伊藤みろ発:メディア=アート+メッセージ No.15ー清らかな蓮の花のように、自然の叡智に向かう
毎日、世界の多くの国々で報じられる言葉を失う惨状を、深まる悲しみともに切り抜けながら、新しい時代が始まろうとしています。
新型コロナ感染の災禍とともに、一人一人の自粛への自覚が求め荒れるつつある今、これを乗り越えることができた未来では、「BC(Before Corona) 」「AC (After Corona) 」といわれる世紀の大転換が起こると予見されています。
かつて疫病による人口激減が賃金上昇を引き起こし、労働の機械化が一気に進行した産業革命後のヨーロッパのように、コロナ感染拡大によって、これまでの生活の変化を余儀なくされ、労働のIT化やAI化への変革が後押しされつつあります。
一方、人同士の距離感の拡大によって排他的風潮と疎外感が広がり、世界の分断化だけではなく、社会の管理・監視化が進むことが懸念されています。コロナ感染拡大は、もはや伝染病との戦いである以上に、信頼と協調に基づく社会生活、ひいてはヒューマニティと人権への挑戦となっています。
蓮華座
奈良・大峰山の石仏観音像
さて、仏陀の悟りの姿である仏像は、両足または片足の甲を反対側の腿の上に乗せる姿勢(結跏趺坐または半跏趺坐)で座っています。
不自由でありながらも、もっとも身体を安定させるため、禅定(ぜんじょう)の修行法として、蓮華座とも呼ばれます。
仏陀は、世界そのものを、蓮華に喩えました。また宇宙を一輪の蓮華の上に立ち現れる世界(小宇宙)の無数の集合体(大宇宙)として表し、さらにその大宇宙が無数に点在する教えを説いています。この光景は、奈良・東大寺大仏さまの蓮弁に「蓮華蔵世界」として1300年前に刻まれました。
蓮華は、泥の中で育まれる清浄心の喩えでもあります。煩悩にまみれた世の中でも、汚れのない心のあり様が立ち現れることの象徴です。さらに私たちひとりひとりが、かけがえのない命の華に他なりません。
有限の中で無限に目覚める
外出自粛や自宅待機という社会的な自由が阻まれる中で、瞑想をして心の安静を保つ乗り越え方があります。
蓮華座を組んで静かに座ると、有限な身体の制約の中で、心が無限に開かれていくことが感じられます。 無際限の宇宙に向かって自我を解き放つことで、自分がなぜこの世に存在するのか、何をしなければいけないのか、どこに向かいつつあるのか、真実を求めていく限り、いつしか答えも自ずと立ち上ってくることでしょうか。
その先に開かれてくるのは、すべてが絶え間なく流転するという自然の本性であり、私たち自身も自然の一部である気づきです。
すべてが相互につながり合い、支えあっている自然の命こそが、私たちの存在の本源的な要素であることに目覚め、地球という命を守るために、新しい自粛の機運がこれまで以上に高まることが願われるばかりです。
命の源であり、命そのものである地球
叡智に向かう選択
1300年前の蓮の種から復活した蓮は、今年も、私が愛してやまない古都・奈良で花を開かせます。
時空を超える蓮のような清らかな未来を思い描きながら、自然の叡智への目覚めとともに、「効率優先」のこれまでのグローバル化へ逆戻りするのではなく、「いのち優先」のグローバル化の始まりを祝福するものであってほしい、と願われるところです。
コロナ感染拡大と地球温暖化も、ともに私たちの命に関わる重大な危機です。私たちの選択によって、地球の汚染がどれほど緩和されるか、奇しくもコロナ危機は、私たちに示してくれました。
人の命とともに、大元である地球の命を守りながら、自然の智恵によって清められる新しい時代の開花を願いながら…
合掌
令和2年5月吉日
伊藤みろ メディアアートリーグ
Media Art League
East meets West, North meets South through "Media = Art + Message"
http://mediartleague.org
Photographs & Text by Miro Ito/Media Art League. All rights reserved.