
・・・変格の自己論・・・
ヴァイシェーシカ学派、ニヤーヤ学派は、はじめにうちは、自己は、知覚によってではなく、推論によってその存在を知ることができるとした。
ところが、両者が融合して出来た新論理学派の時代になってから、自己は知覚の対象であるというのが定説となった。なぜそうなったのか、今のところ判然としない。
もしかすると、ヨーガ行者は、行じているときに到達する特殊な境地のなかで自己をじかに知る、という話(『ヴァイシェーシカ・スートラ』九・一三)が、知覚論一般のなかに組み込まれたためかもしれない。
しかし、いずれにせよ、そうした定説は、変格の自己論と位置づけることができるであろう。
宮元 啓一 『インド哲学七つの難問 (講談社選書メチエ)
・・・外から世界を見る者・・・
自己が世界の外にあるということを、ヤージュニャヴァルキヤは、つぎのようにも語っている。
〔自己は〕見られることがなく見る者であり、聞かれることがなく聞く者であり、思考されることがなく思考する者であり、知られることがなく知る者である。
これより別に見る者はなく、これより別に聞く者はなく、これより別に思考する者はなく、これより別に知る者はない。
これがなんじの自己であり、内制者であり、不死なるものである。これより別のものは苦しみに陥っている。
(『ブリハッドアーラニヤカ・ウパニシャッド』三・七・二三)
したがって、自己は、世界の外にあって世界を見る者であり、世界の側から見られることはけっしてないということになる。
・・・自己は「見る者」・・・
こうした考えは、そのままサーンキヤ哲学の自己論になる。サーンキヤ哲学では、精神原理である自己は、非精神原理(ここから流出したものが世界である)の外にあって、これをじっと見る者だとされる。
このことを、サーンキヤ哲学は、観客(男)と踊り子(女)の譬えで説明する。すなわち、自己である観客は、世界である踊り子をじっと見ているのであり、踊り子がじっと見られているのである。
自己が世界を見るのをやめたとき、みずからの役割を果たし終えたとして世界は活動を停止し、非精神原理へと収束する。
このとき世界は解脱し(輪廻転生がやみ)、自己は独在に入るとされる。
ヤージュニャヴァルキヤの自己論の核心を正確に継承したこのサーンキヤ哲学の自己論を、今度は八世紀、ヴェーダーンタ哲学を不二一元論(幻影論的一元論)で一新したシャンカラが、巧みに自らの自己論に取り込んだ。
シャンカラは自己は見る者であることを強調するため、しばしば自己を「見ること」(ドリシ)と表現した。
もちろん、シャンカラにとって、自己は世界の外にある。自己のみが真実在であり、世界は幻影なのである。自己は世界を見るが、世界は自己を見ることがない。幻影の世界を成り立たせている無明(根本的無知)が取り払われたとき、世界は消滅し、自己のみがひとり残る。
このように見ると、こうした自己論は、大乗仏教の唯識説を彷彿させることがわかる。
四世紀にヴァスバンドゥ(世親)よって完成された唯識説では、識(心)が虚妄分別(無明)のために自己分裂し、見る者である見分と見られる世界である相分とが流出するのだとされる。
唯識説は、公式には自己の存在を認めない無我説を前提としているので、「自己」ということはいわないが、素直に考えれば、相分である世界を見る見分の背後に、真実在としての「見る者」を想定していることは疑いない。
見分、相分として分裂して展開している世界は虚妄分別の所産にすぎず、虚妄分別を取り去って究極的な無分別知を得れば、世界は消滅し、人は、その真実在のうちで自己完結した存在となる。と、このように見れば、唯識論は、じつは、ヤージュニャヴァルキヤの自己論を「自己」ということば抜きに、きわめて忠実に継承したものであることが判明する。
唯識論までいって、仏教は、開祖ゴータマ・ブッダを飛び越えて、はるか昔へと先祖返りしてしまっているのである。仏教学者たちはこの事実をどう考えるのであろうか。
そして、ここまでわかればすでに明白であろう。シャンカラは何かと不備な旧来のヴェーダーンタ哲学(流出論的一元論)を一新するために、唯識説とサーンキヤ哲学から大量にアイデアを取り込んだが、これは、ほかでもなく、唯識説もサーンキヤ哲学も、ヤージュニャヴァルキヤの自己論、世界論を、ほかのどの哲学よりも忠実に継承したものだからなのである。
・・・本格の自己論と変格の自己論・・・
流出論ではなく新造論に立つヴァイシェーシカ哲学などの自己論、世界論は、そうした意味ではかなり変格である。自己は世界内あり、自己を含む世界をそういうものとして照らし出す超越的存在を認めない。
とくに、ヴァイシェーシカ哲学の実在論の体系は、世界を論理空間(ヴィヤヴァハーラ)として捉えるので、その「外」を語ることを堅く禁じているのである。
ただ、こうした変格の自己論も、本格の自己論から説明をつけることは不可能ではない。すなわち、変格の自己論の自己は、世界(模様入りのフィルムと考えてみる)を透かし通して鏡のようなものに移し出された写像の自己であると考えてみればよいのである。
その鏡のようなものには世界も映し出されているので、写像の自己は世界の内にある。鏡のようなものにある写像の世界と写像の自己は、同時に成立しているのであるから、一方が他方を照らし出すという関係にない。
世界のなかには心身も含まれるから、自己は心身と異なるとはいえ、心身との結びつきによって、写像の自己は、当然ながら多数性を帯びて輪廻転生する。こう見ると、一元論を展開するヴェーダーンタ哲学が「個我」と呼んでいるものは、じつは写像の自己にほかならないことになる。
これを図で示せば図1のようになる。
以上の考察から、つぎのことがいえる。
語りえぬものがある、という見解をベースに据えた考え方を神秘主義というならば、ヤージュニャヴァルキヤは明らかに神秘主義者である。
しかし、彼の自己論は、体験ではなく、強固な論理に裏打ちされながら、徹底的に考察しつくされたものであり、その意味できわめて合理主義的である。
かれの自己論は、仏教をも含むインド哲学界に決定的に強い影響を及ぼした。かれの自己論を本格としてみると、ヴァイシェーシカ哲学など、実在論哲学における自己論は変格といえるが、その変格も、本格の射程内に入るのである。
こうした理解を通してみると、ヤージュニャヴァルキヤの「自己の哲学」が、完成度が高いことが、改めて認識されることになる。
宮元 啓一 『インド哲学七つの難問 (講談社選書メチエ)
われわれは新聞に掲載された論説を読むが、(新聞)紙そのものについては何も知ろうとしたがらない。
われわれが手に取るのは、もみがらであって中身ではない。その上にすべてが印刷されている土台が紙であり、われわれが土台を知れば、すべての他のものも知られるだろう。
一者だけがサット(sat)、存在であり、それが紙である。一方、世界、われわれが見るものとわれわれ自身が、印刷された言葉である。
この外部の宇宙は真我を実現した人にとってはシネマ・ショーだ。それは勝手に上映されており、昼となく夜となく上映されつづける!
真我を実現した人は、あたかも普通の人びとが劇場でのスクリーン上のシーンや登場人物が架空のものであり、現実の生活の中に存在するものではないことを知っているように、世界の中で対象物や身体(人びと)が架空の外観であることを知りながら生活し仕事をする。
しかし、普通の人びとは日々の生活の中で外部の対象物を実在として受け取る。
真我を実現した人は、それらのものを架空のシネマの映像としてだけ見ているのだが。
ラマナ・マハルシ 『 不滅の意識―ラマナ・マハルシとの会話
あなたはスクリーンです。真我はエゴを創造します。エゴはその想念をもち、それが映画の映像のように世界に展開されます。そしてこれらの想念が世界です。
しかし、実在の中には真我以外の何ものもありません。すべてはエゴの投影です。
映画の映像は動きますが、それをつかまえて離さないようにしようと試みなさい!
あなたは何をつかまえますか。スクリーンだけです!映像は消滅させなさい。そして何が残りますか。またしてもスクリーンです。
そしてそれはここにあります。世界が現れたときにさえジニャーナは真我の顕現としてそれだけを見ます。
五感を通じて機能している一つの心だけがあります。それらを通じて作用している一つの力があります。
そしてそれらの作用は始まりそして終わります。それらの活動がそれに依存している土台、単一の土台がなくてはなりません。
ラマナ・マハルシ 『 不滅の意識―ラマナ・マハルシとの会話
