誰でも自由なこころで 時代小説「かもうな」掲載中

江戸時代の仙臺藩髙橋家に養子に入った治郎の生涯を愛馬のすず風を通して描いた作品です。時代考は本当に大変でした。

かもうな 集約(8)

2024年03月02日 15時32分00秒 | 日記

かもうな

思わず治郎はその子馬に駆け寄り頬釣りをした。子馬は治郎が来るのをまるで待っていたかの

ように軀を治郎に預けた。運命とはどのような出会いを生むか分からない。神はすず風と言う

駿馬を治郎に授けたのである。馬を飼うについて養父時右衛門は一つだけ治郎に約束させた。

すず風の手入れはすべて次郎が行うこと、只それだけであった。それからの治郎は常にすず風

と共にあった。夜は厩舎ですず風と寝、朝起きては水やり、飼葉を与え、毛並みを整え周囲を

散歩する日課が続いた。月日が巡るのは早いものである。宝暦2年(1752)次郎は19歳の凛々し

い青年、すず風は逞しい6歳駒にと成長していた。子馬の時には目立たなかった白い七班がくっ

きり見えて際立っている。

幸福をもたらす馬

幸福をもたらすという”七班”とは

宮城県塩竈市に奥州一宮 塩竈神社が鎮座している。春には桜が咲き誇り花見客でも賑わう

ところでもある。そこに”七班”由来の幸福をもたらすと言う御神馬の由来がある。

では七班とは何を称するのかと疑問が湧くのではないのでしょうか。七班とは馬の特徴を表

しており、上の御神馬金龍号の写真ををご覧頂きたい。白の模様が七ッあるのが分かるかと

思います。つまり、鼻筋に一、舌筋に一、四脚に四、尾尻に一の白い班で、この班がある馬

は非常に珍しく「才馬」とも呼ばれ、よく神社などにも奉納される特別な馬になりまさす。

 

塩竈神社御神馬略記には、文和5年(1356)奥州探題によって寄進され、延宝3年伊達四代の

綱村公から伊達家が寄進し十三代伊達慶邦公まで続いたと記載されています。残念ながら馬

の需要が減り昭和55年宮城県鳴子町で参し奉納された「金龍号」が最後となりました。

 

運命とは不思議なものである。もし治郎との出会いが無かったらすず風は、おそらく一生駄

馬として苦難の道を歩んだことであろう。運命の神は治郎に駄馬を与え駿馬にする試練を与

えた相違ない。

集約(9)に続く

 


かもうな 集約(7)

2024年03月02日 11時23分57秒 | 日記

かもうな

すず風

江戸時代の仙臺は良馬の生産地だったことは余り知られていない。

城下の辻の下(芭蕉の辻)から国分町にかけての馬市は近隣在郷から遠くの在郷

などから馬を連れて市にかける。それを「仙臺馬市」と呼び、市は毎年3月上旬

から4月上旬まで国分町を上、中、下と分かれて、一日交代で開催される。

仙臺藩では藩行政の大きな柱として「仙臺産馬仕法」を定め、勘定奉行の支配下

に馬生産方なる役目を置き、二歳馬の登録、馬市の開催を奨励したとある。

説明が長くなったがこれが現代では考えられない数百年前の仙臺の姿である。

 

養子に入ってからはや4年が過ぎ、寛延元年(1748)治郎は15歳になった。養父

時右衛門の訓導そして養母お豊の育愛をうけて治郎は利発な子に育っていた。

空だった髙橋家の馬の口(厩舎)には可愛い子馬「すず風」が繋がれていた。

寛延元年(1748)4月治郎は養父と共に恒例の馬市に来ていた。よく手入れ

の行き届いた馬、体格が良い馬には大勢の人が群がり品定めをしている。馬市

馬市の薄暗い北側路地を覗くと駄馬として売られるのだろうか薄汚れた馬たち

が数十頭が雑然と繋がれていた。手入れなどされていないその軀の馬毛には泥

汚物などがこびり付き独特な異臭を放っていた。その中の一頭の子馬が目に入

った。その子馬の左右の眼から涙が筋のように流れ一筋の帯になっていた。

それを見た次郎は一瞬金縛りにあったかのようにその場を動けなくなった。

 

養子入ってからはや4年、次郎は幼きながらも自分の境遇を甘受し、養父母の

前では泣き顔一つ見せずに生きていた。それは次郎とってもはや戻るべき道が

ないからである。もし戻ることができたなら治郎の人生は大きく変わったことだろう。

きっと治郎はこの子馬に幼き日の自分を見たのだろうか。白石を出る前の晩、

治郎は泣いた、父は泣くなという、母は思い切り泣けという、しかし父も泣いていた。

集約(8)に続く

 


かもうな 集約(6)

2024年03月01日 20時26分26秒 | 日記

かもうな

              「この子は親に似ず利発ものです。貴方さまのご教育次第では海にも山にもなると思います。

              どうぞ末永く可愛がって下さるようお願いを申し上げます。」

              父の佐藤長十郎は目を潤ませながら頭を下げた。

              時右衛門が袱紗に包んだ金子百両を差し出すと長十郎は改まり

              「これでも武士でござる、金子を頂きましては最愛の子を売ることとなり申す。今回は大恩あ

              る宍戸さまのお声がかりでかくなる仕儀となり申したが。」

              膝の上の両手を握りしめ震わせながら泣くまいと必死で耐えていた。

              時右衛門夫婦も改めて畏まり

              「必ずや貴方さまの子を幸せに致します。仙臺に御用の折には是非我が家にお立ち寄りください。」

              長十郎は毅然として

              「いや 治郎とは縁を切ったも同然 これが最後の親としての務めでございます。親とは寂しいもので

              ございますなぁ。」

              時右衛門夫婦は言うべき言葉が見つからなかった。

              その後、時右衛門夫婦の懸命の説得もあって結局支度金二十両をことになった。

              最後の別れ

              長十郎家族は治郎との最後の時を過ごすため家族で鎌先温泉へと向かった。

              久しぶりに家族との温泉、これが治郎にとっての父母兄との今生の別れとなる。

              三人さっさと鎌先温泉

              白石堤のコスモスすすき

              あっくてふだふだ(豊富)旅籠のお風呂

              木ぼこ買って抱いて寝る

              治郎は父兄とふだふだな湯船に浸りながら、これから一人になるさびしさと我が身に

              おきるであろうさまざまな出来事が走馬灯のように思い浮かんでは消え、その寂しさ

              は一層とつのるのはどうしょうもなかった。湯ぶねに寄りかかり

              「熱い 熱い」

              と言いながら流れ落ちる涙を拭く治郎の健気さを受け止めるかのように父はしっかり

              と次郎を抱きしめるのであった。

 

               集約(7)「すず風」に続く

 

 

 


かもうな 集約(5)

2024年03月01日 15時56分42秒 | 日記

かもうな

              また白石城・歴史探訪ミュージアムには白石城についてこう記載している。

              「白石城は標高76メートル最頂部には本丸、中の丸、西曲輪、中段には沼ノ丸、南ノ丸、巽曲輪

              厩曲輪を置き丘の上に館堀川を巡らし、南は空堀で斥稜を切断、館堀川で隔てた」

              「平地には三ノ丸、外曲輪を配置した平山城である。本丸は高さ9メートル余の石垣の上に土塁を

              囲み、三階櫓、巽櫓、裏大手門、裏三階門を備え、御成御殿・表・奥の諸建物があった。

              二ノ丸以下はすべて土塁で囲み、木棚をまわして崖を利用する等中世を近世城郭を併用した縄張り

              であった」と記されている。

白石城

              大藩の多くが泰平の世に溺れ、武士たる者の本分を忘れ、武士の一分が形骸化されつつある

              世において白石藩士は「尚武の気風」を保ち続けた。

              ※「尚武の気風」とは、心身を強く持ち、勇気を持つこととある。さらに武を学び自己を確立

              し自立する大切さ言う。

              参考までに(有)フジックス社長はブログで「これには陰と陽があると解き、陽は武道の技、

              それだけではなく陰の精神を尊ぶ心がけが必要と説いている。」

 

              さて、白石藩士佐藤長十郎の屋敷は城から東の八幡山の麓で、南ノ丸のお堀近くにあり、至って

              質素な屋敷であったがその佇まいは白石武士の質実剛健な気風が感じられたものである。

              ここからは次郎左衛門を次郎と呼ぶ

              次郎は始めて逢う養父母に緊張しながらも正座をし

              「この度はわざわざ仙臺から私のためにお越しいただきありがとうございます。未熟者ですが

              これからもよろしくお願い申し上げます。」

              親に教えられたか淀みなく挨拶をしたが肩が震えていた。

              これからわが身に降りかかるであろう運命に抗うことができない無力さを感じていた。

 

              運命とは人智の及ぶ所也、宿命とは人智の及ばざる所也。これを合わせて天命という。

              論語には「子曰く、吾十有五にして學の道に志し、三十にして立つ、四十にして惑わず

              五十にして天命を知る。六十にして耳順(したがう)とある。

              果たして次郎が天命を知るのは何時のことであろうか。

               幼き頃から慣れ親しんだ白石の町、ホタルが乱舞する清流、雪を冠った蔵王連峰が次郎

              から離れようとしている。親兄弟と別れ観たこともない仙臺に暮らすことになるのだ。

              仙臺とはどんなところだろう。不安は波のように次郎に襲ってくる。

 

              次郎の父長十郎は決して時右衛門に金銭を求めることはしなかった。

              愛おしそうに次郎の頭をなでながら

 

                                 集約(6)に続く

 

 

 

       

 

 


かもうな 集約(4)

2024年03月01日 13時52分04秒 | 日記

かもうな

             内容はこうである。

             寛保3年(1743)不審火により白石城勘定所が焼け保管してあった諸記録が消失すると

             いう事件があった。白石藩主片倉小十郎村兼の時である。

             当時、勘定方役であった佐藤長十郎が職務がら忘備録を記していたことが幸いしてその

             上役である宍戸七郎右衛門の首が繋がったこと、さらに長十郎の律儀さを褒め、その子

             ならばと言う文面であった。

             かねてより宍戸七郎右衛門の高潔な人柄を高く評価していた時右衛門夫婦は即座に白石

             と向かうのだった。

              仙臺藩道中物語「上り新道中歌往来」から抜粋するとこのような歌がある。

             長町や中田増田も速過ぎて 岩沼御経たて八楠木

             船迫こゆる荷物は大河原 さけた財布も思い金ケ崎

             宮てのむ酒は白石斎川 水おも入れずこす河の関

 

                                              また東北の街道「大藩の気風」には

             仙臺藩何事についても統制の厳しい大藩である。藩境には越河宿(こすごう)宿があり堺

             目足軽が集在し、藩境を超える人・者の改を行っていた。

             藩主の参勤交代時にはここまで重臣が送り迎えし、仙台城下までの各宿駅には重臣や家臣

             が班を編成し詰めたとある。

 

             孫太郎虫(へびやトンボの幼虫を干して疳(かん)の薬とする)で有名な斎川を過ぎると

             片倉小十郎の城下に近づく。

              時右衛門の夫婦は仙臺城下から南に長町宿、中田宿、増田宿、岩沼宿、槻木宿、船迫宿、

             大河原宿、金ケ崎宿、宮宿、斎川を経て白石城下に到着したのは延亮3年7月5日四ッ時(午前

             10時)頃であった。

              時右衛門は道中日誌にこのように記載している。 

             「奥州街道を上りて白石に行たるところに金ケ崎宿あり、白石藩足軽ども常駐し伝馬役を努め

             その屋敷の門、みな白石方向に向きたるなり、しかるに百姓どもの門は仙臺方向に向きたるなり

             まことに面白き宿なり。 またこの地には白鳥を神の使いとして尊ぶ風習あり、その碑、寛文13

             年(1673)及び元禄12年(1699)の二碑を見たり」

 

             さてこの辺で簡単に白石藩を紹介したい。

             「伊達軍団の弓取りたち」から引用するとこう書いてある。

             片倉小十郎景綱といえば、政宗の幕営にあって知識の聞こえ高かった名参謀して名高い。

             梵天丸といった政宗の幼少時代縛り役(おもりやく)として訓導し、長じてその帷幕の軍師と

             なって陰に陽に政宗を訓導した人物である。

 

                                集約(5)に続く