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自然法爾 じねんほうに

2021年08月25日 17時20分54秒 | 南無阿弥陀仏
「自然」といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからひにあらず、
「然」といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者の
はからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。「法爾」とい
ふは、この如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふなり。法
爾はこの御ちかひなりけるゆゑに、およそ行者のはからひのなきをもつて、こ
の法の徳のゆゑにしからしむといふなり。すべて、ひとのはじめてはからはざ
るなり。このゆゑに、義なきを義とすとしるべしとなり。
「自然」といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。弥陀仏の御ち
かひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたま
ひて迎へんと、はからはせたまひたるによりて、行者のよからんとも、あしか
らんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。
ちかひのやうは、無上仏にならしめんと誓ひたまへるなり。無上仏と申すは、
かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆゑに、自然とは申すなり。
かたちましますとしめすときには、無上涅槃とは申さず。かたちもましまさぬ
やうをしらせんとて、はじめて弥陀仏と申すとぞ、ききならひて候ふ。
弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり。この道理をこころえつるのちには、
この自然のことはつねに沙汰すべきにはあらざるなり。つねに自然を沙汰せ
ば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし。これは仏智の不
 思議にてあるなるべし。

              
現代語訳 

自然法爾 じねんほうに

 自然の自は、おのずからということであります。人の側のはからいではありません。自然とは、そのようにさせる、という言葉であります。そのようにさせるというのは、人の側のはからいではありません。それは如来のお誓いでありますから、法爾といいます。法爾というのは如来のお誓いでありますから、だからそのようにさせる、とい うことをそのまま法爾というのであります。また、法爾である如来のお誓いの徳につ つまれるために、およそ人のはからいはなくなりますから、これをそのようにさせる、といいます。これがわかってはじめて、すべての人ははからわなくなるのであります。ですから、義の捨てられていることが義である、と知らねぼならないといわれます。言葉をかえていいますと、自然というのは、元来そのようにさせる、という言葉であります。阿弥陀仏のお誓いは、もともと人がはからいを離れて、南無阿弥陀仏、と仏をたのみたてまつるとき、これを迎えいれようとおはからいになったのですから、人がみずからのはからいを捨てて、善いとも悪いともはからわないことを自然というのである、と聞いています。如来のお誓いのかなめは、念仏の人をこの上ない仏にさせよう、とお誓いになったことであります。この上ない仏といいますのは、形もおありになりません。形もおありにならないから、自然というのであります。形が おありになるように示すときには、如来のさとりを、この上ないものとはいいません。形もおありにならないわけを知らせようとしてとくに、阿弥陀仏、と申しあげると聞き習っています。阿弥陀仏、というのは、自然ということを知らせようとする手だてであります。この道理がわかれば、この自然のことを、常にとやかくいう必要はありません。いつも自然ということをとやかくいうならば、義の捨てられていることが義である、ということさえがなおはからいとなるでしょう。これは如来の智慧が、人の智慧のとどかないものであることを示すものです。