略戦争をし、アジアに多大な迷惑をかけた」と言われ続け、日本人自身もそのように思い込んできました。
本当にそうでしょうか?

「原爆は落とした方が悪いのか、落とされた方が悪いのか」「日本人は侵略戦争を戦ったのか」考えみたいと思います。

広島平和記念公園の中にある原爆死没者慰霊碑には「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませんから」
主語がないこの文章、一体過ちを犯したのは誰なのでしょうか?
日本人自身に「自分たちが悪かった」と暗示させる言葉です。
しかし、その言葉をただ繰り返すのではなく、アジアの人たちの公平な見方や公平な声に心の眼を向けてみましょう。

タイの戦後初の文民首相で、首相になる前にタイの日刊新聞「サイヤム・ラット」紙の主幹を務めた作家でもあったククリット・プラモード氏が、
1955年に同紙上に載せた「12月8日」と題した詩を紹介します。
 ※12月8日は、日本軍が真珠湾を攻撃し開戦した日

=========

タイ 「東南アジア諸国が欧米と対等に話ができるのは日本のおかげ」

「日本のお陰でアジアの諸国はすべて独立した。
日本というお母さんは難産して母体をそこなったが生まれた子供はすくすくと育っている。
今日、東南アジア諸国民がアメリカやイギリスと対等に話ができるのは一体誰のお陰であるのか。
それは『身を殺して仁をなした』日本というお母さんがあったためである。
12月8日は我々に、この重大な思想を示してくれたお母さんが一身を賭して重大決意された日である。
さらに8月15日は我々の大切なお母さんが病の床に伏した日である。
我々はこの二つの日を忘れてはならない」

=========


<私の感想>

大東亜戦争は、日本に大きな惨状をもたらし終結しました。
その結果、欧米諸国はアジア植民地という権益を失い、アジア諸国は独立し、自らの努力と犠牲と苦労を自らのものとすることができるようになりました。
長い歴史から見て、人々はこの結果をどう評価するでしょうか?

大きな犠牲と代償を伴う戦争に「していい戦争」と「してはいけない戦争」があると認めたくはありません。
しかし、振り返って人々の悲惨な戦いの後に人類に貢献できた戦争があったのも事実です。
例えばアメリカの南北戦争は、アメリカ史の上ではもっとも悲惨だったと言われていますが、人を奴隷として扱う「奴隷制度」廃止につながりました。
人類史上の汚点となる「奴隷制度」、でも経済の基盤である制度が話し合いで廃止されることはあり得なかったでしょう。
それをもって「正義の戦争」とは言いません。

平和を愛し、節度をわきまえ、人の道を重んじる日本人の値打ちと誇りは代々受け継がれてきたものです。
大東亜戦争に従軍した世代の方々は少なくなっています。
この世代の日本人が、欧米諸国のような他国を植民地にすることを目的とした戦争をしたわけではありません。
戦争の中で誇り高く生きあるいは死んでいった彼らを、今を生きる日本人が名誉回復せずに、だれがするのでしょうか?
子々孫々に至るまで「悪かった」と言い続けることが正しいとは思えません。



<その他アジア各国の日本を称賛する声を紹介します>

【ビルマ】

ビルマには、イギリスに滅ぼされた王朝最後の王子が残した伝承がありました。

「いつか白馬にまたがった雷帝が東方からやってきて、ビルマを救出し解放する。雷帝の稲妻の進撃は英国軍を追放する(参考図書『雷帝、東方より来る』)」というものです。

日本は、後の首相オンサン、大統領ネウィンを始め、多くの志士を軍事訓練し独立義勇軍を結成して英国軍と戦いました。

英国軍の一個大隊は戦わずして潰走(かいそう:戦いに負けた隊が四分五裂になって逃げること)、英駐留部隊も2日で陣地を放棄するなど、首都ラングーンを陥落させ後に、義勇軍は独立政府を樹立、ビルマはイギリスから解放されたのです。

第15軍司令官・飯田中将はビルマの民衆に向かってラジオから次のような布告を発しました。

「親愛なるビルマ1500万の民衆に告ぐ!日本軍のビルマ進撃の目的は、最近百年間の搾取と圧政を事とせる英国勢力を一掃し、ビルマ民衆を解放して、その宿望たる独立を支援し、もって東亜永遠の安定確保と世界平和に寄与せんとするに外ならぬ。しかして勇敢なるビルマ独立義勇軍兵士よ、今こそは祖国の独立と栄光のために決起すべき秋(とき)なるぞ。必勝不敗の大日本帝国軍は諸士とともに進軍す。進め必勝の信念の下に!」

━━━バー・モウ元首相(自伝『ビルマの夜明け』)

「歴史的に見るならば、日本ほどアジアを白人支配から離脱させることに貢献した国はない。しかし真実のビルマの独立宣言は1948年の1月4日ではなく、1943年8月1日に行われたのであって、真のビルマ解放者はアトリー率いる労働党政府ではなく、東条大将と大日本帝国政府であった。」

━━━ウー・ヌー元外相 (1943年8月1日独立時の演説)

「歴史は、高い理想主義と、目的の高潔さに動かされたある国が、抑圧された民衆の解放と福祉のためにのみ生命と財産を犠牲にした例をひとつくらい見るべきだ。そして日本は人類の歴史上、初めてこの歴史的役割を果たすべく運命づけられているかに見える。」

【インド】

「藤原機関」は、「英国からのインド独立運動の支援」を任務としていました。

同機関の国塚少尉は、「至誠、仁愛、情熱」をもってインド兵に接しました。日本軍はインド兵を殺さないという噂が広まると、英国軍に所属していたインド兵が次々に投降してきたのです。

国塚少尉の「至誠」に心を開いたモン・シン大尉は、インド独立のために立ち上がる決意を固め、インド国民軍は日本軍と同盟関係を結んだのです。

インド国民軍は、英印軍のインド将兵を自軍に引き入れることでインド国民軍は日を追って増えていきました。

「英軍降伏」の報がもたらされ、国塚少尉とモン・シン大尉が外に飛び出すと、いっせいに万歳の声があがりました。

その後のマレー・シンガポール攻略戦は、1200キロの距離を72日で快進撃し、兵力3倍の英軍を降伏させて、10万余を捕虜とした名作戦として世界から賞賛されています。

━━━グラバイ・デサイ弁護士会会長・法学博士(1946年 デリーの軍事裁判に参考人として召還された藤原岩市〈ふじわら・いわいち〉機関長に対する挨拶)

「インドは程なく独立する。その独立の契機を与えたのは日本である。インドの独立は日本のお陰で30年早まった。」

━━━P・N・レイキ最高裁弁護士(靖国神社への書簡より)

 「太陽の光がこの地上を照らすかぎり、月の光がこの大地を潤すかぎり、夜空に星が輝くかぎり、インド国民は日本国民への恩を決して忘れない。」

【インドネシア】

オランダの植民地で大東亜戦争が始まると僅か9日間でオランダ軍を排斥した日本軍は、軍事訓練を指導して4万名のインドネシア人将校を養成。敗戦後も日本に帰らず残留して、インドネシアの独立を支援し共にオランダ軍と戦いました。

━━━サンパス元将軍 復員軍人省長官(1957年来日の際の発言)

「特にインドネシアが感謝することは、戦争が終わってから日本軍人約1000人が帰国せずインドネシア国軍と共にオランダと戦い、独立に貢献してくれたことです。日本の戦死者は、国軍墓地に祀り、功績を讃えて殊勲賞を贈っているが、それだけですむものではありません。」

【マレーシア】

イギリス植民地時代、マハティール首相は、「イギリスの植民地時代には民主主義など存在しなかった。専制的で権威主義的な支配であった」と述べ、マレイ大学副学長ウンクアジズ氏は「日本軍の大東亜戦争があったため、マレーシアの独立は50年早まった」と述べています。

━━━ラジャー・ダト・ノンチェック元上院議員(1988年クアラルンプール邸にて土生良樹氏への言葉)

「私たちアジアの多くの国は、日本があの大東亜戦争を戦ってくれたから独立できたのです。日本軍は、永い間アジア各国を植民地として支配していた西欧の勢力を追い払い、とても白人には勝てないとあきらめていたアジアの民族に、驚異の感動と自信とを与えてくれました。(中略)マレーシアを占領した日本軍は、日本の植民地としないで、将来のそれぞれの国の独立と発展のために、それぞれの民族の国語を普及させ、青少年の教育をおこなってくれたのです。」

━━━ガザリー・シャフィー元外務大臣(1988/7/19 於・赤坂プリンスホテル)※日本政治家の「大戦において貴国に対しご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」との挨拶に対して。

「日本はどんな悪いことをしたというのか?マレー半島で南下したときの日本軍は凄かった。わずか3ヶ月でシンガポールを陥落させ、我々にはとてもかなわないと思っていたイギリスを屈服させたのだ。あの時は神の軍隊がやってきたと思っていた。日本は敗れたが、英軍は再び取り返すことができずマレーシアは独立したのだ。」

PL花火の思い出

2018-08-12 09:50:11 | 日記
今年の花火は、例年より発射本数が少なく、時間も大分短く早々に終わってしまった印象です。
正直に言うと少しがっかりでした。
写真撮影にも身が入らずうまく撮れなかったので、Yさんに写真をお借りしました。

      


<<過去にさかのぼってみます。>>

<2016年PL花火>

45分に凝縮された音と光はやはりいいものだ。
毎年味わい方は変わっても、最後の打ち上げが終わって暗闇が戻った時、今年も良かったと思える。


<2015年PL花火>
2015年PL花火大会その1


2015年PL花火その2

昨年のクロージングは少しがっかりさせられてしまったので、今年はあまり期待していませんでした。
しかし、今年は8時過ぎ、しとやかに始まり、徐々に盛り上がり、エンディングの前にこれまでみたことのない花火の連続打が出て、しばらくの沈黙の後、フィナーレを迎えました。お見事!!


<2014年PL花火>


数千発もの花火が一瞬で上がるラストは、まばゆい光と腹をつんざく轟音!
真昼のごとき輝きと轟音で、夏の祭りは終わりを告げます。




<2013年PL花火>


今日は、PL花火大会でした。
午後8時から上がり始め、8時45分にクライマックスを迎えました。
毎年、打ち上げている時間が短くなり、物足りなさを感じる反面、単調な間延びした繰り返しが減った分飽きのない凝縮された充実さも感じられました。


<2012年PL花火大会>

7時55分に始まり、8時45分にクライマックスの歓声とどよめきで終わりました。
台風の接近のため、開始前少し雨が降りました。それがかえって過ごしやすさ招き、風が花火の煙を吹き飛ばし、花火大会として絶好の気候を呼び込んでくれたようです。

「富田林を豊かにする会」結成趣意

2018-06-10 10:16:07 | 日記
富田林市が抱える最大かつ深刻な問題は、財政問題にほかなりません。

もちろん富田林市独自の問題と言うより、日本のほとんどすべての地方自治体の問題と言ってもいいでしょう。
それゆえ近い将来の破綻が見えているのに「国が、府が、何とかしてくれる」「みんな赤字なら怖くない」と多くの人は、妙な安心感に包まれ安堵に過ごしてしまっているように見えます。

人体で言えば血流に例えられるお金の流れ(財政)が、破綻すれば自治体(組織体)も死に至るのは当然です。
しかし議会では新たな方向を議論し決定し変化して行くこともできず、毎年深刻さは増すばかりです。

〇人口減少に伴う歳入の減少
〇少子高齢化による歳入の減少と歳出の増加
〇公共施設の老朽化





この傾向は今後数十年続いていくことでしょうから、真剣に向き合う必要があります。

そのためには「官民一体で稼げるまちづくり」が必要です。

富田林はかつて「じないまち」を中心に、商工農業を起こし、自由に交易し発展した実績があります。
戦国時代から江戸時代にかけて、自由都市として繁栄してきた歴史があります。
加えて、恵まれた資源(田畑、水などの自然資源、遺跡・古墳などの考古学的資源、じないまちなどの歴史資源)がたくさんあるのです。
(当ブログ「南河内の歴史」を参照してください)

「発展」を目指して気持ちを切り替えてあらゆる方面の資源をできる限り活用すれば、財政問題は克服できるはずです。

私の考える「骨子」は
●公共施設白書(ファシリティーマネジメント)
 公共施設ごとの収支管理と予算の適切な配分
●規制緩和と産業育成
 起業支援、就農者支援、高齢者雇用促進
 農産物の品質向上、農産物加工品開発
 先端技術(ドローン、3Dプリンター、3DCADなど)の学童教育
 日本一世界一の創出
●市民参加による公共施設の付加価値向上
 市民が創る情報施設(図書館)
 防災への市民参加(防災道場の創設)
●観光資源の掘り起こしと整備
 インターネットを活用した日本各地・世界各国への情報発信
など

もっともっと考えてみたいと思います。

子供の教育

2018-04-24 14:01:58 | 日記
今日、「孝」「忠」という言葉は死語になろうとしているそうです。
我々中高年世代にとっては、当たり前に身に付けた言葉です。
どこで教えられたか覚えていないほど自然に身についていた言葉のように思うのですが、今や学校では教えるのは難しく、道徳の授業でも教えることが難しいのだそうです。
その理由の一つとして、「孝」や「忠」の思想が先の戦争を引き起こしたとする戦後の風潮から先生方が教えにくくなっている、からと言われています。

「孝」を重んじる「儒教」を日本に広めたのは「中江藤樹」です。
「子は、両親に事えるべし」
父に対しては「敬」、母に対しては「愛」をもって接すること
主君に対しては「忠」の道で事えることが「孝」の発展形態だと教えています。

現代、シングルマザーの子育て、核家族化、少子化などが増え、夫婦や親子の絆にも変化が生まれていることは事実ですが、本当に「孝」の精神なくして社会が成り立つのか疑問です。「孝」を忘れた自己本位の生き方を選ぶなら、社会も国家も衰退の道をたどり、やがて他国からも蔑まれ亡国の民となり果てる事になるのではないでしょうか?
「教育の無償化」を主張する政党や国のリーダー的な立場の方がおられますが、親が自分の子を責任をもって育てない社会が幸福な社会とは思えません。
教育費は国が負担すべき、との考えは志の喪失と親子の絆の希薄しか生みません。
親が子の将来を願って子を育てることは幸福であり人の道ではないでしょうか。
親の意を汲み志を立てて成長した子は成人して、無償の愛で自分を育ててくれた親に感謝することでしょう。これもまた人の道です。
この感謝の繰り返しが人間の歴史でもあり優れた国の歴史でもあると思います。

   

   

歴史の偉人が偉人として名を留め崇められるのは、それ相応の理由があります。

その偉人の名が教科書から消されていくのは、なんとも納得のいかない事です。

以下は、2018年3月の産経新聞の記事です。

用語を選定した方は、単なる歴史用語として捉えているようですが、人名は用語としてではなく功績によってこそ評価されるべきでしょう。
「トラは死して皮を残し、人は死して名を遺す」と言います。用語の暗記のためではなく、名を遺した功績をこそ教科書で教えるべきです。
時代は変わろうと、名を遺した人の偉大さに変わりはなく、死してなお人に感動を与えることができます。
決して忘れ去るべきではない、と信じます。
歴史を重んじ、大切にする国は永らえ、依るべき歴史を持たない国は滅び去るしかないのではないでしょうか。

用語選定基準に携わる方の言葉が虚ろに聞こえるのですが、国家百年の計を担う一大責任を感じてもっとしっかりして欲しいものです。

=====================産経新聞の記事
【歴史用語 選定基準を修正】~「龍馬」「信玄」削除で批判集中

「坂本龍馬」を外し「従軍慰安婦」を明記するなどした高校歴史用語精選案について、作成した民間団体「高大連携歴史教育研究会」(会長・油井大三郎東大名誉教授)が、外部からの批判を踏まえて用語の選定基準を修正したことが31日、分かった。人物用語は「一般によく知られた人物などを厳選して取り上げる」とし、評価が分かれる近現代史の用語についても偏った教育にならないよう注意を促す項目を追加した。近く団体のホームページに掲載する。
 精選案の用語選定を統括した副会長の桃木至朗大阪大教授は産経新聞の取材に対し、すでに公表している用語リストの改定に「専門家から多数の意見が寄せられている」として含みを持たせたが、今後の方針は明示しなかった。
 同団体は暗記偏重から歴史的思考力の育成を目指し平成27年に発足。29年11月に現行教科書の約半分となる1600語程度の精選案を公表した。今年3月末までに最終案を公表し、教科書会社や大学入試関係者に提言するとしていた。
 ただ、坂本龍馬、武田信玄といった有名な人物が数多く外れたことに批判が集まったほか、現行教科書で少数表記である「従軍慰安婦」「南京大虐殺」などが入り、物議も醸した。この団体には延べ約40人の教科書執筆者が含まれ、一部の会員で構成された選定グループにも複数の教科書執筆者が入っていたため、教科書編集や大学入試への影響も指摘されていた。
 団体は精選案を公表した昨年11月から今年2月末にアンケートを実施。その結果、「歴史用語の精選に一定の理解が得られた」としたが、選定基準には賛否が分かれ、修正した。高校現場からも内容の再検討を求める声が出ていた。
 選定基準は、大半の教科書に掲載され、時代の流れが分かるような概念を中心に選び、文化史用語は必要最低限にするというもの。修正後は「国民意識の涵養などを踏まえ、よく知られた人物・事件を厳選する」「政治的・外交的に理解が分かれる事項は多面的な理解・考察ができるように取り上げる」を追加した。


高大連携歴史教育研究会が当初の 精選案で削っていた主な人名
「日本史」
蘇我馬子、楠木正成、上杉謙信、武田信玄、天草四郎時貞、中江藤樹、高野長英、高杉晋作、坂本龍馬、吉田松陰
「世界史」
ハンニバル、クレオパトラ、ガリレオ・ガリレイ、マリー・アントワネット、ロベスピエール、メッテルニヒ、ドストエフスキー


教育研、偏向も是正
「歴史用語精選案」
歴史授業での暗記偏重の克服を目指す高大連携歴史教育研究会が昨年11月、歴史的思考力育成型科目への転換を図るため、「教科書本文に載せ、入試でも知識として問う基礎用語」として、日本史、世界史とも現行の半分となる約1600語を選択し公表した。これら以外の用語については、教科書のコラムなどで「発展用語」として収録することを否定していない。

公共施設管理の実態

2018-04-22 00:19:38 | 日記
日本の公共施設は全般的に費用面は公表されていますが、それに見合う収入はあまり明らかにされていません。
経済成長が続き、右肩上がりの時代ならまだしも、財政がひっ迫しているなら、収支を明らかにする必要があります。
感覚的に多くの市民に利用されているから、多くの税金を投入して良いとは言えないのが現状です。
無料だから安いから利用する市民を集めても、結果的に赤字を出していれば少数のために多くの市民に過度の負担を強いることになります。
市財政が破綻すれば利用されていた施設もすべて閉館を余儀なくされます。
公共施設、民間施設を問わず、赤字経営は淘汰の対象になることは必至と言わざるを得ません。

高度成長時代に建設された多くの施設は、すでに半世紀経ち老朽化し、大規模修理や修繕または立て直しが待ったなしになりました。
にもかかわらず、無駄を排除しどこに資金を投入するかを判断する施設管理(ファシリティーマネジメント)情報に欠け、「必要な費用はやむを得ない」的な発想から脱却することができていないようです。



上のグラフをご覧ください。
富田林市の公共施設の年間総費用を施設ごとに比較したものです。
利用形態が違うので単純な比較検討は行えないものの、短期的にも長期的にも費用の過少過多を評価することは不可能です。

例えば、
「すばるホール」や「ケアパル」の費用が他と比較してかなり多いのは相当な収益で市財政に貢献しているからなのか?
この費用を減らして小中学校の施設や設備改善の費用に充てることはできないのか?
考えてみてください。

収支が分からなければ、検討は難しいと思いませんか?

参考記事------------------------------------------------------------------------
★ 町立体育館の廃止と新たな利用方法の決定について( http://goo.gl/lKBIp )
埼玉県宮代町がこの1月25日に発表したリリースによりますと、町立体育館を、年額12万円で、近所の
学校法人に貸し出すとのこと。このことにより、これまで町負担であった維持管理費 年額900万円が、
学校法人負担となります。また、学校利用の空き時間は、一般住民にも貸し出されるとのことです。
------------------------------------------------------------------------
ちなみに、この決断をした埼玉県宮代町ですが、ある日突然、この決断に至ったわけではないようです。
2010年に東洋大学PPP研究センター 宮代調査チームが『埼玉県宮代町公共施設・インフラの更新の
あり方の研究報告書』( http://goo.gl/dIZ8o )を公開しており、その後、2011年には、宮代町公共施設
マネージメント計画と公共施設再編第1期計画を策定して、その流れの中で、今回の決定と相成った模様で
す。この計画では、年間7,000万円の施設維持管理経費の削減を5年間の目標としています。(宮代町 
公共施設再編第1期計画 http://goo.gl/xI35T )
この東洋大学PPP研究センターの研究報告書によりますと、宮代町の人口は、2010年に33,440
人で、25年後の2035年には、22%減の26,506人になると予測されてるそうです。もちろん、
高齢化の進行もより深刻化する見込みでしょう。人口規模や人口構成はもちろん、時代の移り変わりで、必
要な施設の規模や種類、使い方まで変わっていくのは当然であり、それにあわせて、公共施設のあり方を見
直す、至極、真っ当な決断でしょう。また、人口が減ることで、税収の減少も予測され、より効率的な施設
運営が求められる時代となったとも言えます。

南河内の歴史

2018-04-12 12:12:34 | 日記
 大阪府の南東、富田林市は、大和川支流の石川左岸の河岸段丘で、東に二上・葛城・金剛連山、南を和泉山脈がゆるやかに囲む、河内平野の南部に位置します。


左の山が「葛城山」、右の山が「金剛山」

 いまから約5000年前の縄文時代前期、河内平野北部には入り海(河内湾)が広がっていました。富田林は、この入り海の南側。市域の中央を流れる石川の河原からは、アケボノ象足跡の化石や太古植物の化石などが発見されています。縄文前期の錦織遺跡など多くの遺跡が点在し、この地に有史以前から暮らしの営みがあったことを証明しています。

 

 6世紀後半、難波と大和飛鳥を結ぶ日本最古の宮道・竹内街道が開かれました。難波宮から住吉、堺を経て、南河内の古市、太子を通り、大和に入る沿道には、大陸からの高度な土木技術や産業がもたらされ、古代日本文化を形づくる基礎になりました。現在も5世紀頃の応神陵をはじめとする巨大古墳群(羽曳野市古市)や、聖徳太子ゆかりの叡福寺(太子町)など古代史ファン必見の史蹟が数多く残っています。大和飛鳥王朝を支えた物部氏、大伴氏らは、この地を基盤とする古代豪族でした。




     新堂廃寺跡          オガンジ池瓦窯跡         お亀石古墳


     応神天皇領模型


     応神天皇領模型

 

 平安時代末期、武士が勢力を持ち始める頃、源氏三代は、やはりこの地を基盤に勢力を伸ばしました。
 清和源氏の中でも河内源氏、頼信(よりのぶ)は河内国司に任ぜられて、河内国石川郡壺井に屋敷を構えました。その後、頼信の子である頼義(よりよし)と孫の義家(よしいえ)の三代が壺井本拠地としたことから「河内源氏の発祥(はっしょう)の地」と言われるようになりました。 頼義と義家は、前九年の役や後三年の役で活躍し、特に義家は八幡太郎(はちまんたろう)と呼ばれて東国に地盤を広げ、武家の棟梁としての地位を確立しました。

 
源氏三代を祀る「坪井八幡宮」
  
頼信の墓             頼義の墓            義家の墓

 平氏が滅び、鎌倉時代から南北朝にかけて、南河内は有力武士や土豪が家督、土地の権限を奪い合う主戦場になりました。千早城(現千早赤阪村)を根城に活躍した楠木正成は、南河内を代表する武将一人でした。



戦乱の世、人々は仏にすがり、融通念仏(念仏が功徳を広げ、それが融通しあって御利益になるという信仰)を唱えはじめます。本願寺八世を継いだ蓮如(1415~1499)が摂津(高槻市富田、枚方市光善寺)から河内地方(八尾市久宝寺)へ布教にやってくるのは応仁の乱の最中のこと。本願寺・一向宗門徒たちは、争いのない、平和な仏の国をこの世に建設しようとしました。


宗教自治都市”じないまち”中心「興正寺別院」

 阿弥陀仏の名号を本尊とする極楽浄土の町。時の領主の支配や武士階級の抗争に左右されない、門徒衆や信者らが生活をともにする町。“宗教自治都市”「じないまち」は、こうして産声を上げたのです。(文章は富田林市教育委員会文化財課発行「じないまち探究誌」からの引用です)

奇跡の商店街 ~宮崎県日南市の油津商店街

2018-04-11 20:40:05 | 日記

地方創生が叫ばれているが、その鍵を握るのが、各地の「商店街再生」だ。地域の中心街が寂れていながら、全体が栄えることはあり得ないためだ。

しかし、「店舗の集合体」を再建することは、一つの企業を復活させたり、まったく新しい街を開発したりするよりも、難易度が高い。全国でも、各自治体は苦戦を強いられている。

そんな中、数少ない成功例として有名な事例の一つが、宮崎県日南市の油津商店街だ。

「猫さえ通らない」と地元住民から揶揄され、あまりの人通りの少なさに子供が野球場代わりにしていたシャッター街が、数年後、IT企業が10社もひしめく街に変貌した。

本誌5月号特集「人口が減っても客は増える シャッター街、赤字企業のV字回復物語」では、同商店街の復活物語を掲載している。

本欄では、その「奇跡の風景」を、写真と共にレポートする。


◎のどかな駅ホームと「カープ色」の駅舎

まず強調したいのは、立地の「辺ぴさ」だ。決して地域を貶めたいわけではなく、それだけ、これから紹介する風景が奇跡的であり、全国の希望になり得るということだ。

宮崎空港から、1~2両編成のJR日南線に揺られて、2時間――。九州南東の海岸近くにある油津駅から、徒歩約5分のところに、油津商店街は存在する。

駅ホームの、のどかな風景をご覧頂きたい。


こののどかなホームから、線路の上を歩いて駅舎に向かい、切符を係員に渡す。そして駅舎を出て、ふと振り返って、驚いた。

駅舎は真っ赤に塗られ、「カープ油津駅」という文字と、日本プロ野球・広島東洋カープのマスコット「スラィリー」の絵が描かれているのだ(下写真)。


この油津にある球場が、広島カープのキャンプ場となっている。油津商店街は、それを"資産"として最大限に活用した。カープの試合を応援する、パブリックビューイングを開催するなどして、地域住民が交流する場を設けた。もちろん、域外にPRする話題性の創出にも一役買っている。


◎静かな路地と、アーケードから響く洋楽

駅前通りから、やや細い路地に曲がり、しばらく歩く。その先に、油津商店街のアーケードが見えてくる(下写真)。


この路地は、平日の昼間ということもあり、人通りもなく、静かだった。しかし、アーケードに近づくと、なんと、都内の若者向け洋服店などに流れている、ハイテンポな洋楽が聞こえてくる。

住宅街の中に、突然、「若い街」が出現するのだ。


◎「懐かしさ」と「新しさ」が共存するカフェ

先ほどの駅ホームとのギャップに驚きながら進むと、入り口付近で、スタイリッシュなカフェが目に入って来た(下写真)。


このカフェの名前は「ABURATSU COFFEE」。詳細の説明は本誌記事に譲るが、商店街の復活物語において、この店が心理的にも経営的にも、重要な役割を果たした。

このカフェは、昔から商店街にあった喫茶店を、リノベーション(改装)している。レンガづくりの外観や、「麦藁帽子」という店名が、当時の面影を残す。「ああ、こんな喫茶店、うちの近くにもあった」と感じる読者も多いのではないだろうか。

店内に入る。すると、都会のカフェさながらのカウンターが目に飛び込んでくる(下写真)。


メニューも、「パンケーキセット」など、若者好みのものが多い。記者の主観だが、注文した「ハニーミルクラテ」は都内のカフェで飲むよりも、濃厚でおいしかった。

客席に目を転じる。するとそこには、カウンターとは対照的なレトロな風景が広がっていた。木の仕切りと、カラフルな照明は、昔のままのものを使っているという(下写真)。


席について、さらに驚く。なんとコンセント、Wi-Fi完備なのだ。記者はここでパソコンを開き、取材内容をまとめていたが、非常に過ごしやすかった。

あたりを見回すと、30代くらいのサラリーマンがパソコンを開いて仕事をしている。さらに、子連れママ友グループ、比較的高齢の女性グループがそれぞれお茶会をしていた。

この世代を超えた客層は、「ABURATSU COFFEE」、そして油津商店街が成功した理由を象徴している。

商店街再生の中心メンバーは店舗改装に先立ち、地域住民を集めて「麦藁帽子の思い出を語る会」というものを開催した。そこでは、「主人と初めてデートした場所」といった人々の記憶が掘り起こされた。改装において「残すべき面影」が明確になったと同時に、住民の商店街や喫茶店への愛着を取り戻すきっかけとなった。

残すべき面影を残しつつ、その他の部分は、若者の好みや意見をふんだんに取り入れて、思い切って改装した。正面をぶち抜いて、ほぼ全面をガラス張りしたのも、その一環だ。

街に対する住民の心理的な情感を受け継ぎながらも、新しいものを創造していく――。そんな姿勢が見て取れる。


◎お洒落な店々

カフェのすぐ隣には、「和モダン」な豆腐屋がある。この店は、呉服屋の跡地に入ったという(下写真)。


商店街再生の中心メンバーは、既存の店を誘致するのではなく、出店を志している料理人を口説いて、商店街で「起業」をさせた。オーナー夫婦の店舗経営を支えるのは、地元出身の30代の人たち。うち2人は「Uターン」してきた。

さらにアーケードを進むと、スイーツなどを売る、お洒落なコンテナ店舗が並ぶ(下写真)。


ここはかつて、空き地になっていた。

店がコンテナなのは、少ない人数や経営規模でも、維持できる店舗とするためだ。人材確保が難しい地方ならではの工夫といえる。


◎中学生が"たまる"オープンスペース

こうしたお洒落な店々の反対側には、「油津yotten」という公民館がある。同じく詳細は本誌記事に譲るが、この公民館も商店街再生において、大きな役割を担った(下写真)。


公民館の中に設置された、「油津カープ館」では、カープの歴史に関する写真が展示され、関連グッズなども売られていた。

内装も、ガラス張りで、よく光が入るのが印象的だ(下写真)。


この土地はかつて、スーパーだったという。商店街の賑わいの中心だったスーパーが閉店し、巨大な廃墟になったことで、街の暗さは一層増したのだとか。

本誌記事で取材をした黒田泰裕・油津応援団代表取締役は、この公民館建設の資金集めに奔走した思い出を語ってくれた。

この公民館の隣には、またもや都会的な雰囲気のオープンスペースがある(下写真)。


写真撮影時は少しタイミングを逸したが、記者が最初に来た時には、中学生と見られる学生が大勢"たまって"いた。そこで、「こないだ、あいつさぁ!」などと話している風景は、とうてい、九州南東海岸近くの商店街とは思えなかった。

最初、このスペースには屋根があったそうだが、解体したという。日の光が入りやすい設計で、商店街全体の印象も明るくする意図だったとか。こうした印象の違いが、意外と集客を左右する。


◎IT企業と子供たちの声

そして、油津商店街の奇跡を象徴するのが、IT企業の誘致だ。最初に入って来たのが、東京にあるポート株式会社のサテライトオフィスだった(下写真)。


ここは昔、ブティック跡の店舗だった。このオフィスのデザインも、「日経ニューオフィス賞」「グッドデザイン賞」を受賞している。

IT企業進出の一つの要因として、行政スピードの早さがあった。

ある企業は当初、人口の少ない日南市へのオフィス展開を迷っていた。しかし、この懸念に対する役所への問い合わせに対して、「答えは(役所だから)半年後くらいに返って来るだろう」と思っていたにも関わらず、2週間で返ってきたので、驚いたという。それが、大きな決め手になったとか。

そしてこのIT企業の正面には、保育施設があった。ここから商店街には、常時、子供たちの声が響いている。

夕方になると、上記のIT企業などに勤めていた若いママたちが、子供を迎えにくる。商店街には、子連れで溢れる。

先述の黒田氏は「あんな風景、昔はなかった」と、嬉しそうに語ってくれた。


ここが、すれ違う人の多くは30代という、驚くほど若い街だ。

油津商店街の再生は、「商店街のためだけのもの」ではなかったのだとか。日南市全体の少子高齢化に対抗すべく、若者を集め、地域を支える人材を輩出するという「大義」があった。それがまた、多くの協力者を呼んだのだという。

たった200メートルの中に、地方創生へのヒントが、ぎっしりと詰め込まれている。(馬場光太郎)

(「TheLibertyWeb」誌5月号より引用)