以前紹介させていただいた(→こちらの記事)ホワイトハウス正面、ラファイエット公園内に24時間、35年以上年中無休で反核運動をしている女性・コンセプション・ピシオットさんが1月25日にお亡くなりになられたと、御住職のアメリカのご友人よりご連絡を頂きました
御住職は平成21年と平成23年の2回ワシントンD.C.を訪れ、ピシオットさんと交流されました
謹んでご冥福をお祈りいたします
合掌
平成21年11月 ピシオットさんとの出会い
サンパウロ佛心寺50周年記念慶讃法会随喜の帰路、乗り継ぎの為ニューヨーク入った。念願であった『グランドゼロ』同時多発テロで崩壊したツインタワー跡地を訪れ、犠牲者になった日本人24名を含む尊い命約3000名のご供養をいたしました。あれから8年目の追悼慰霊でありました。
未だなお生々しい傷跡残る地に立ちテロの無い世界を祈りました。
まだ現場は工事中であった。屋内であったため大きな声で読経は出来なかった
あらためて隣接する消防署前で殉職した消防士や警察官の供養をした
消防署横のメモリアル慰霊の場所では花が絶えない
翌日、朝早く起きてケネディ大統領の墓参り為にワシントンDCに向かった。
ワシントン記念塔を献供
J.Fケネディ大統領とジャクリーン・オナシス夫人が並んでいるとは知らなかった?
あの硫黄島のメモリアルが近くにあった。第二次世界大戦中アメリカ軍の戦死・戦傷者の数が日本軍を上回ったまれな戦いであった。クリント・イーストウッドの映画で良く分かった。
私達はそれぞれの墓参りの後、リンカーンの大石像に挨拶をして国会議事堂からホワイトハウスに向かった。
『世界一の反核おばさん』に感動!!
オバマ大統領は不在だったが、それ以上に物凄い人に出会った。
ホワイトハウス正面、ラファイエット公園内に24時間、年中無休で反核運動をしている女性・コンセプション・ピシオットさんがいる。立て看板を2枚掲げ、日差しの強い真夏日も、厳冬の雪の日もホワイトハウスを見据えて30年以上も路上で平和運動を展開されている。
世界平和を願う心とその姿に感動して、協力応援を決めたのでした。必ず今度は義援金を集めまた訪れることを固く手を握り誓った。
警察官も24時間の警備である。頭上はヘリコプターの音が暇なく轟いていた。さすがワシントンDCである。ペンタゴン、国会議事堂、ホワイトハウスの移動だけでも大変だろう。
おばさんが寝ない限り警察も認めている。だからおばさんは寝ていない。すごい!!
最後にピシオットさんから頂いた新聞記事を載せる
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1991年9月13日 The Yomiuri America、文:堀田 佳男 より転載
「ホワイトハウスの裏庭」
ホワイトハウス正面、ラファイエット公園内に24時間、年中無休で反核運動をしている女性がいる。立て看板を2枚掲げ、日差しの強い真夏日も、厳冬の雪の日もホワイトハウスを見据えて運動を展開。今年でちょうど10年目を迎えた。
コンセプション・ピシオットさん(47)。スペイン、ガリシア出身。29年前にアメリカに移住。ニューヨーク福祉財団、国連、スペイン領事館などを経て、79年よりワシントンで政治活動を開始。
アメリカの軍備増強を真に憂慮し、自ら連邦議員に会い、ロビー活動に身を染めた。しかしワシントンの街は、彼女に一人の人間がやれる政治活動の限界を与えた。「大統領に直接訴えるしかない」と思い立ったのは81年。家財道具一切を売り払い、立て看板を作り、果敢な直接行動に出た。
それ以来10年、ホワイトハウス前の公園が自分の家であり庭になった。
「米ソ間の緊張が緩和されても核兵器が廃絶されたわけではない。むしろ第3世界では核保有国が増える傾向にある」
核兵器廃絶という彼女の初志は、東西緊張緩和やSTART(戦略核兵器削減交渉)の調印といった世界情勢の中でも少しも変わらない。一部には「時代錯誤だ」とさげすむ声もあるが、人間の本性に根ざした理想論をあえて掲げる。
立て看板には広島や長崎の原爆被爆者の写真が張ってある。ホワイトハウス目当ての観光バスが彼女の目と鼻の先で停車するので、世界中の観光者が立て看板を目にし、彼女と言葉を交わしていく。
「世界中へ反核を訴えたいと思っていたんです。ここに居ればそれが実現できる。私が出かけてゆかなくとも、世界が回ってきてくれる」
ホワイトハウス前の”反核おばさん”は、世界中のマスメディアに取り上げられもした。先月も彼女のニュースを耳にした反核運動のリーダーが、わざわざオランダから会いにやってきた。また、スペインのテレビ局は、彼女のドキュメンタリー番組を制作したほどだ。
「ブッシュ大統領は、ホワイトハウスの窓から覗いていて、この立て看板にもう慣れているかもしれない。でも少しでも多くの人に、核兵器廃絶の必要性を説くことが私の役目」
80年代中ごろから下火になった草の根運動としての反核思想を、現在でも毅然として貫く。その志は高貴ですらあるが、生活の苦労は多い。
食事は近くのベーカリーから残飯をもらったり、彼女の支援者からの差し入れに頼るだけ。収入はゼロ。パーク・ポリスの規制で、テントや寝袋は持てず、夜は立て看板に背を持たれかけて休むだけだ。睡眠も十分に取れない。雪の降る厳寒の夜など、厚手のコート1枚で夜通し雪かきということもある。それでも過去10年間、病気ひとつしないという。
「ベッドの感触なんて、もう覚えていない」
こうつぶやく彼女の表情は意外にも明るい。日に焼けた顔をほころばせながら、彼女は「究極的な正義(ジャスティス)がほしいだけ」と言って、ホワイトハウスに目をやった。
「核兵器がこの地球上から廃絶されるまで続けるつもり。私はここで死んでも構わない」
ひたむきなピシオットさん、時代はどういう審判を下すのだろうか。
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当時私達はオバマ大統領のノーベル賞受賞も驚いたが、その陰に30年も路上で平和運動をしている人がいる。ピシオットさんのひたむきな行動に感動し殺人兵器の廃絶を誓ったのである。このたびは南米の法要の帰り道で手持ちもささやかでありましたけど、渡せるだけのドルをお渡ししました。
私のノーベル賞はオバマ大統領ではなく、この人に決まった!
どうかお元気で頑張ってください。再びお会いできるときは必ず大きな義援金をお渡ししたいと思いました。
広島や長崎の原爆の写真も痛ましい
2年後の平成23年に再び訪問し、約束を果たすことが出来ました