かすかべみてある記

日光道中第4の宿場町・粕壁宿を忠心にクレヨンしんちゃんのまちかすかべをみてある記ます。

”傅”芭蕉宿泊の寺・東陽寺(其の二)

2022-05-22 19:30:00 | 寺院
更新日:2022/05/22・公開日:2019/02/04

◆旅立ち
俳人松尾芭蕉は、崇拝する西行の500回忌に当たる元禄2年(1689)3月20日、江戸深川を舟で出発、千住に上がり、旅支度を整え、27日の朝、

行く春や鳥啼魚の目は泪

と詠み、門弟河合曾良を伴い陸奥への歌枕の旅に出ました。

芭蕉齢46歳。そして、今年(2022年)は、芭蕉の陸奥の国への旅立ちから333年にあたる年となります。

陸奥の国や北陸は、大和や近江と同じく歌枕が多いとされ、芭蕉にとっては、未知なる国への憧れがあったのではないか、と言われています。

なお、この旅立ちの旧暦3月27日(新暦では5月16日)を記念して、日本旅ペンクラブにより、新暦の5月16日は「旅の日」として制定されています(昭和68年(1988)制定)。

そして、『おくのほそ道』の「草加」の項に、

其日漸(やうやう)早加(草加)といふ宿(しゆく)にたどり着けにけり
(新訂『おくのほそ道』付現代語訳曾良随行日記 頴原退蔵・尾形仂=訳注、昭和42年9月20日、角川文庫)

という記述があることから、芭蕉と曾良はその晩は「草加に泊まった」という説が有力とされてきました。

しかし、同行した曾良の随行日記には、

巳三月廿日 日出、深川出船。
 巳ノ下尅 千住ニ揚ル。
一 廿七日夜、カスカベニ泊ル。 江戸ヨリ九里余。

(前掲書)

粕壁宿にある曹洞宗の寺・医王山東陽寺は、



芭蕉一行が宿泊したといわれる寺です。


“傳”芭蕉宿泊の寺

その東陽寺にある「曾良の随行日記の碑」には、前掲の『おくのほそみち』の一部分が刻まれています。


東陽寺にある曾良の随行日記の碑

以来、「カスカベ」(碑文はカスカヘ)に泊まった、とする説が定着しています。



「東陽寺」の隣の店舗に描かれているシャツターアート。

「ものいへば 唇さむし 秋の風」(?)と書いてあります。

◆カスカべ着

ともあれ、3月27日は、千住宿から、草加宿、越ヶ谷宿と6里18丁(町)歩き、その日の夕刻、最初の宿、粕壁宿に到着しました。

粕壁宿は千住宿より6里18丁の距離にあり、草加宿からは越ケ谷宿を経て4里10丁。千住宿から草加宿まで2里8丁、草加宿から越ケ谷宿まで1里18丁、越ケ谷宿から粕壁宿までは2里18丁。なお、「江戸ヨリ九里余」とは日本橋からの距離です。

※1里=36丁(町)、約4km(3.93km)、丁(町)=約109m。

当時の旅人は、一日に、だいたい8〜10里(約32キロメートルから約40キロメートル)歩いたそうですので、草加に泊まったとするには、少し距離が短いかな、と思います。

なにしろ、翌日(28日)も9里歩いてマゝダ(間々田)まで行っていますから。

なお、「カスカベ」 に泊まったことは、ほぼ間違いないとして、残念ながら「カスカベ」のどこに泊まったか、まではわかりません。最も有力な説はこの東陽寺です。

◆単なる通過点
芭蕉にとって、この旅の目的地は、あくまで陸奥の国であり、草加やカスカベは、単なる通過点にすぎせん。どこに泊まったかは、あまり重要ではなかったと思います。

郷土史家の須賀芳郎氏は、著書『春日部の寺院』(1996年)「東陽寺」の項で(少し長文ですが)、

一番目の宿場に泊り、旅の手続きを【道中手形・出国手続き等】を済ませ、愈々千住を出発、奥羽長途の旅に立つ、「草加」の項に『其日漸く草加と云う宿にたどりつけり。』とある。これは、草加宿に宿泊したのではなく、当時は千住から草加宿まで、途中に宿場はなく休息処もなく、日光街道の中で一番長丁埸の区間であったところから、芭蕉は疲れて待ち遠しく思っていたところ、漸く草加宿に着いたことを記したものと考えられる。芭蕉に随行した弟子の曾良の日記によると、この日は、『カスカベ』に泊るとある。それでは曾良は何故か「カタカナ」で『カスカベ』と記したのであろうか、筆者【須賀】は、次のように推測する。粕壁宿は昔から俳句の盛んな土地柄で、多くの俳人が出入りしているところで、当時有名な芭蕉が行脚の道すがら、粕壁宿に立ち寄ったので、宿内の有力者が出迎えて、もてなしをしたときに、曾良がこの土地の地名の文字を尋ねた際、ある人は「春日部」・「糟ケ邊」・「糟壁」と云、またある人は、この度の元禄の御触れで「粕壁宿」となったと答え、三者三様の答えがあり、曾良は、日記に『カスカベ』と片仮名で記したものと思われる。
それでは『カスカベ』の何処に宿泊したのであろうか?推測の中では現在の一宮町にある『禅寺の東陽寺』ではないかと考えられる。何故なら代々の寺の住職の口伝もあり、さらに筆者は、芭蕉の経歴から見て、主君の死後、京都の五大山の一つ『建仁寺』に入門し、禅・托鉢の修行をし、また俳諧の所属が壇林とあり、壇林とは禅寺に多く、談林とはおのずと異なるものと思われるからで、芭蕉は、いわば禅宗の僧籍を持った人と考えられる。『おくのほそ道』紀行では、それ程多額な費用は持っていないのではないか?【おくのほそ道の記述の中に『痩骨の肩にかかれる物先ず苦しむ。只身すがらにと出立ち侍るを、紙子一衣は夜の防ぎ、ゆかた・雤具・墨筆のたぐひあるはさりがたき餞などしるしたるは、さすが打ち捨てがたくて路地の煩いとなれるこそわりなけれ。とあり。】深川の庵を処分したり、多少の餞別程度でこの長い旅路の費用は大変な負担になるので、最小限度の費用で旅をしたのではないかと想像されるから、【記述の中で、旅用としての最低限の着物・雤具・筆墨を持ち、しかし多くの人から贈られた餞別は重いなれど道中では、打ち捨て難く荷物になるがやむをえない。と記されているがさほどの金額ではないと推定する】旅篭は利用されず、旅先の禅寺や宿場の有力者の家に宿泊したのではないかと思う。

曾良の日記からもそのことが推定される。
(引用:ふるさと春日部『春日部の寺院』須賀芳郎/著 1996年)

と記述されていますが、違和感を感じる点が少しありますので、後編ではこれらについて私見を書いてみたいと思います。


続く…


【参考書籍】

新版 おくのほそ道 現代語訳/曾良随行日記付き (角川ソフィア文庫)/作者: 松尾芭蕉 出版社/メーカー: KADOKAWA / 角川学芸出版 発売日: 2014/03/06 メディア: Kindle版









((備考:本記事は当初2019年2月4日にエントリーした記事ですが、今回リライトして前後編に分け、2021年6月26日に再エントリーしました。))