何年前だったかなあ、テレビを見てたら突然ニュースになった。なにやら爆発している?!あらまあ!
アメリカの話だと言うことだから我が家にはアメリカの親戚が何人かいるので少し心配したが、全員カリフォルニアにいると言うことで安心した。のも、つかの間、被害がどんどん報道される。大きなビルに飛行機が突っ込むとこんなことになるんだ!
地震でも台風でもない、とにかく人的な災害。そして、その高いビルから逃げるのがどれほど大変な事か。当時、高層ビルに上がるのがちょっと怖かった。が、人ってすごいねえ。段々にあの映像を見た衝撃を忘れていく。30数階のビルも平気で上がるようになり、あべのハルカスや東京スカイツリーなんかにも何の抵抗もなく上がれるように。
そして、今朝、夫が「忘れてたけど昨日、911やったね」と言った。そうだなあ。忘れてたなあ。
多分、阪神淡路大震災のことも、忘れている、いや、忘れてないけど、あの時の辛かった思いをずーっと覚えてるけど、日常のなかにいい感じに埋没してしまっている。たまに、市役所そばの公園にある震災モニュメント、亡くなった人たちの銘板の側を通る時、必ず地下を通るようにしている。噴水の水が落ちてくる外の日差しを取り込んだその空間は、まだ当時の空気を大切に湛えている。
人間は忘れる生き物であるという。耐えられないくらい辛い思いも、苦しい気持ちも、時間が少しずつ溶かして行って淡いトーンの思い出になっていく。だから、生きていける。
父の写真のそばに置いてある過去帳には父の弟たちの名前が記してある。2歳、2歳、10ヶ月。父が5歳の時に下の弟が亡くなり、8歳の時に2歳の弟が、その一ヶ月後に10ヶ月の弟が亡くなっている。小さな弟達の賑やかな笑い声や泣き声が絶えなかった家が、その春に小さな骸を2つ送り出さなくてはならなかった。その時の親である私の祖父母や父はどんな気持ちであったろう。
父はとにかくマメに墓参りに行く人だった。弟達にいつも会いに行くようだった。
奇しくも、その年に日本は真珠湾攻撃をきっかけに太平洋戦争に突入していく。
そして、終戦の年、父の家族は揃って満洲からの引き揚げ船に乗り神戸に降り立った。
当時の写真があるが、闇市をきっかけに食堂を開店した祖父母の笑顔の写真がある。まだ、戦争の跡が残っている神戸の商店街の風景だ。人は辛い思いをしても次に向かって笑顔で進める強い生き物なんだな、と思う一葉だった。
月末にはこの写真達も全部処分しなくちゃいけません!記念に残す数枚を選んでいるところです。父はもう捨てたら?!と言いそうだけど。