ぎょうりやま

かいちょうさんの日記

動かぬ心

2018年05月31日 | 日記
講社祭
鯛が献饌された
以前は安物の開きだった
野菜も新鮮な物ばかりだ
セールの安物は一つも無い

直会にお茶が出された
色合いも良く
風味のある新茶だ
以前は色も味もない白湯同然のお茶であった

嫁いだ長女
子宮全摘の診断が下されたと言う

この講社祭宅の主人も身上である

妊娠している末の娘
高齢出産なので心配だと言う

内孫の成長が遅すぎる
心配である

喉元過ぎれば熱さ忘れる
身上事情が解決する
あっと言う間に元の心に戻ってしまう
誰でもそうだと思う
そして何度も神様に仕込まれる

順調に行っている時こそ
シッカリと神様の御用をさせて頂かねばならん

大事な事は「動かぬ心」である







月次祭の理

2018年05月22日 | 日記
二十六日というは、始めた理と治まりた理と、理は一つである


 このお言葉は本部月次祭がなぜ二十六日に執り行われるのかという意味を教えられたものです。「始めた理」というのは天保九年十月二十六日の立教を指し、「治まりた理」とは明治二十年一月二十六日、教祖が定命を二十五年縮めて身を隠された事を意味しています。つまり、教祖が「月日のやしろとなられた理」と教祖が「身を隠された理」は同じだという意味です。では、何が同じかと言うならば、「世界一列の子共を一日も早く救けあげたい」という親神様の止むにやまれぬ思いなのであります。世界中の人間をひとり残らず助け上げたい。それが立教の元一日であり、教祖が二十五年定命を縮めて身を隠されたのも、同じ思いからなのであります。これは秋の大祭の意義であり、春の大祭の意義でもあります。そして毎月二十六日にご本部で祭典が執り行われるのは、この「二十六日の理」が託されて執り行われているのだという事が理解されると思います。

 さて、全国の教会では毎月、月次祭が執り行われます。それはご本部で執り行われる「二十六日の理」を受け、その理を頂いて国々所々で勤められる祭典なのであります。ですから親神様の世界たすけの上では最も大事な勤めだと言う事をシッカリと心に治めておかなければなりません。簡単に言えば、月次祭を外してはどんな勤めも意味を持たないという事になります。いんねんを納消し、運命を変えて頂く為には絶対に欠かす事の出来ない勤めなのであります。

 私達の教会では毎月十五日が月次祭の日と決められています。これは勝手に決めたのではなく、おぢばで存命の教祖からお許しを頂いた日であります。つまり「二十六日の理」が我が教会では「十五日」の祭典に託されているわけです。親神様の世界たすけへの熱い思いを形に現す日、それが「十五日」の祭典日として許されているのであります。我が教会のすべての行事や勤めが「十五日」を軸に決定されるのも、その為です。十五日は会社を休んでも月次祭を勤めよ、と言っているのも、これが信仰の要だからなのです。

 月次祭を決して欠かしてはいけないと良く言いますが、それは立教の元一日と教祖御存命の理の元一日の理が託されているからなのです。どうか「十五日の理」を軽くする事無く、シッカリと勤めさせて頂きましょう。

月次祭の理

2018年05月21日 | 日記
二十六日というは、始めた理と治まりた理と、理は一つである
……明治二十九年二月二十九日(陰暦正月十六日)夕方

いまゝでの事ハなんにもゆてくれな
廿六日にはじめかけるで (3-113)

十一に九がなくなりてしんわすれ
正月廿六日をまつ (3-73)

この日ハないつの事やとをもている
廿六日がきたる事なら (17-46)




始めた理とは天保九年十月二十六日
治まりた理とは明治二十年正月二十六日

理は一つである…とは
世界一列を救けるために教祖を社として天下り
世界一列を救けるために身を隠された

おふでさきに書きこ残された二十六日とは
明治二十年正月二十六日を指している

いずれにせよ
神様の世界では
二十六日は特別な日である

この日は
一か月の中の一日といった軽い意味ではない
二十五日でも二十七日でもダメである
どうでも二十六日でなければならない

教会本部の月次祭は二十六日
お道は二十六日を芯にすべてが動いている

教会の月次祭
それぞれ決まった日に執り行われる
親神様からお許しを頂いた日である
だから
別の日ではいけない

お許しを頂いた日
その日にどうでも勤めさせて頂かねばならない

教会の月次祭とは
二十六日の理を頂いて勤める日


だからこの日は
いんねんを切り替えて頂く日
運命を変えて頂く日でもある

教祖140年祭

2018年05月17日 | 日記
年祭は10年ごとに執り行われる
つまり
次の年祭は8年後の
2026年である

元号も変わり
世の中も変わっていると思う

昔は
日進月歩と言ったのだが
今は
秒進分歩
新しい事が
あっという間に忘れ去られてしまう

お笑いも一年と持たない
youtubeにアップされたら最後だ

だが
どんなに時代が変遷しようとも
変わらなぬもの

教祖140年祭はそれが問われる年祭だと思う
一刻も早く
時代の着ぐるみを脱ぎ捨て
教えのエキスだけを身に付ける

悪しき勘違い
悪しき伝統

いつまでも同じ着ぐるみを着ていては
時代に取り残されてしまう

歴史の遺物と化してしまってはならない^^


水の結晶

2018年05月13日 | 日記


「水からの伝言」という本がある
水の結晶写真集である

水に音楽を聞かせる
音楽によって
結晶の形が違ってくる
水にも音の影響がある事が分かる

呪いや憎しみの言葉を掛ける
とても結晶とは言えない汚い画像だ

愛と感謝の言葉を掛ける
とっても美しい結晶
見事な結晶を作る

不思議な事であるが
掲載された125点の結晶画像
それが事実である事を教えている

人間の体の70パーセントは水
感謝・慎み・助け合い
そんな心で毎日とおるならば
体の水の結晶はとても美しい結晶となるに違いない

健康な体の秘密がそこにあるのかもしれない