公開日:2019/04/26•更新日:2023/02/22
前回からの続き…
◆小さな秋葉神社
春日部駅西口の南側300メートル程の地下道入り口のすぐ前にある神社が「秋葉神社」(秋葉社)です。
地下道の前に
秋葉神社の正面 小さな神社です。
説明板
秋葉社の由緒
この神社は、秋葉社(あきばさま)と申し、火の神さま(かぐつちのかみ)と、水の神さま(みつはのめのかみ)の二神(ふたはしら)をお祀りしてあります。
火の神さまは、わたくしたちに、火をわけてくださるために、いつもこれを護っていらせられますが、この神恩(おかげ)を忘れて、大切に取扱わないときは、神さまの御心(みこころ)にそむきますから、消えたり、または、禍(わざわい)と変わって火事をまねきます。
不要(いらない)は(※ママ)火は、神さまへお返しするという心がけをもてば災難は起りません。
水の神さまは、わたくしたちの生命を、つなぐ水を護っていらせられ、雨を降らせて、水の源(みなもと)をつくり、また田畑を潤して作物のみのりを与えてくださるのです。
この神社は、むかし、粕壁宿の名主、多田次郎兵衛(ただらじろべえ)が、おまつりしたものですが、たいへん御利益があるというので、多くの人が人防神(ひぶせのかみ)として参拝し神恩に感謝しております。
かぐつちの 神のいかりの しづめとや
あきはのもりに 雨は降るらん
明治十七年社殿再建記念 春日部 考純
例祭 夏季 四月 第二 日曜日
秋季 十二月 第二 日曜日
平成十二年三月吉日 富士見町会
※印の箇所の不要「は」は文脈的に「な」の誤記載でしょうか。いろいろな案内板を見ますが、お書きなった人も案内板を読む人も案外気がつかないものですね。
◆ご祭神・由緒・沿革
郷土史家の須賀芳郎氏によれば、
秋葉神社【中央一丁目】
ご祭神は
火産霊命(ほむすびのみこと)
由緒・沿革
鎮座年月日は不詳。古来よりこの地に鎮座し、火防の神として広く崇敬されている。
口碑によると、或る年の十二月、北西の風が強く吹く夜のこと、粕壁宿の名主多田次郎兵衛の邸内の裏手【多田家の屋敷は日光街道から現在の春日部駅西口広場あたり迄の広大な屋敷であった。】に何物かが落下した凄い地響きがあった。家人が驚いて飛び出して見ると、六尺余りの大槍を携えた一人の六部【修験者】が立って居た。次郎兵衛は驚き騒ぐ家人を制止して、六部を客間に招じて丁寧にもてなした。数日後、六部は笈の中から一個の包みを取り出して次郎兵衛に与えると、別れを告げ風のように消え去った。次郎兵衛が何気なくこの包みを解いてみると、中から現れたのは、秋葉権現の御神体であった。次郎兵衛はさては今の六部は秋葉山からの使者か、または秋葉権現の化身に違いないと怖れて、六部の降り立った場所に祠を建てた。これが当秋葉神社であると伝えられている。史料の『新編武蔵風土記稿』・『武蔵国郡村誌』には、その記載がない。
この神社は、元は春日部駅西口左手の銀杏の木がある場所に鎮座していたが、西口区画整理事業によって現在地に移転した。
境内内の石碑
社前に奉納記念碑がある。
碑文はつぎのとおり。
かぐつちの 神のいかりの しずめとや
あきはの森に 雨は降るらん
明治十七年三月 春日部孝純
【春日部孝純とは、元粕壁宿名主で初代粕壁町長多田亀十郎】
(引用:ふるさと春日部『春日部の神社』須賀芳郎/著 1996年)
なお、多田次郎兵衛は、江戸末期、幕末時の粕壁宿名主であった関根(明治期に改姓)次郎兵衛孝凞(安政四年五月二十一日没七十五歳)のこと。孝純氏は、次郎兵衛の子。
境内
入り口にある手水舎
手水舎の側面には『上町 仲町 山中』と旧町名が刻まれています。神社がある所も粕壁の宿内だったことが分かります。
「秋葉社々務所増築記念石碑」(昭和50年10月建立)「昭和45年10月18日 都市計画法に基づき春日部駅前西口よりこの地に遷宮」と刻まれています。
「鳥居建設記念碑」(大正11年1月12日建立)
文字は読めません。神社の由緒などが刻まれている石碑ではないようです。
秋葉神社跡地の夫婦松
前回に続き「秋葉神社」のことを書いてきました。多田家が、個人的に、祠を建てて火防の神を祀ったと言うことから、いかに火事を恐れていたかがよく分かります。宿場全体の安全を祈っていたのだと思います。
終わり
【秋葉神社】