静かに淡々と (2006-11-13 の自分史より)
2番目の赴任校は私生活を見られるのはマイナスだと思って、
隣の市を選びました。
地方の商業都市として栄えた町でした。
本物の暴力団の抗争があったり、タオルや靴下などの
中小企業の多いところです。
血気盛んな大人の集まりだと感じました。
父親が刑務所に入っているって言う家庭も何人か聞いたことがあり、
組長の息子が入学したと言うドラマのような
出来事にも出会いました。
花畑など持つ余裕もない家庭がひしめいているかと思えば、
檜作りの門構えの大きな家だったり、
貧富の差の大きな町でした。
32歳で義父が亡くなり、私のよき理解者であった義父との別れは
家庭生活の前途が真っ暗だと感じた時でもありました。
「3人の男児の孫が出来て、家は万・万歳だ」
という言葉を良く聞いた年でした。
あまり喜びすぎると、ろくな事はないようです。
しかし、安心してくださったことも確かです。
大学2年の夏、一万人に一人助かればいいという難病に罹り、
あと3ヶ月と余命宣告を受けた長男が 無事に後継者となり
元気な孫が3人も授かったのですからね!
義父が喜ぶのも無理はありません。
常に不足の固まりの母を説得できるのは義父だけでしたから、
これから我が家はどうなるのかと案じていました。
連れ合いと取り留めのないことを話しながら笑顔でいると、
「そりゃあ、お前らは楽しかろう~?」とすぐにクレームが入ります。
連れ合いも母と私の間に立って どちらの見方も出来ずに
これからは一つも二つも苦労が増えるのです。
出来るだけ腹立ちは渡り廊下の壁を蹴飛ばすことで解消してきました。
言い出すと私の性格として 決定的に負けず嫌いになり取り返しがつかなくなるし、
じっと忍の一字を通し続けました。
だから、義母から見たら何も反論出来ない弱い嫁だと
思われていたのかもしれません。
エネルギーは生徒のために消耗させていました。
その反動は学校の職場で思い通りに活動することで解消していました。
これも癒しの出会いではないけれど、マイナスをプラスの
良い出会いに変えたのかもしれませんね。
学校こそが楽しい解放された自分を表現できる場所だと思い、
家は癒しではなく本来の勤め場所だと思い込んでいたのです。
学校の荒れや揺れにもびくともしない、ドンとコイや~と楽しむ姿勢を
貫き通せましたから、良い出会いだったと今では思えます。
頼みにしていた義父との別れも連れ合いが週1回のお墓参りを
それ以来ず~っと続けるようになって、家計を思う主婦の感覚から
土地があるのだから花を栽培しようと思い立ちました。
毎月のお墓参りの花代が月4回で1万2千円以上かかります。
それを苗代と球根代に当てて、30年園芸を続けましたから、たっぷりと
学校の美化にも役立てることが出来ました。
その時はいろんな意味も分からずに過ごしてきたことが、後になって
大きな意味が含まれていたのだと合点でき、無駄なことは人生には
一つもないのだと悟れました。
これも大きな癒しの出会いだったと位置づけたいです。
園芸歴30年を過ごせたからこそ雨続きの年も日照りの年も山の緑は
枯れることなく青々とたくましいことに気づき、野草の可憐さと
たくましさに魅力を感じ始めたのです。
母の介護が始まって奈良の家を半月離れている間に、家人が水遣りを
してくれていたのに、アジサイなどは次々に枯れていきました。
700鉢ほどあった庭の花も5年間で半数は枯らしました。
趣味の違いだから家人を責める訳ではないけれど、阿蘇の野草に
心惹かれるようにと進んできたのです。
これも自然の推移でした。
すべてが必然のように思えています。
なってくることを喜べる心がうれしいとまたそれは喜びに連なり
喜びはエンドレスなんですよね!
静かに来し方を偲び、行く末に思いを馳せる ゆったりとした時間を持てる
今の境遇を感謝せずにはいられません。
静かに淡々と激動の合間を優しく癒してくれた人や花や教え子に
焦点を当ててまとめてみたいと思っています。
しばらくお付き合いくださいね。
続きは明日~
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