私は五木寛之さんの「青春の門」に出てくる蜘蛛の陣十郎に似ているなあと勝手に思っていました。
豪放磊落で物怖じしない人のために尽くした立派な人物でした。
33年経った今でも地域の人は父の存在をしっかりと覚えてくれていると思います。
知力、体力ともに恵まれた傑物でした。
美術が得意で、趣味は彫刻でした。
台風で倒れた原生林の樹齢千年以上の株を板にしてもらい、衝立てや欄間の飾りや花台などを彫っていました。
高さが1.5メートル、幅が2メートルほどの板に宮本武蔵が描いた達磨を彫るのが大好きで、2基ほど完成させていました。
観音様も好きで経文と組み合わせて彫ってみたり、家康の家訓なども書のたしなみもあったので、それは見事に彫り上げていました。
「素晴らしいですねえ~分けてほしいです!」と言われれば惜しげもなく差し上げていました。
家には大きなものは何一つ残っていません。
退職してゆっくりと時間があるから、何時でも出来ると考えていたようです。
市会議員の任期半ばで肺ガンに倒れてしまい、体格のよい丈夫な人だったので進行が速く気づいた時には手後れになっていました。
入院した時には桃の大きさにまでなっていて、出来た場所が悪く何の手当てもできないまま3ヶ月の闘病で亡くなりました。
父を慕って教え子たちがよくお参りに来てくれていました。
お世話になった~、助けてもらったと、父が亡くなって30年近く経つのに、お盆になると自分で育てたスイカやお供えを持って必ずお見えになる方が2人いました。
いかに親身な付き合いをしていたか私はいつも感銘を受けていました。
面倒見の良い親分肌の素晴らしい人だった証拠を見る思いでしたからね~
父が亡くなって、5・6年過ぎた夏の夕暮れのことです。
まだ日が長く、明るかった記憶があります。
自転車が止まり、30歳くらいの男性が門家に入ってきました。
手には大きな風呂敷き包みをぶら提げています。
「ごめんください~」という声に「はい!」と私が応対に出ました。
とたんに「森田○○先生はご在宅ですか」という問いかけに
「えっ?父ですか~?」と思わず口走ってしまいました。
父が亡くなって5年以上も経っているのに、○○先生ご在宅ですかっていうのは、「押し売りだ~

小豆相場を勧めたり、株の話を持ってきたり退職金を狙っての勧誘話でやってくる教え子となのる胡散臭い輩が退職後間もない時にとても多かったのです。
「ほんとうに教え子なら亡くなった事を知らないはずはない!」とすばやく心の中で反応しました。
私は努めて冷静に「父はもういませんけど・・・・」と相手の出方を伺いました。
すると男性は、風呂敷きを広げ始めます。
何をするのだと無言で眺めていると、見覚えのあるチョコレート色の紙の箱が見えてきました。
飛鳥寺の杏眼の大仏のお顔が好きで何日も通い、あの切れ長の目が表現できないかと苦心し研究し、得心の行くまで通い心に焼き付け、憑かれたように同じ仏面ばかりを彫り続けた時期がありました。
出来たと思うと私のレース編みの作品のように惜しげもなく「持って帰り~!」と気前良く差し上げる父でした。
亡くなる2・3年は飛鳥大仏のお顔専門に彫刻していましたので、制作数は定かではありません。
我が家と実家にも飾っています。
その仏面を入れてお渡しする箱も凝り性の父は誂えていました。
その箱なのです。
もう父がいなくなってから久しく見てなかったけど、すぐ分かりました。
「どうしたのでしょう?」と聞くと
「お返しに来ました。家に帰りたいと、この面が言いますので・・・」
その人の話によれば、2歳になる一人娘が熱病にかかり、座薬を使っても注射しても熱が下がらず、脱水症状がひどく衰弱してきたそうです。
仕方なく神様に見てもらったら、「この部屋の壁にかかっているものが元に戻してくれと願っている

家に帰って見ると仏面が掛けてあったので、これは結婚で新築した時に実家の母親にもらったものだとわかり、母親に訊ねて即恐いのでお返しに来ましたということでした。
いろいろと連絡を取っている間に娘が元気になってきたそうです。
新興宗教を信仰する家で音がうるさく居場所が気に入らなかったと後で分かりました。
自分が得心であげた田植えの手伝いに毎年見える母親の家ならよかったのでしょうが、静かな落着きがほしかったのでしょう。
我が家においておくのも魂のこもった仏面なので、飛鳥寺に納めに行きました。
あとはそれ以来どの仏面も帰ってきていません。
お父さん、どう思います?
こんなことも大和の家であったのですよ。