高校生の時、母が
「すっごい素敵なお家、みつけたの~。引っ越ししたいの。
ねえ、みもこちゃん、いいでしょう。」
と目をキラキラさせて私に言ってきました。
母は、本格的な日本家屋に住みたいものだ、と長年憧れていたのです。
「みもこちゃんさえ良ければ、直ぐにでもお引っ越しするから。
私はいつまでも、こんな古い家にすんでないわ。」
私が家に愛着を持っているのを知っていて、そう言うのです。
(古い家でなにが悪いのでしょうネ?)
近いうちに、その新しい日本家屋の家を、下見に行くことになりました。
とりあえず、決定権は私にゆだねられました。
直ぐその日の晩に、家を紹介してくれた知り合いが、「鉄は熱い内に」と言って車でやって来ました。
夜遅い時間だったのに、両親とも喜んでその車に乗り込んで、
家の下見に出掛けました。
決定権のある私も、もちろん同行するように言われたのですが、
私はふと、嫌な予感がして、
「ここで一緒に行ったら、さぞ見事な家だろうから、私も浮かれてOKを出してしまう。
それは、まずい。」と思ったのです。
理由を沢山ならべて、その場はお断りしました。
その後も、私は疑問でした。
どうして今回、まだ高校生の私に「決定権」があるのか?
そして、
その理由は、いずれ明かされるだろうから、それまで私は家を見ない。
と、心を決めたのです。
母には返事を保留にし続けて、逃げまわって過ごしていたある日、
学校へ出る時に、客間が私と目を合わせた気がしました。
部屋には、それぞれの個性や思想があります。ひとつひとつが、宇宙とおなじです。
この部屋はこれを望んでいるが、あの部屋は受け入れるものが違う。というように。
客間は、普段近寄らないのですが、いつもどこか別次元へひらかれる可能性も持っていそうで、
私はそれが怖かったのです。
学校が終わると、私はふと
「早く家に帰りたいなー。
そして、着替えずに制服のまま、客間に座りたい。」
と思いました。
どうしてそんな考えが、突発的に思い浮かぶのか、自分でも謎でしたから、
その衝動に任せてみる事にしました。
帰宅して、すぐに客間に入り、
一人で静かに座って、ぼーっとしていますと、
部屋の中が、白くなってきた感じがしました。
確かにそのとおりで、辺りにもくもくと霞が湧いてきて、
その霞はしだいに濃くなっていきました。
自分の1メートルくらい手前で、霞は雲のように集まりました。
そして、その雲の中の奥の方から、何かがチカチカとキラキラと光り出しました。
私もさすがに、部屋の中で雲だなんて、今何をみているんだろうと思いましたが、
キラキラしたものが出てきたので、悪いはずがなく、
このまま終わりまでを見届けようと思いました。
キラキラしたあたり、雲の奥の方から、なにかがこちら側へ出てこようと雲を掻き分けています。
何か、赤茶色っぽいもの。
「あっ。」
見えてきて、私はそれはそれは、驚きました。
その赤茶色っぽいものは、人の手だったのです。しかも、私のお母さんの手。
雲を掻き分けて、向こう側から出てきたのはお母さんだったのです。
直ぐに、雲の道は大きくなり、ついに母の顔も見えてきました。
母は、ここはどこだろう~?という風にキョロキョロと、右をうかがい、左をうかがいして、
不思議さが隠せない表情で出てきたのです。
「あっ。」
私はまた驚きました。その母の顔は、あざだらけ、傷だらけです。手もあざや内出血で赤茶色だったのです。
こんな母親の姿をみた事がありません。
母は、目の前で座っている私のことが見えたのでしょう、
「みもちゃん!?みもちゃんなの!?」
と、母のほうでは逆に、私がどうしてこんな所にいるのかと、叱りながら聞いてきました。
しかし、すばやく私の周囲の客間の室内を見まわし、更に驚いて言いました、
「ああー!!!ここは、〝前の家”なのね。そうなのね。」
そして、私が高校の制服を着ているので、一体いつの事だか分かったのでしょう。母は頭の回転の速い人でした。
いえ、それ以上に、何度も後悔してきたのでしょう。
息せき切った様に、母は私に言いました。
「あの引っ越しを、止めてちょうだいー!!
今、止められるのは、みもちゃんしか、いないの!
今、止められるのは、みもちゃんしか、いないの!
引っ越しをとめてー!!」
(私は、怖くって怖くて、会話なんてできなかった様に記憶しています。)
「お父さんも、会社を盗られてしまって、ショックで、もう何もやる気がなくなってしまったの。
このままじゃ、若いみもちゃんの将来も、台なしになってしまう!!」
雲の道は、そこから徐々に広がりました。
母の奥に、がらんどうの板の間と、柱が見えます。まるで能舞台のような雰囲気のある広い板の間で、なげしのデザインも趣味があって、
母のいる場所が件の日本家屋だという事が、やっと私にも分かりました。
私達は、未来で引っ越しをしたのです。それで、ここは〝前の家”と呼ばれているのです。
〝前の家”と母が言った言葉の感触が、日常の言葉になっているようなあたたかみがあって、
私は急にさみしくなりました。
それにしても、その板の間ですが、何も置かれていないばかりが、
むくげの枯れ枝なんかが散らかっていたりして、荒れているのです。
そして、家全体にただよう空気の、何ともいえない殺伐とした、冷たすぎる感じ。
ほとんど、銀色の冷蔵庫のような家。私は、たまらなく嫌になりました。
こんな家に引っ越しをするなんて、とんでもない。阻止、阻止あるのみです。
母は、私が理解しやすいようにと自分の後ろをふりかえり、父の姿も見せてくれました。
それで、私にも、板の間の柱にもたれかかっているお父さんの姿が見えました。
白いランニング・シャツにブリーフで、まるで裸のような格好です。
いつも「VO5」で撫でつけて、大事にしている髪がボサボサで、誰かに髪を引っ張られて拷問されたかのよう。
体も顔も全体に、内出血がひどく、あざだらけです。廃人のように力なく柱にもたれかかる様子は、痛々しいほどでした。
確かに、こわくなり、こんな姿を見せられたら、引っ越しは中止させたくなります。
すると、もっと奥の方から、どやどやと騒ぎ立てながら大勢の来る音と、声がしました。玄関があるのでしょう。
乱暴に怒鳴って、男の人達がやって来たのです。真面目な世界のひとではなかったみたい。板の間を土足であるく大勢の足音がします。
そして、巻き舌で何かを怒鳴りながら、誰かを殴る音がします。私は、父が理不尽な目に遭っているのだと直感しました。
母は、
「あーっ!!!あの人達が来た!!!ぎゃあーーー!
お父さあん!!!お父さあん!!!やめてーーー!!!
お父さんが死んじゃうーーー!!!ぎゃああああ!!」
と、父の方を振り返って、叫ぶのでした。
こんなに悲鳴をあげている母を、見た事がありません。
私も思わず、援けに行きたくなりました。何故か私には、私の方が強いのでないかと思えたのです。
しかし、母は、なにか大切な大切なものを、大事に隠しておくような手つきで、
雲の道を閉じました。
こんな状況で叫びつつも、母は私を庇ってくれて、あの男達に私の姿を見せたくなかったのでしょう。
私は母の手が見えなくなる最後まで、目が離せませんでした。
「ぎゃあーぎゃあー」と叫ぶ母の声と、怒声と罵声は、
雲の道が閉じられた瞬間に、パタっと消えました。
そして、部屋に集まっていた雲の全体も、その一瞬で消えました。
私は、いつもの客間の風景を見つつ、
これが、「バーチャル・ワールド」というものかと、正直驚きました。
ドキドキした胸の鼓動は、これが現実に起こったものなのだと、証明するようです。
---わかりました、何があっても阻止しますね。
それから、直ぐにではないですが、慎重に慎重にタイミングを見計らって、私は母に言いました。
「お母さん、やっぱり引っ越しは、しないから。私は、反対だから。」
私にも、そうとうの覚悟が必要でした。未来を変えないといけないのですから。
どの様な喧嘩になっても、どのようなストライキをしてでも。いや、何が起こるかも分かりません。
私の方が、代わりに、内出血であざだらけになっちゃうかもしれない。
心配で、心配で、私はご飯も喉を通らなくなりました。
でも、あの雲の道を閉じた時の母の手を思い出すと、私は守ってあげようと思ったのです。
すると、母は案外あっさりと承知しました。
「いいの?」
「実はね・・・。あの引っ越しの話は、もうお断りした所なの。」
「早く言ってよ!」
本当に、お断りした翌日だったらしいのですが、どういう作戦で阻止するか、私もピリピリしていたのでしょう。
言えなかったらしいのです。
結構、大きなお金が購入のために必要だった事。夢の日本家屋だから、何とか工面できるんじゃないかと思ったこと。
するとお父さんが会社で大きな契約をひとつ逃すことになってしまい、それで目が覚めた事。
お父さんからは、任せていたのに、そんなに欲に目がくらんでどうするのか、
それに、みもこもまだ進学するのに。みもこが可哀そうだ。と、厳しく叱られたこと。
などなど、井戸より深く反省したと言ってくれました。
そうして、私達家族の、引っ越し計画は無事にご破算になったのです。
(私が、速やかに計画反対を表明していたら、お父さんの契約の行方も違ったのかしら?ごめんなさーい、お父さん。)
それから、半年も経っていないかったと思うのですが、
ちょっと気になって、母にあの日本家屋は誰かがもう住んでいるのかしら?と聞いてみた事があります。
すると、母は目を丸くして、丁度午前中に、紹介してくれた人に街頭でばったりと会ったところで、
母もあの家の事をおなじように聞いたそうです。
「なんとね、あの家、私達がお断りしたわりと直ぐあと、
取り壊しになっちゃったそうなのよ。
もったいないわねー、あんな素晴らしい日本家屋。もう、滅多にないのに。
でも高かったから、買える人がいなくて、仕方がなく壊しましたって言ってたわ。」
「そうなのかー。まあ、冷たかったしいいじゃない。」と言ったら、
なんで、自分は見にも行かなかったくせに。と言われてしまいました。
自分が見せに来たくせにね。
(でも、本当に買える人がいないなんて、そんな理由があるのかしら?絶対ないと思うけど。)
母が他界した後、
何年も経ってですが、古い家の中はきれいにリフォームされて、
とても素敵な住み心地になりました。
父は、よくお仏壇に手を合わせて、
「どうしても、もっと早く、このようにしてあげたかったなあ。
きれいなお家に住みたいって、生きている内に、お母さんの夢を叶えてあげたかったなあ。」
と、しょんぼり肩を落として、さびしそうに、哀しみにあふれて言うのです。
人は、こんな哀しみに耐えることが怖いから、
お金を払って解決できるならと、
無理してまでも、本当に要らないものを買ってしまう。
もしくは、良い方向に変える勇気を出せないままでいたりする。
でも、素朴に哀しみに打たれているほうが、ずっと平和でしあわせだという事がある。
バーチャル・ワールドは、そんな事を教えてくれた気がします。
mimoko