

月曜日
「経師遭いやすく、人師遇い難し」 」(宋・司馬光撰・資治通鑑)
(世の中の知識の説明をする人はたくさんいるが、
人生の師となる人にはめったに逢えない)
キュリー夫人を語る15
◇ 創価女子短期大学 特別文化講座 キュリー夫人を語る 2008-2-8
理想主義から精神的な力が
一、牧口先生は、「遠大な理想をいだき、目的観を明確にしながら、身近な足もとから実践するのが正視眼的生活である」と訴えておられます。マリーは、この「正視眼」を持った女性でした。
のちに長女のイレーヌは、母マリーの結婚観は「生活のよき伴侶となれる夫が見つかったときにだけ、結婚すべきであるという考えでした」(内山敏訳『わが母マリー・キュリーの思い出』筑摩書房)と書いています。
さらにまた、マリーは、二女のエーヴに、このように書き送りました。
「わたしたちは理想主義のなかで、精神的な力を求めていくべきだと思います。
理想主義によって、わたしたちは思いあがることなく、自分のあこがれや夢の高みに達することもできるのです。
人生の関心のすべてを、恋愛のような激しい感情にゆだねるのは、期待はずれに終わると、わたしは思っています」(前掲、河野万里子訳)
真摯に人生を生き抜くなかで深めてきた恋愛観であり、結婚観であるといってよいでしょう。
この点、私の恩師の基準は明快でした。
「恋愛をしたことによって両方がよくなれば、それはいい恋愛だ」
「両方が駄目になってゆくようであれば、それは悪い恋愛だ」と。
信念を深く共有した結婚
一、マリーは自ら書いたピエールの伝記の中で、科学の発展に生涯を捧げた大学者パスツールの次の言葉を引いています。
「科学と平和とが無知と戦争とにうち勝つであろう」(渡辺慧訳『ピエル・キュリー伝』白水社)
この言葉は、二人の共通の信条とも言えるものでした。
信念を深く共有できたからこそ、ピエールとマリーは結婚を決めたのでありましょう。
結婚のため、マリーはずっとフランスで暮らすことになりましたが、ポーランドの実家の家族は、皆、心から祝福してくれました。
結婚という、人生の大きな決断をする際には、お父さんやお母さん、そして、よき先輩や友人と、よく相談して、皆から祝福される、賢明な新出発を心がけることが大切です。
ピエールとマリーの結婚は、1895年の7月26日でした。
結婚式は、親しい家族や友人だけで祝う清々しい集いでした。
豪華な衣装も、ごちそうも、結婚指輪もありませんでした。
二人とも、財産といえるようなものは何も持っていなかった。しかし、そこには誠実な心が光り、聡明な知恵が冴えわたっていました。
"新婚旅行"は、自転車に乗って、フランスの田園地帯を駆け回ることでした。
そして、多くはない収入でやりくりするための家計簿を買ったのです。
私と妻の結婚に際しても、恩師からアドバイスをいただいたことの一つは、「家計簿をつけること」でした。現実の生活を、一歩一歩、賢明に、堅実に固めていった人が、勝利者です。
マリーとピエールの二人の新生活は、めぼしい家具など何一つない、質素なアパートで始まりました。
「わたくしたちは、そこで生活し、そして仕事をすることのできる小さな一隅以上のものは望んでいませんでした」(木村彰一訳「キュリー自伝」、『人生の名著8』所収、大和書房)と、マリーは綴っています。
撰時抄277p
我が重ずる真言宗ひろめがたかりけるかのゆへに
本日本国にして習いたりし華厳宗をとりいだして
法華経にまされるよしを申しけり、
それも常の華厳宗に申すやうに申すならば
人信ずまじとやをぼしめしけん・
すこしいろをかえて
此れは大日経・竜猛菩薩の菩提心論・善無畏等の実義なりと
大妄語をひきそへたりけれども
天台宗の人人いたうとがめ申す事なし。