私の現在の職場は、外科病棟。各々の看護師の志も高く、敬服する毎日である。インセンティブ(学習意欲)もさることながら、知識や技術も今の私などは到底及ばない。しかし、残念ながらこの病棟、いや、この病院さながらの問題もあるように思う。
毎日が、知識術に対する学びの姿勢が前向きに感じられ、私自身もその必要性に駆られ、自分のペースではあるが何とか追いつこうと必死である。精神科から外科というまったく畑違いの職場に変わったために、もちろん指導もされる。指導にも色々な方法があろうが、私の視点から主観的に心地よく意欲の湧く指導、また感触が悪く意欲が湧くどころかその人の人間性を疑いたくなるような指導もある。指導に関しては、私的感情が入り自己満足の快感を得ようとする者がいても当然であるが、もう少し客観的に指導している自分を振り返ってはと一言言いたくなったりもするが・・・。
指導する側の人間のレベルはさておき、今日触れておきたい話題がある。その指導してくださる看護師も役職についている人間。知識も豊富で学びどころ満載である。しかし、その人をはじめ病棟全体を見渡したとき、この看護技術レベルにそぐわないレベルの存在に気付く。
※患者に安心感を与える関わり
である。単純にはコミュニケーションといっても良いかもしれない。当病棟の看護師は、知識と技術を身につけることばかりが先行し、【患者への安心させる関わり】を忘れているようにもみえる。確かに、Dr.に意見することができるような知識と技術を身につけるということは、一部私も求めていた環境ではある。しかし、以前の職場(精神科)で重要視されていた患者との関係・関わりがどうも希薄に感じられる。血液データや心電図他、患者情報をもとに患者の変化をいち早く発見し、優れた分析力の元にその患者に適した看護を提供することは、とても重要なことである。しかし、そういう病態の環境下にある患者との関わりで安心感を提供することは、それ以上に重要かもしれないということを私は声を大にして言いたい。
ターミナルであったり、高齢で今後どうなるかわからない患者、また、突然の病態の変化の時などで不安になっている患者にどのように関わるか。これこそが
※忘れてはならない看護の本質
ではないだろうか。
これは看護師と患者間の『時間』の長さではない、その限られた時間の中での『質』にある。多くの看護師は、コミュニケーションの『時間』を作ることに悩み苦しみ、現職に対しての疑念さえ抱く。だが、その前に、限られた時間の中でのコミュニケーションに対する『質』を忘れてはいないだろうか。体温を測定するときに無言で測定するのか。採決や吸引処置前後その外、一瞬一瞬で患者との会話の時間は万とあるではないか。私はこのことを全国の看護師に伝えたい。
今の私に圧倒的に足りないもの、それは外科病棟に求められる知識と技術である。これは、数年かけても必ず獲得する。その過程でも、今まで培ってきた看護師としての患者への関わりは、後回しにすることなく取り組んでゆきたい。
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前々職場は業務重視な雰囲気があって、その中で病院方針の医療事故を起こさないと言うのが有ったから、もちろんそれぞれが持つ意識の中に患者とのコミュニケーションを考えてない訳ではないだろうけれど、出来ない歯がゆさわ感じていた人も多かったんじゃないかな。前々職場も結構入れ替わり激しかったから・・・。ただ、確かに声掛けなど短時間でもコミュニケーションを取ることは出来るし、その一言で随分かんじゃの不安を癒すかあおるかも出来ますものね。私の場合、患者からの不安を必ずじっくり聞く時間をその場では取れなくても、その日の内に取るようにしていたので、自分に知らずと負担が掛かってきた部分が大きく、その部分を伝えたかったの。もっさんが伝えたかった部分はね了解です。
修正を加えましたのでよろしく。これで理解していただければ^^言葉足らずで申し訳なかったです。
なるほど。おっしゃることは良くわかりますが、私の感じているところは少し違うんですよね。確かに、患者との関わる時間を多く持ちたいが持つことができないという歯がゆさもありますが、これはどこの職場にでも多かれ少なかれあることだと思っていますし、自らがどのようにその時間を生み出していくかという部分では自分の課題としてもっているので悩んでいるというわけではないのです。
恥ずかしながら言葉足らずだったのか、ママチさんに伝わらなかったようですが、私が感じているのは、
☆多忙な業務の中であっても、どれだけ忙しくても声をかける場面がある。その数すくない会話の場面でどれだけのコミュニケーションが取れるか
なのです。時間ではなく、質を求めているのです。それを意識するかしないかだけでもかなり違うはずです。今の学習意欲に長けたナース達は、そのあたりの意識が欠けている要に思ったのです。お分かりいただけましたでしょうか。
しかし、今、重症患者を短期間で治療するこれらの病棟では、医療介助と処置、各種の監視モニターに神経を使う労働が続いています。ベットサイド・ナーシングはおろか、患者さんが声をかけるひまもないほど早く歩きまわるという業務が展開されています。そこで働く看護師もまた、"これが看護か!?”と悩んでいます。患者さんのかたわらで、看まもり、悩みをきき、励まし、世話をするという素朴な原点を実践できない悩みをかかえているのです。その看護がよいかどうかは、医師や看護師が評価するのではありません。患者さんが評価することです。』
*精神科看護のための50か条・・・2005.12.16 中沢正夫 著 1条 精神科看護の光と影より*
確か、kaisaさんの所に遊びに来ていた、ぼやくさんが薦めていた本で早速私も購入したように思います。
もう7ヶ月前になりましたが、私が脳外で感じていたこと、退職のきっかけになつたことがそのまま論じられていて、ちょっとショックを受けた部分です。
もっさんは私の逆パターンで、この文章と同じ印象を持っているのですね。
私の前々職場も個々に自己研鑽意欲がとても強く、もちろん個々以上に職場が学習意欲を掻き立ててくれる部分も大きかったように思います。自分のブログにも書き込んでいますが、自分のスキルアップとして患者さんの訴えに意に反して関わりを薄くし、業務処理に没頭することを選択するのか、それとも原点であり本質の看護を追求するのか。両方出来ることは一番の理想ですが、哀しいかな、学習・研鑽意欲の高い職場・スタッフの多い場所は、もっさんが感じている様な現状があるのです。私は自分の出来る限りの時間を使って、これからもっさんが目指そうとしていることをやってきました。・・・その結果、看護記録やNCPの評価と言った後回し業務に追われ、帰宅が22時を過ぎる日が続きとても家庭との両立が出来ない・・・とダウンしてしまいました。
本当に大きな課題だと思います。これからもっさんがどのように勤務時間を駆使してもっさんの思う看護が実践されていくのかを期待して、ブログを拝見させてもらおうと思っています。
長くなりましたが・・・自分の身体も、自分の家族も大切にしてくださいね。