懐古趣味の屋根裏

サイトからあふれたことたち

天使のカンタレラ

2008年01月23日 | 藤本ひとみ
天使のカンタレラ

銀バラシリーズの中で何故か実家から今の家に持ってきた一冊。

手始めにこれから書いていこう。

太陽のリングのオークションに参加するためニューヨークへとやってきた、いつものご一行。
光坂のみいない。
彼は銀バラを脱退するという意思をもったため今回はいない。

太陽のリング。
別名を王者のリングという。
これを身につければ、どんな相手も服従させることができるというシロモノ。
これをネタにしたストーリということで、服従、支配、というものから読んでいく。

まず、ヒロシと光坂の関係。
ヒロシは自分の価値観とは違う価値観で行動した光坂にキレる。
それに対し光坂も納得とはいかないまでも反論するものを持っていなかった。
光坂すらヒロシのほうが正論と思い、自分は間違っていたと認識し銀バラを去る。

そして神聖オーディン帝国にて。
デイアランはユメミの心を「天使のカンタレラ」という媚薬で支配する。
それは媚薬だから抵抗不可だったと鈴影に言うユメミ。
しかし鈴影は
「天使のカンタレラは確かに強い麻薬だが、もし人の心に真実の愛があるならば、それを消すことまではできないはずだ。強い愛は、何にも勝る。カンタレラにも、勝てる」
「魔が働くのは、人が心でそれを望み、受け入れた時だけだ。」
と。
つまり「支配」とはされたいと思う“被支配のココロ”があるところにしか生まれないと、鈴影は考えているわけである。

何だか総帥ここに極まる、とでも言いたいこの台詞。
人間性の完全否定。
もうここら辺写しててこっちが恥ずかしくなるような少女小説の真髄ではないですか。
まず「真実の愛」って何よ、とか。
魔がさすって便利な言葉があるでしょう?とか。
まあね、人間性を全て否定したところで成り立っている鈴影さんのプライドからしたら魔がさしたらおしまい、死をもって償うべし!なんだろうけど。
別の話で中島敦の「山月記」のことをだして人間の本能的なものを否定してたりするこの銀バラシリーズ。
それは、イコールこの鈴影さんのいきざまだからなんだろうけど。

私、銀バラの総帥決して嫌いじゃなかったんです。
というのは、総帥自身はそんな人間性をすべて否定する壮絶な人生選びながら、他人にはとても優しいと思って。
ベースは「騎士道」にのっとってかもしれないけど、自分には厳しく、人には優しくってやっぱり大人の基本なんだと今でも思う。
違う価値観をそれとして認めつつも溶け合うことはないっていうの、すっごく大人だと思う。
年齢的には十分「大人」の人(私も含め)でこういうスタンスでいられる人ってなかなかお目にかかれない。
やっぱり、特に集団生活・社会生活という場面では、どうしても否定か肯定かに偏らないと自分が保てなかったりする場合も多いからこそ余計に。

でもね、理想主義者の鈴影さんったら、ここで間違ったのよね。
っていうか、若いよ、鈴影!
ユメミは強いって信じきっていたところ。
「ディアランでなくても、たぶん、よかった。誰かに強く愛されたかった」
というユメミに対し
「君は、そんなに弱くはないはずだ。いつもいつも、オレを驚かすほどのエネルギーを持っていて、オレを刺激し、新しい世界を見せ続けてくれた君が、そんなに弱いなんて、ないはずだ」
と言っちゃう総帥。
自分でさえ揺れる思いをかかえてやりきれなさで自分を傷つけるのに、ユメミは完璧に自身の思いを常に意識し、コントロールしているなんて考えるのがね、若い!
それとも自分は総帥だからこんな思いして必死で抑えているけど、自由な身だったらすき放題できるのに、くらいの考えだったのか。
と、これはちょっと意地悪な見方かもしれないが、それにしても理想主義者とは恐ろしい。

そんなもんじゃないじゃん、鈴影さんよー
と肩をたたいて飲み屋にでも行きたい感じ。
ま、そんな人間性を否定しまくっている彼の人間らしさがちら見するところがこの物語の山場だったりするわけですが。
「好きで、たまらなく好きで、恋しくて眠れない夜を過ごしたこともある。無理にでも抱きしめて自分のものにしたいと思ったこともある。」
「たいていは、押さえられているんだが、時おり嵐のように吹き荒れて、手がつけられなくなってね。そんな時にたぶん、まちがいがおこるんだろうな」
ああ、私もいつかこんな風に誰かのことを思うことがあるんだろう、そんな夢を見ていたリアル読者世代。恋に恋していました。
人間はそんなに強くないし、そんなに思いつめることもできなくなった今でも、それでも昔は素直にそう思えていた自分がいじらくて、やっぱり読んでしまう。

それで、やっぱり「間違い」ってあるんだって思う。
人は年を重ねて、経験をつんでも、そうそう鈴影さんが思うように強くはなれないんだって思ってしまう今。