音楽と言葉は似て非なるものだと思います。ではどこが違うのか。今回はそのことに焦点を当てたいと思います。
言葉
言葉には書き言葉と話し言葉があります。ただし、話し言葉と書き言葉の区分と、話された言葉と書かれた言葉の区分とは微妙に違います。書き言葉でもそれが朗読されれば話された言葉になりますし、話し言葉でもそれが文字に書かれれば、書かれた言葉になります。要は、書き言葉と話し言葉の区分は、その言葉の表現の仕方に関わらないものです。
では、どう違うのでしょう。書き言葉は話し言葉よりも、言葉それ自体で出来るだけ内容が伝わるように表現に関してよく考えられます。これに対し話し言葉は、優れたものであれば書き言葉に近づく傾向にありますが、具体的な相手に対して伝わるようにということに主眼が置かれ、その一線を越えないぎりぎりのものが優れた話し言葉と言えます。言葉は総じて語られた瞬間から一人歩きを始めるものですが、書き言葉と話し言葉ではその相手の射程が異なっているということが言えるでしょう。
「書き音楽」
音楽は、無音も含めて(無音も楽音といえますから)、楽音が鳴らなければ音楽とは言えません。楽譜というものはありますが「書き音楽」なるものは、ありません。何故でしょうか。
言葉と音楽は原初では区別のないものだったと思われます。もともとは音楽も言葉も何かを伝えようとする「声」でしかありません。現代の世界では文字があることは自明の前提となっていますが、決してそうではありません。文字はご存じのとおり、数千年の歴史で、しかも最初はごく少数の地域で広まったものだといえます。現在でも、文字を持たない民族がいるという話を聞いたことがありますが、文字とはそのようなものです。楽譜はもっと歴史が浅く、数百年単位の話です。音楽と言葉が区別のないものだとすれば、この歴史の差は興味深いものです。音楽が音楽として独立したのがいつからなのかはよく分かりませんが、「声」が文字に置き換えられる過程で文字にならなかったものが音楽といわれるようになったのかもしれません。楽譜の発明が遅れたのは、音程やリズムの規則性やその基準を規定しなければならないという問題がありますが、それ以上に、音楽は音以外によって伝える方法では本質的でないと考えられてきたのかもしれません。
文字を読める人が多い現在でも、楽譜を「読める」(ここで「読める」とは、そこに書かれている内容を見るだけで理解できる、すなわち、頭の中で、全く知らない曲でもその楽譜の曲を演奏すればどんな音が鳴るのかを想像できる、という意味です)という人は音楽をやっている人の中でもおそらく少数派です(私もその意味では読めません)。この状況は、教育課程に「読譜」というものが入っていないからですが、音楽をやる人でも、実際の演奏を通さない単純な「読譜」は重要とは考えられていないように思います。極端な話、一度も音読されない本があってもそれはそれで意味があるのに対し、一度も演奏されずに楽譜だけが出回っている曲には意味がありません。演奏されて初めて音楽となるのです。
演奏されて初めて音楽になるということがあっても、「書き音楽」がないということとは違います。上に「書き音楽」なるものはない、と書きましたが、厳密な意味では、「書き音楽」がないのではなく、「書かれただけの音楽」に意味がなく、「文字を書く」という行為と音楽とが表現と伝達の仕方に関して異なったものがあるということが言えたにすぎないのです。厳密には、「書き音楽」は存在します。もっといえば、私たちの周りの音楽は「書き音楽」ばかりです。
「書き音楽」と対立する「話し音楽」というものを考えてみましょう。話すという行為は、その場の人に向かって、自らの考えなどをその場で考えて発言することです。これを音楽に置き換えると即興曲になります。即興曲そのものというものは、私たちはあまり聴く機会がありません。ベートーベンの即興曲を聴いたとしても、それは楽譜に書かれたもので、その場で考えられたものではありません。よって、「書き音楽」は現に存在し、むしろ現代においては優勢であるといえます。「書き言葉」が広い射程を持っている様に「音楽」と言われれば「書き音楽」になり、目の前の人の為だけに存在する音楽というものを意味しないのです。
朗読と音楽
音楽が「書き音楽」であることが多いとして、それは黙読されるものではありません。よって演奏が必然的なものとなり、それは音読、それも朗読に該たるものになります。しかし、音読は文字になっている言葉の方に重心が置かれ、読み手の声は内容そのものに影響しませんが、音楽においては演奏が全てで、演奏そのものが音楽の内容になります。朗読の朗読たる意味は、読み手の声にありますが、内容に関しては完全に読み手の外にあるものとして捉えられます。声に出して読まれずとも存在可能なのです。しかし、音楽に関しては、その内容は演奏家がその場で考えるものではありませんが、演奏そのものの外には存在しえないものです。
音楽と言葉の内容の違い
さらに踏み込みましょう。では、「書き言葉」と「書き音楽」とで、内容に関しては違いがあるのでしょうか。私はあると思っています。音楽は言葉に翻訳可能なものではありません。
言葉は言葉以外のものを内容としています。言葉は例えば、話すこと(視覚)や文字(聴覚)が一般的ですが、それだけでなく点字(触覚)というものもあります。それら表現形式の異なるものがあり、しかも一度文字などになってしまえば、書きうつしたり、読んだりすることにより、言語が変わらない限り自由に変換が可能となります。言葉は記号であり、誰にでも分かるような細かく再分化された記号が出来れば、創ることが出来ます。上手くやれば味覚や嗅覚を使った言葉を作ることも可能なのかもしれません。
記号はそれ自体では何の意味もなしません。ある規則があるという共通了解のある人同士が、その規則を用いているとお互いに認識し合っている中にしか意味をなさない、抽象的なものです。現実を記述するときに使われているだけで、それ自体は現実のどこにもないものです。「空」と書いてみても、言ってみても、その文字や音波は空そのものではありません。コンピュータでいうところの「ショートカット」のようなものです。
しかし、音楽はそれ自体として意味があり、音波が「本体」です。文字と話された音声の関係は同じ記号の存在形式の異なるものというものですが、音楽と楽譜の関係は本体とそれを記述する記号というものです。音楽を伝達する手段としての記号は現在では楽譜に限らず、記録メディアもありますが、これに関しても再生して音に出さなければ記録それ自体を他の方法で読むことに意味はないといえます。
音楽がそれ自体意味のある「本体」であるといっても、言葉と同様にそれ以外のものを表す部分はあります。特定の音を模倣したものや歌詞のある歌は記号的です。しかし、音程やリズムは音以外に変換出来ないものです。言葉によって伝えられたことを言葉によって他の人に伝えることは可能ですが、音楽を聴いた時の感動というのはなかなか表現できないと思います。またどんなに上手く表現しても「本体」そのものをその相手に対して正確に伝えることは不可能に等しいものです。音楽は音楽以外で存在しようとしないのです。
今回も若干暴走気味になり、また、マンドリンとは直接関係のない話になってしまいました。とはいえ、私だけかもしれませんが、音楽の理解には有意義な議論だと思います。音楽と言葉は元々区別できるものではなかったかもしれないという話や音楽はそれ自体で意味をなす「本体」であるという話は、単なる娯楽としての音楽といった観点から一歩踏み込むきっかけになると思います。
次回(10月24日)はE.メッツァカーポの『幻影』を取り上げます。
言葉
言葉には書き言葉と話し言葉があります。ただし、話し言葉と書き言葉の区分と、話された言葉と書かれた言葉の区分とは微妙に違います。書き言葉でもそれが朗読されれば話された言葉になりますし、話し言葉でもそれが文字に書かれれば、書かれた言葉になります。要は、書き言葉と話し言葉の区分は、その言葉の表現の仕方に関わらないものです。
では、どう違うのでしょう。書き言葉は話し言葉よりも、言葉それ自体で出来るだけ内容が伝わるように表現に関してよく考えられます。これに対し話し言葉は、優れたものであれば書き言葉に近づく傾向にありますが、具体的な相手に対して伝わるようにということに主眼が置かれ、その一線を越えないぎりぎりのものが優れた話し言葉と言えます。言葉は総じて語られた瞬間から一人歩きを始めるものですが、書き言葉と話し言葉ではその相手の射程が異なっているということが言えるでしょう。
「書き音楽」
音楽は、無音も含めて(無音も楽音といえますから)、楽音が鳴らなければ音楽とは言えません。楽譜というものはありますが「書き音楽」なるものは、ありません。何故でしょうか。
言葉と音楽は原初では区別のないものだったと思われます。もともとは音楽も言葉も何かを伝えようとする「声」でしかありません。現代の世界では文字があることは自明の前提となっていますが、決してそうではありません。文字はご存じのとおり、数千年の歴史で、しかも最初はごく少数の地域で広まったものだといえます。現在でも、文字を持たない民族がいるという話を聞いたことがありますが、文字とはそのようなものです。楽譜はもっと歴史が浅く、数百年単位の話です。音楽と言葉が区別のないものだとすれば、この歴史の差は興味深いものです。音楽が音楽として独立したのがいつからなのかはよく分かりませんが、「声」が文字に置き換えられる過程で文字にならなかったものが音楽といわれるようになったのかもしれません。楽譜の発明が遅れたのは、音程やリズムの規則性やその基準を規定しなければならないという問題がありますが、それ以上に、音楽は音以外によって伝える方法では本質的でないと考えられてきたのかもしれません。
文字を読める人が多い現在でも、楽譜を「読める」(ここで「読める」とは、そこに書かれている内容を見るだけで理解できる、すなわち、頭の中で、全く知らない曲でもその楽譜の曲を演奏すればどんな音が鳴るのかを想像できる、という意味です)という人は音楽をやっている人の中でもおそらく少数派です(私もその意味では読めません)。この状況は、教育課程に「読譜」というものが入っていないからですが、音楽をやる人でも、実際の演奏を通さない単純な「読譜」は重要とは考えられていないように思います。極端な話、一度も音読されない本があってもそれはそれで意味があるのに対し、一度も演奏されずに楽譜だけが出回っている曲には意味がありません。演奏されて初めて音楽となるのです。
演奏されて初めて音楽になるということがあっても、「書き音楽」がないということとは違います。上に「書き音楽」なるものはない、と書きましたが、厳密な意味では、「書き音楽」がないのではなく、「書かれただけの音楽」に意味がなく、「文字を書く」という行為と音楽とが表現と伝達の仕方に関して異なったものがあるということが言えたにすぎないのです。厳密には、「書き音楽」は存在します。もっといえば、私たちの周りの音楽は「書き音楽」ばかりです。
「書き音楽」と対立する「話し音楽」というものを考えてみましょう。話すという行為は、その場の人に向かって、自らの考えなどをその場で考えて発言することです。これを音楽に置き換えると即興曲になります。即興曲そのものというものは、私たちはあまり聴く機会がありません。ベートーベンの即興曲を聴いたとしても、それは楽譜に書かれたもので、その場で考えられたものではありません。よって、「書き音楽」は現に存在し、むしろ現代においては優勢であるといえます。「書き言葉」が広い射程を持っている様に「音楽」と言われれば「書き音楽」になり、目の前の人の為だけに存在する音楽というものを意味しないのです。
朗読と音楽
音楽が「書き音楽」であることが多いとして、それは黙読されるものではありません。よって演奏が必然的なものとなり、それは音読、それも朗読に該たるものになります。しかし、音読は文字になっている言葉の方に重心が置かれ、読み手の声は内容そのものに影響しませんが、音楽においては演奏が全てで、演奏そのものが音楽の内容になります。朗読の朗読たる意味は、読み手の声にありますが、内容に関しては完全に読み手の外にあるものとして捉えられます。声に出して読まれずとも存在可能なのです。しかし、音楽に関しては、その内容は演奏家がその場で考えるものではありませんが、演奏そのものの外には存在しえないものです。
音楽と言葉の内容の違い
さらに踏み込みましょう。では、「書き言葉」と「書き音楽」とで、内容に関しては違いがあるのでしょうか。私はあると思っています。音楽は言葉に翻訳可能なものではありません。
言葉は言葉以外のものを内容としています。言葉は例えば、話すこと(視覚)や文字(聴覚)が一般的ですが、それだけでなく点字(触覚)というものもあります。それら表現形式の異なるものがあり、しかも一度文字などになってしまえば、書きうつしたり、読んだりすることにより、言語が変わらない限り自由に変換が可能となります。言葉は記号であり、誰にでも分かるような細かく再分化された記号が出来れば、創ることが出来ます。上手くやれば味覚や嗅覚を使った言葉を作ることも可能なのかもしれません。
記号はそれ自体では何の意味もなしません。ある規則があるという共通了解のある人同士が、その規則を用いているとお互いに認識し合っている中にしか意味をなさない、抽象的なものです。現実を記述するときに使われているだけで、それ自体は現実のどこにもないものです。「空」と書いてみても、言ってみても、その文字や音波は空そのものではありません。コンピュータでいうところの「ショートカット」のようなものです。
しかし、音楽はそれ自体として意味があり、音波が「本体」です。文字と話された音声の関係は同じ記号の存在形式の異なるものというものですが、音楽と楽譜の関係は本体とそれを記述する記号というものです。音楽を伝達する手段としての記号は現在では楽譜に限らず、記録メディアもありますが、これに関しても再生して音に出さなければ記録それ自体を他の方法で読むことに意味はないといえます。
音楽がそれ自体意味のある「本体」であるといっても、言葉と同様にそれ以外のものを表す部分はあります。特定の音を模倣したものや歌詞のある歌は記号的です。しかし、音程やリズムは音以外に変換出来ないものです。言葉によって伝えられたことを言葉によって他の人に伝えることは可能ですが、音楽を聴いた時の感動というのはなかなか表現できないと思います。またどんなに上手く表現しても「本体」そのものをその相手に対して正確に伝えることは不可能に等しいものです。音楽は音楽以外で存在しようとしないのです。
今回も若干暴走気味になり、また、マンドリンとは直接関係のない話になってしまいました。とはいえ、私だけかもしれませんが、音楽の理解には有意義な議論だと思います。音楽と言葉は元々区別できるものではなかったかもしれないという話や音楽はそれ自体で意味をなす「本体」であるという話は、単なる娯楽としての音楽といった観点から一歩踏み込むきっかけになると思います。
次回(10月24日)はE.メッツァカーポの『幻影』を取り上げます。
私も演奏家の立場から、楽譜と演奏について、演劇と楽曲について、述べさせてください。
まず、フレーズと言葉について
最近の流行歌では、歌詞である言葉と音楽のフレーズがミスマッチの作品、歌手のブレスが言葉やフレーズと合っていない例が数多く見られます。
歌詞のない楽器演奏も同じで、フレーズを無視した演奏は、せっかくの旋律、伝えたい感情を損なってしまいます。
ひとまとまりの音符、これを「言葉」と比喩的に言うことがあります。
長い旋律を、文学作品の文章に例えることも。
楽譜を読むという行為は、単に音符を見て、頭の中でメロディーを鳴らすことだけでなく、実際に楽器で音にしながら、どう演奏するかを考えることもあります。
ところがロコさんの触れられた、記号としての楽譜を理解させる必要があり、初等音楽教育のやむを得ない産物でしょうが、初心者は小節線ごとに1234、または123と拍を数え、小節の中の音符をまとめて考えてしまうクセがついています。
恩師曰く、「小節線を越えるところに音楽がある」のですが、そこに思い至らないのです。
特にマンドリンはブレスも弓の返しもありませんから、どうにでも弾けるので、かえって無頓着になってしまう傾向があるような気がします。
また、音に出す言葉は台詞となりますが、その表現は場面により役者により監督により、微妙にあるいは劇的に持つ意味合いが変わります。
フレーズも同様に、全体の響きやバランスにより演奏者により指揮者により、意味合いが変わり、それに伴って表現が変わるのです。
しかし、フレージングの基礎は演奏者の責任として学ぶべきだし、楽譜をもらってすぐに「楽譜を読む」必要があります。
演劇と楽曲について
その時に欠かせないのが、スコアの中で自分のパートを読むことです。
不思議なもので、演劇の場合は役者に台本が渡されますが、演奏会ではパート譜しか渡されません。
これが自分の演奏するべき楽譜を読めない原因でもあります。
フレーズが一つの台詞なのですが、その前後のつながりや周りの状況、想定される場面があっての台詞ですから、その意味や役割が役者に理解できます。
ところがパート譜は、いわば一人の役者の台詞だけを書いた台本ですから、それだけではきっとどんな名優も役作りはできません。
以前のコメントにも書きましたが、パート譜にどう演奏するかを全て書き込むこともできませんし、指揮者も全ての音符の解釈を言葉で説明することはできません。
だからこそ、事前のスコアリーディングが欠かせないのですが、アマチュアバンドではそれも難しいことなのでしょう。
楽曲を通じて伝えたい感情がなければ演奏する意味がありません。
伝えたいことのない小説は書く意味も読む意味もないのと同じです。
一部の駄作、無理やりの編曲を除いて、作曲家は一つ一つのフレーズや旋律に伝えたい気持ちを込めて音符を書きます。
それを演奏者が理解できないで、聞き手に伝わるわけがないと思うのです。
聞き手はあるメロディや楽曲全体で感動するとき、分析的になぜ感動したかを解明する必要はありません。
演奏家側は違います。
どうやって聞く人の心に作曲家の思いを伝えるか、そして聞く人の心をを動かすか、について綿密な準備とそれを伝えきるテクニックがなければなりません。
でなければ、最近のシンガーソングライターのように自分の世界をぎこちない音楽で独りよがりに吐露する存在、それ以下になってしまうと思うのです。
確かに、オーケストラなどではパート譜だけを配ってスコアを最後まで見ない人がいることは事実だと思います。実際に私の周りにもたくさんいると思います。
しかし、アマチュアで全員が全曲のスコアを持っているというのは紙の無駄のような気もしますから、少なくとも首席の人は持つようにして、スコアから見てパートの演奏に必要なことを伝えておけばいいのではないでしょうか。
ということは、首席にはある程度のスコアリーディングの力が必要になるということになります。首席でしたらそのくらいはやって欲しいですよね。
もうひとつ考えたいのは、アマチュアの指揮者の棒の振り方です。
見ていると、指揮者はテンポを支持する人だとしか思っていないようにしか見えない振り方をしている人がいます。
もちろんテンポが崩れまくりだと困りますが、そういう人は御丁寧にも全ての拍を正確に無個性的に振り続けるのです。
これだと、特に支持があったところ以外は、フレージング等の細かいところについては奏者が全ての責任を持って解釈しなければなりません。
京平さんの仰るように、これではパート譜に書ききれなくなります。
優れた指揮者は何も言わずとも、その棒の振り方で多くを語ります。
素人目には、どう演奏すればいいのか分からないくらいに。
フレージングや微妙な音量の変化やテンポ変化を、何拍も振らなくても表現しているのです。
分からなければ、少し説明を加えれば、「なるほどそうやりたいのか」ということが、経験のある奏者には見えてきます。
もちろん指揮者が努力しても奏者の力がないと上手くはいかないのでしょうが。