いつだったか・・・。
誰だったかに・・・。
「恋と愛のちがいってなんだろう」
と、とわれたことがあった。
いまさら憂生の私感をかく必要もないんだけど・・・。
ココ最近。
ちょっと、思うことがあったんで・・。
書いてみることにする。
まあ、簡単に言うと漢字の造りにすでに、
答えが出ていると思ったので
応えなかったのである。
漢字の中の「心」の場所。
恋は「心」自体を基礎・土台にしている。
亦は「またも」と、読む。
つまり心の有様の別の面イコール「またも」ということであると、解釈している。
心が土台であるということは、ひいては、「恋」は
心という世界の中の心象事情である。
ところが愛は・・・。
冬の上の部分。すいとよむそうであるが、
これが、残念なことにこのワードの中では
変換できない。
で、「すい」と、かいておくが、
これは地に足をつけて、ゆっくり歩んでる様を
表すのである。
つまり、恋は心の中だけの動き。
愛は現実に地に足をつけて、
心を動かしているのである。
「すい」の上の部分の意は本来「物を贈る」
アイという別の字の代わりにあてはめられたようである。
「愛」と、言うものはシッカリ現実に根ざし
相手になにかを贈ると言うことなのである。
なにか・・・。
何をおくるだろう?
一番人間に必要なもの。
「生きてゆくのに、必要なもの」
これを相手に贈るということは
共に生活してゆくこともふくまれてゆくのではないか?
ウ冠とは言わない部首であるが、愛の字には
家の屋根を表す部首がある。
相手の生活/人生を支えてゆく。
こういう心を地につけて、
歩んで行くのが、愛である気がする。
うがってみれば、
愛と言う字には
「責任」が、隠れている。
恋は己の心象事情。
地に足をつけることはうたわれず、
責任もとわれないだろう。
恋と愛のちがい。
責任?のあるなし。
と、解釈するはいかにも、
極論であるが、
憂生はふと、そんなことを思った。
おっと。
まちがいなさんなよ。
だからといって、恋が良いとか、悪いとか言ってるんじゃない。
ただ、憂生風恋と愛の違いの完全独断解釈でしかない。
このほかに
恋は「来い」という心。
愛は「逢い」に行くという心。
自分に引っ張る心と、
相手に渡そうとする心と、いう
言葉の持つ字音の語呂合わせ解釈もあることを付加しておく。